萩野篤人 連載評論『アブラハムの末裔』(第05回)をアップしましたぁ。この評論は魂の評論です。
その前に、補助線を一本、引いておきたい。それは、ひとつの疑念である。「やまゆり園事件」の犯人・植松という男は、そもそもひとを殺したのだろうか? と。もちろん、殺人という厳然たる事実を否定するのではない。また、「私が殺したのは人ではない」と本人が言うのを鵜呑(うの)みにするのでもない。だがじっさい、男は誰を殺めたというのか? 何をほろぼしたというのか? いずれは朽ち果てる、はかない肉体をか? 「肉体さえ消しちゃえばいいだろ?」とかれは言うだろうか。たしかにかれは、現実にそのひとであるところの唯一無二のものを根こそぎ奪ったのだから、これほどまでに取り返しのつかない、許しがたい犯罪はあるまい。しかし他方、かれはそのひとという当のものには指一本たりとも触れていない、とは言えないだろうか。なぜなら当のものである場所には、創造の神にも在(いま)しえず、ほかでもない、そのひと自身しか立ちえない(からこそそのひとである)のだから。それゆえ、ひとをなきものにするというおこないは、ある根源的な水準では不可能だとは言えないか。
萩野篤人『アブラハムの末裔』
こういった設問に簡単に答えられる者はいません。問いがあれば答えが求められるわけですが、この設問に関してだけは白黒の二項対立的な答えは思考停止を意味するに過ぎない。では考え続ければどうなるのか。わたしたちになぜ神学が必要なのか、なぜ哲学が必要なのか、肉体的に理解する道が拓けるでしょうね。
■萩野篤人 連載評論『アブラハムの末裔』(第05回) 縦書版■
■萩野篤人 連載評論『アブラハムの末裔』(第05回) 横書版■
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