No.133 特別展『やまと絵―受け継がれる王朝の美』展
於・東京国立博物館
会期=2023/10/11~12/03
入館料=2,100円[一般]
カタログ=3,300円
今回の展覧会は『やまと絵―受け継がれる王朝の美』展。だいぶコロナが落ち着いて美術展も以前のような活気を取り戻してきたようです。
で、やまと絵。すぐに土佐派が頭に浮かぶんですが、「やまと絵とはなんぞや?」という正確な定義は曖昧だ。どこまでも広がってしまう。今回は「やまと絵」についてお勉強するために展覧会に行ってきた。東博の特別展なのでやまと絵について学ぶには必要十分な数と質の出品数(ぶ厚い図録も含めて)でした。
やまと絵とは平安時代前期、唐絵と呼ばれる中国由来の絵画に学びながら成立し、独自の発展を遂げてきた世俗画(仏画などの宗教画ではない絵画)のことを指す。中国を舞台とする唐絵に対し、日本の風景、風物を描く絵画のことで、後に水墨画を中心とする新しい技法、理念をもつ中国絵画、すなわち漢画がもたらされると、それ以外の伝統様式に立つ着色画を主にやまと絵と呼ぶようになる。
土屋貴裕「やまと絵の成立と展開」(展覧会図録より)
わかりやすいので図録巻頭の土屋貴裕さんの「やまと絵の成立と展開」を引用させていただいた。やまと絵は倭絵とも書くように、日本独自の絵というか、日本人の好みが強く表れた絵画のことである。その対極が唐絵。字義通りなら唐時代の絵になるが唐王朝が滅びても日本人は中国からの舶来物を唐物と呼んでいた。唐絵は中国絵画、もしくは中国画の影響を強く受けた日本の絵の総称である。
もちろん中国の影響は絵だけではない。文字以前の古墳時代から日本は圧倒的な中国文化の影響下にあった。決定的なのは文字で、その後日本では平仮名が発達して日本語発音に合った言語が発達していったが、漢字移入がなければ日本語表記が生まれなかったのは言うまでもない。
聖徳太子の白鳳時代には漢字(漢文)が官僚組織に取り入れられ仏教も本格流入した。文字だけでなく思想(人間の死生観や倫理等)も中国から教えてもらったのだった。これらが奈良時代に律令制官僚システムや宗教的倫理となり、都市建築や衣服も中国由来のものになってゆく。高松塚古墳の壁画や正倉院御物を見れば白鳳時代から奈良時代にかけて日本がいかに中国の圧倒的影響を受けていたのかよくわかる。
で、歴史の授業で習ったように平安時代前期から国風文化時代になる。ただどこの国でもあることだが変化の前には前時代の文化が大きく盛り上がる。日本では平安時代初期の嵯峨天皇の弘仁・貞観時代がそれに当たる。弘仁五年(八一四年)には最初の勅撰集『凌雲集』が成立した。最初の勅撰集は漢詩集だったのである。
国風文化の兆しがはっきりするのは嵯峨から約一〇〇年後の宇多天皇時代である。寛平六年(八九四年)に菅原道真の建議によって舒明天皇二年(六三〇年)から続いた遣唐使が廃止された。その後も日本は新文化を中国から移入し続けたが直接交流はなくなったのだった。
宇田天皇時代は『伊勢物語』の在原業平が活躍した時代でもある。寛平御時后宮歌合など宮中で盛んに歌会が催されるようにもなっていた。相変わらず公文書は漢文だったが貴族らにとって機知に富んだ和歌を詠めることが、日常生活でも公的場面でも必要不可欠になっていたのである。
宇田天皇のすぐ後の醍醐天皇延喜五年(九〇五年)には最初の勅撰和歌集『古今和歌集』が成立した。ここから紫式部の『源氏物語』(一〇〇〇年頃成立)から後鳥羽院の『新古今和歌集』(一二一六年頃成立)まで続く華麗な王朝文学は一直線である。この宇田天皇時代に始まった和歌の盛り上がりを起点として、料紙や屏風などに描かれる(書かれる)王朝文学を彩ってきたのがやまと絵である。
もちろんやまと絵は突然現れたわけではない。ただその詳細な歴史をたどるのは難しい。平安初期は今から約一二〇〇年前である。大切に守り継がれた物だけが寺社仏閣や貴族らの手を経て現代にまで残った。それ以前にも和様の絵は描かれていたはずだがほとんど残っていない。平安初期にやまと絵が目立つようになるのはそれが当時最も時間と労力をかけた美術品だったからである。
最後にやまと絵の歴史をもう一度大きく振り返っておこう。やまと絵は和歌とともに生まれるが、和歌以外のさまざまな文芸、そしてさまざまな美術品との交渉を経て、次第に和歌から離れ、独立した主題として描かれるようになった。(中略)応仁の乱も起こった十五世紀半ば頃が、やまと絵にとって一つの大きなターニングポイントだったといえるだろう。
これに続くやまと絵の転換点は、十六世紀末、土佐光元の戦死による土佐家断絶と諸派によるやまと絵の参入である。これにより、安土桃山、江戸時代には、やまと絵は制作層を爆発的に広げていく。さらに明治時代になり、西洋絵画の導入により和漢の構図が崩れ、日本画という新たな概念が登場することで、やまと絵は漢画などとともにこの日本画に吸収され、その歴史的使命を終えることになる。
同
土屋さんが書いておられるように、やまと絵の全盛期は王朝文学が最も隆盛した平安中期から後期である。しかしその後の展開は複雑だ。細かく見ればやまと絵全盛期からして複数の要素が入り混じっている。
平安時代に朝廷は画工司、後の宮中絵所という絵画機関を設けてそこに所属した絵師たちに屏風や障子絵などを描かせた。ただし飛鳥時代以降、公的に最も重要とされたのは仏画だった。残っている物から言えばその歴史の方が長い。彼らが没交流だったわけではない。両者は早い段階から影響を与え合っている。やまと絵が仏教的主題を元に制作される場合もあるし、仏画にやまと絵の技法が使われることもある。展覧会に多くの仏画が出品されているのはそれゆえである。仏画の背景にやまと絵の影響が見られる。
またいつの時代も絵師によって得意不得意はある。平安絵画は天皇や高位貴族の依頼で作られた物が多いので当代一流の専門絵師が手がけている。ただやまと絵の絵師がまったく仏画を描かなかったのか、仏画絵師がやまと絵を手がけることがなかったのかはわからない。気楽な個人的依頼なら描いた可能性はある。やまと絵の定義は「世俗画(仏画などの宗教画ではない絵画)」だがそれは絵画の一応の様式区分である。厳密な職種としてやまと絵師がいたわけではない。
凄惨な平家争乱により鎌倉時代から室町時代にかけて無常観を中心に据えた禅宗が一世を風靡した。それと共に現れたのが世界を墨一色で表現する水墨画である。絵画から色が失われる事態は尋常ではない。禅宗が盛んだった中国と日本でしか起こっていない。この水墨画の流行によってやまと絵の定義も微妙に変ってゆく。「墨画を中心とする新しい技法、理念をもつ中国絵画、すなわち漢画がもたらされると、それ以外の伝統様式に立つ着色画を主にやまと絵と呼ぶようになる」。必ずしも王朝和歌や物語に基づかない着色風景画や人物画もやまと絵に加わった。
雪舟や雪村が禅僧だったように水墨画は一種の宗教画であり画僧が手がけた。彼らが世俗画のやまと絵を描くことはなかった。室町初期の南北朝時代になると土佐家が宮中絵所の役職につき室町末期までの約二百年間その地位を世襲した。やまと絵と言えば土佐派が思い浮かぶのはそのためである(分派に住吉派がある)。水墨画(禅画)が盛んで土佐家(土佐派)が宮中絵所に君臨した室町時代が、一番やまと絵と漢画(唐絵系の中国絵画)の区分がはっきりしていた時代だろう。やまと絵は官職で世襲流派だったからである。ただし土佐派がまったく仏画を手がけなかったわけではない。
日本ではよくあることだが外国から刺激的新文化がもたらされると、日本人は当初はそれを熱狂的に受け入れる。江戸時代までの近世だけではない。現代でも同じである。中国人やフランス人になったかのように新文化を真正面から受け入れる。しかし熱狂的受容期が過ぎるとそれはすーっと日本文化に吸収されてゆく。水墨画も同じでじょじょに当初の宗教性は失われ絵画技法の一つになっていった。専門はあるが多くの絵師が水墨画の技法を使うようになった。
土屋さんが書いておられるように「やまと絵の転換点は、十六世紀末、土佐光元の戦死(永禄十二年[一五六九年])による土佐家断絶と諸派によるやまと絵の参入である」。豊臣秀吉(当時は木下藤吉郎)の但馬攻めに加わった土佐派総帥・光元が戦死してしまったのである。かなり形骸化されていたが光元の戦死とともに流派としてのやまと絵はいったん途絶えた。代わりに絵画界に君臨したのが狩野派だった。光元の門人・土佐光起が朝廷絵所に復帰するのは江戸初期の承応三年(一六五四年)のことである。
狩野派は狩野正信を始祖とする。室町幕府の御用絵師として頭角を現した。為政者が変われば没落する家や人は多いが狩野派は室町将軍の正統後継者を自認する織田信長、豊臣秀吉、徳川家康によって引き続き御用絵師として取り立てられた。
狩野派の骨格は中国絵画である。古い唐絵から水墨画、当時は直近の明絵画までありとあらゆる中国絵画の技法を取り入れた。その一方で闘いに明け暮れた戦国大名の気質に合った大胆な絵を作った。狩野派二代の元信は土佐光信の娘を妻に迎えている。日本の水墨画や土佐派の技法も学んでいた。土佐派の断絶によって狩野派が漢画・やまと絵を統合した絵師集団として一世風靡したのだった。
狩野派が盤石の絵画集団(権威)となる江戸初期以降はやまと絵とその他の絵画の区分は曖昧になる。専門はあっても絵師たちは様々な絵を書いた。今回の展覧会の出品物がおおむね桃山時代以前に区切られている理由である。
とっても乱暴なことを言えば、日本人好みの絵画であるやまと絵は歴史の彼方に霞んで見えない古い時代からなんらかの形で存在している。その骨格が出来上がったのは平安中・後期だがそれ以降は様々な中国絵画技法にマージされ、仏画、風景画、人物画など異なる絵画ジャンルで活かされていった。ティピカルなやまと絵はこんな作品と名指しすることはできる。しかしその展開は複雑である。
今回の展覧会は名品揃いなので見るだけでも楽しい。ただ平安時代のコーナを越えると混乱してくるのではなかろうか。「これもあれもやまと絵なの?」という感じになると思う。これは東博展覧会が研究成果の発表の場でもある以上、ある程度仕方のないことである。やまと絵の発生と展開というテーマを決めて、それを詳細に各時代の作品に探っている。
ただ今回のように簡単そうで複雑な展覧会を見る時には軸を抑えておいた方がいい。やまと絵は王朝和歌と物語文学の発生と同時にその基礎を確立した。人物や建物、風景描写がその後の絵画に大きな影響を与えた。また和歌の骨格は部立である。それをはっきり示したのが『古今和歌集』であり『古今』は春夏秋冬と恋の部立から構成される。季節の循環性と人間の妄執と言い換えてもよい。
多くの風景画が春夏秋冬の移ろいを一画面で表現している(後に季節ごとに分かれてゆく)。それが日本人が古代から求め続けている精神性である。季節の循環で表象される調和的世界観を日本人は理想の精神的境位として来た。この循環的世界観は仏画や絵巻物でも表現される。それを泡立たせるのが妄執である。恋や争いだがその中にも季節の巡りに表象される循環的世界観が表現されている場合が多い。
人間世界は残酷で無情だ。しかしそれらは大いなる調和的循環性に収斂するというのがやまと絵最大の思想である。そんな思想が端的に表現された作品を追いながら、派生的影響の作品を見てゆけば混乱は最小限に抑えられるのではあるまいか。
文字だけでは寂しいので、ここからはササッと今回の展覧会の目玉出品を見ておきましょう。
『源氏物語絵巻 夕霧』
紙本着色 縦二一・八×横三九・五センチ 平安時代 東京・五島美術館蔵
最もやまと絵らしい作品はやはり『源氏物語絵巻』だろう。王朝物語文学最高峰の紫式部『源氏物語』を絵画化した最古の作品である。現在は断簡になっていて徳川美術館と五島美術館に収蔵されている。『源氏』執筆からそう遠くない時期に描かれたと推定されている。詞書が書かれた料紙も素晴らしい。この作品の人物描写の引目鉤鼻、室内を上から見下ろす吹抜屋台などの技法がその後の絵画に引き継がれていった。ただそんなことは知らなくても『源氏物語絵巻』は目に残る。傑作なのである。
どこかで図版を見たことのある人は多いと思うが、実物を見た人はその小ささに驚かれるだろう。もの凄く時間と労力をかけた作品に違いないが少人数で楽しむために作られた絵巻である。恐らく最高位の姫君の楽しみのために制作された王朝絵巻の最高峰である。
『日月四季山水図屏風』
六曲一双 紙本着色 各 縦一四七・〇×横三一三・五センチ 室町時代 十五世紀 大坂・金剛寺蔵
やまと絵の中核思想である季節の循環性と調和的世界観が遺憾なく表現された山水画である。『源氏物語絵巻』と打って変わって実物を見た人はその大きさに驚くはずだ。右から左に移ろう季節、なだらかな曲線、遠近法を使わない描写、抑えた色調など和様の絵の特徴がほぼ純粋に表現されている。山水画(風景画)だがこの絵はある種の精神性、宗教性を喚起させる。これほどの傑作なのに作者はわかっていない。室町時代は水墨画全盛期だがその対極としての日本的精神を表現した傑作中の傑作である。
『伴大納言絵巻 巻上』伝常磐光長筆
一巻 縦三一・五×横八三九・五センチ 平安時代 十二世紀 東京・出光美術館蔵
平安時代前期の貞観八年(八六六年)に起こった伴大納言の応天門の変を描いた長大な絵巻である。宮廷絵師の常磐光長が後白河天皇の命で描いたと言われる。後白河天皇(法王)自身は平安末期の人だが源平争乱の中心人物の一人だった。帝王らしい帝王の一人である。源頼朝が法王を「日本第一の大天狗」と言ったことはよく知られている。乱世を権謀術策で渡り切った。
文化面では今様の『梁塵秘抄』を残したことで知られる。帝王としては珍しい和歌嫌いで残酷な世相と反比例するような浮世の享楽を愛した。後白河周辺で制作された絵画・絵巻は多い。今風に言えばサブカルに造詣の深い帝王だった。
『伴大納言絵巻 巻上』は燃えさかる応天門とそれを見る大勢の野次馬たちの姿から始まる。明らかに炎と群衆を描きたかったんだなとわかる絵巻である。世俗画としてのやまと絵を代表する作品である。絵巻は変の発端から世の中が秩序を取り戻すまでを描いている。
『辟邪絵 神虫像』
紙本着色 縦二五・八×横七〇センチ 平安時代 十二世紀 奈良国立博物館蔵
人間に害を及ぼす悪鬼を退けてくれる辟邪を描いた絵である。ただし中国伝来の神様である。辟邪は善神ということになるが絵はおどろおどろしい。水木しげるさんのマンガのようでもある(もちろん水木さんがこういった絵の影響を受けているわけだが)。見る人を怖がらせるために描かれた絵であるのは間違いない。
平安後期になると『病草紙』や『地獄絵図』などの怖い絵(絵巻)が増える。浄土があるならその対極としての地獄がなければならないということだが、いつの時代も変わらぬ人々の怖いもの見たさの欲求を満たす絵でもある。ただ絵に迫力があるのは絵師も含めて人々が地獄を心から恐れていたからである。地獄絵図などはずっと描き継がれてゆくがやはり平安時代のそれが最も優れている。
『伊勢物語下絵梵字経』
紙本墨画 [春日の里]縦二一・九×横四二・五センチ 鎌倉時代 十三世紀 大阪・逸翁美術館蔵
素晴らしい仏画も数多く展示されているが、『伊勢物語下絵梵字経』はやまと絵と仏教の融合という点で面白い作品である。墨絵だけで描いた絵を白描と呼ぶが『伊勢物語』の「春日の里」の絵が描かれている。ただし色を塗らないで放置された作品ではない。素人の手になる絵だと推測されている。
貴族の姫君が手すさびで『伊勢』の絵を描き、その後亡くなったので供養のために絵の上に梵字仏経典を捺した作品だと考えられている。白描やまと絵としては最古の部類に属する。当たり前だがコピー機ができたのはつい最近のことで、それまでは文字や絵を筆写するしかなかった。貴族らは書を学ぶのは当然として絵もたしなんでいた。デパートなどがないわけだから絵を描けなければこんな物を注文したいと思っても伝えられなかったのである。絵の素養があった姫君が楽しみのために描いた『伊勢』だろう。
感覚的に言うと横と縦の流れが美しい。やまと絵系の絵画は四季の循環性を基本とするので横に横に流れてゆく。それに対して漢字(梵字)経典は縦の強いラインになる。円を描くような日本的心性に対して仏教は現世を極楽と地獄という縦ラインで貫いている。そんなことを感じさせる作品である。
『貴紳邸宅図(伊勢物語図)』
一幅 絹本着色 縦八一・二×横三九・七センチ 鎌倉時代 十三世紀
最後は個人的に大好きな作品を。『貴紳邸宅図(伊勢物語図)』は『伊勢物語』第八十三段「小野の庵」を絵画化した作品である。文徳天皇第一皇子でありながら後ろ盾がなく、皇位に就けなかった惟喬親王が突然出家したと聞き、在原業平が比叡山麓の小野の里を正月に訪れた場面を描く。
在原業平もまた失意の人。父は平城天皇第一皇子の阿保親王だから皇統に属するが生涯冷や飯食いだった。それもそのはずで平城天皇は平安京から平城京に遷都するという詔を出し、薬子の変に破れ失脚して蟄居となった。業平はその煽りを受けたのである。
業平は菅原道真と藤原時平が編纂した『日本三大実録』に、美男子だが出世に必要な学問(漢学)の素養はなく、女を口説く和歌は上手い、という意味の人物評を書かれた。現世的には失意の人だが王朝和歌は業平から始まり王朝物語文学は『伊勢物語』から始まる。現世とは違うセオリーで動く文学(文化)の本質を体現したかのようなお方である。
『貴紳邸宅図(伊勢物語図)』は寂しい。業平は上の方に小さく描かれている。従者は傘をさしかける一人だけである。前傾姿勢で急いでいるように見える。なぜ広大な屋敷を描き業平主従をこれほど小さく描いたのか。最も優れた『伊勢物語』の絵画的解釈の一つである。
鶴山裕司
(2023 / 11 /22 19枚)
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