安田登さんの連載「能楽師の勝手がたり」を毎回楽しく読ませていただいています。Wikiによると安田さんは昭和三十一年(一九五六年)生まれで下掛宝生流ワキ方能楽師です。中国文学にもお詳しく『論語』を学ぶ寺子屋も開いておられます。
僕だけではないと思いますが年を取ると不思議と能を観る機会が増えてきます。誘われてなんとなく能楽堂に足を運んだりするんですね。子どもの頃に学校などで教育の一環として能や狂言を観たことのある人も多いと思いますが大人になって改めて観ると能はちょっと衝撃的です。いかに欧米式の演劇に慣れ親しんでいたのか痛感してしまう。
当たり前のことを言いますが能舞台には幕がありません。吹きさらしです。地唄や囃子方の人たちが着座してワキが現れて舞台が始まるわけですが後段になるとシテが登場して舞いながら謡うのが一般的です。ワキは役割を終えるわけですがたいてい舞台からハケない。シテの後方で座っています。クライマックスでワキに再び役割が与えられることもありますが最後までじっと座ったままということもある。
ではどうやって劇を終えるのか、シテがピタリと動きを止め囃子方と地唄の音も消える。ちょっと間を置いてシテとワキが舞台からハケてゆきぞろぞろと囃子方と地唄が続く。見慣れている演劇のクライマックスのようなものはありません。初めて頭から終わりまで観ると「ええっこれで終わり?」と思ってしまうような終幕です。
まあ言ってみればどっぷり欧米文化に慣れ親しんだ現代日本人にとっては能はかなり強烈なカウンターカルチャーであるわけです。しかしなんやかんや言って日本人ですからその気になればそこそこ能楽を理解できる。ちょっと奇妙な言い方ですが「日本人に戻ればいい」わけです。
もちろん最後まで欧米文化式の日本人として生きてもいいわけですが老年になるにつれじょじょに出自が現れてくることもあります。荷風の日記『断腸亭日乗』は晩年になると天気の話題が多くなる。最後は晴れとか曇りしか書いてないこともある。確か亡くなった翌日の天気も書いてあったんじゃないかな。ものすごく季節や気候に敏感なわけでそういうところから日本人的なものが忍び込んで来るのです。
今号の安田さんの連載「能楽師の勝手がたり」では『通小町』を取り上げておられますが作品特集で連載がなかったので四月号は『卒塔婆小町』でした。言うまでもなく絶世の美女と謳われた小野小町と深草少将の悲劇を題材にした能です。小町は『古今集』収録の「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に」などが有名ですね。平安前期の人で実人生の機微がわからず伝わった和歌に恋歌が多いので深草少将を始めとする様々な伝承や奇譚が後世に生まれました。
深草少将の悲劇は小町の高慢さを伝える伝説として有名です。少将は盛んに恋文を送りますが小町はつれない。それでも恋文を送り続けると「百夜訪ねて来てくださったらお心に従いましょう」という文が届く。少将は小町の屋敷に通い続けますが百夜目は大雪で寒さで凍死してしまう。小町は男たちを虜にする美貌の持ち主でそれゆえ容色の衰えを嘆く「花の色は」の歌が活きてくるわけです。
能『卒塔婆小町』では高野山の僧であるワキが朽木に仏様を刻んだ卒塔婆に腰かけているみすぼらしい老女を見つけます。言うまでもなく年取って零落した小町です。僧は老女を責めますが怯まない。僧と老女の相論が始まりあげくに老女は「極楽の內ならばこそ悪しからめ/そとは何かは苦しかるべき」と言って僧侶を論破してしまいます。高野山の僧侶は当時最高の知識人ですがそれがみすぼらしい老女に言い負かされてしまうのです。
平安物語文学や日記を読めば当時の人々が極楽往生を願って一心不乱に仏に祈っていたことがわかります。しかし能楽が今のような形で定着したのは夜討ち裏切りが横行した室町前期の南北朝時代です。高野山僧侶と老女の相論は人々がもはや仏の救済を信じていないことを示唆しています。小町の認識は「この世は本来一物なし」の虚無主義です。僧侶もそれを肯ってしまう。
後段ではシテの小町が舞い謡った後に舞台上で深草少将の装束を着ます。安田さんは「多くの能では亡き人の衣を着ると、その人に憑依されます」と書いておられます。主人公は老女の小町だったはずなのにそれが深草少将に変わってしまう。現代では唐十郎などが得意とする演出ですが現代劇はシーケンシャルに物語が進みますから現代人から見ると前衛的とも言えますね。
衣を着ることで深草少将に憑依され、その百夜通いの再現をさせられる。それによって小町は初めて少将の苦しみを体感する。(中略)
しかし、能ではここで突然トーンが変わり、小町が仏道に入ったことが詠われて終わります。
これにつけても後の世を。願ふを誠なりにける。
砂を塔と重ねて。黄金の膚こまやかに。
花を仏に手向けつゝ。悟りの道に入らうよ。
安田登 連載「能楽師の勝手がたり」第七回「百年の姥となりて候」
これが能楽の醍醐味です。小町が成仏するところがクライマックスではありません。そんなものは能のお約束に過ぎない。延々と小町と深草少将が現世の苦しみをかき口説くところが能最大の見所です。現世に救済などないということです。
比喩的に言えば劇を観終わった観客は「ああよかった成仏した」と胸を撫で下ろしますが次にまた『卒塔婆小町』を観ると相変わらず小町と少将が現世の苦悩をかき口説いている。それを凄惨な闘いを繰り返していた当時の貴人(武士や貴族)たちがはらはらと涙をこぼしながら熱心に観ていたわけです。
『通小町』の題材も深草少将の悲劇です。観阿弥・世阿弥作ですから能の定番の一つですね。複式夢幻能で亡霊二人が登場します。後段でシテの深草少将とワキの小町が舞いながら謡います。この能の少将の怨念は強烈です。小町は成仏を願うのですが少将は「さらば煩悩の犬となって、打たるると離れじ」と小町の袖をつかんで離してくれない。
さて、ここからふたりの運命やいかに・・・・・・というところで能の詞章は急に調子を変えます。能の詞章を見てみましょう。
「飲酒は如何に。月の盃となりとても、戒めならば保たんと」
紅の狩衣で着飾って、さあ小町の元に行こうというときに、この詞章は変ですね。能ではこの詞章に続いて、以下が詠われ、ふたりは一挙に成仏への道を歩んでしまうのです。
「唯一念の悟りにて。多くの罪を滅して小野の小町も少将も。共に仏道成りにけり」
安田登 連載「能楽師の勝手がたり」第八回「飲酒は如何に。月の盃となりとても」
『通小町』でも成仏がお約束に過ぎないのは言うまでもありません。死後も現世の苦悩は果てしなく続く。ただ成仏で終わるというお約束が室町前期という時代の精神を表しています。
極論を言えば日本文化には仏(神的存在)による救済はありません。仏教も儒教も中国からもたらされた外国文化(思想)であり日本人はそれを額面通りには信じていない。現世は残酷な苦界です。もちろんそんな苦しみに人間は耐えられない。その苦しみからなんとか超脱しようとするのが日本文化のダイナミズムだと言えます。
室町中期になると和歌から連歌が生まれ江戸初期の芭蕉に至ってそれが新たな文学として成立します。俳句は季語を含む最短形式の五七五であり原則として叙景です。和歌のようにわたしはこう思うこう感じるを詠むことができない。叙景とは言ってみれば小町「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に」の「眺め」です。強い諦念を持って現世を眺めている。相対化している。作者は生きていますがあの世(死後の世界)から現世を眺めたような表現です。
これも極論を言うと俳句の成立は和歌の窮極的な近代化だと言えます。日本人は仏教的な救済を捨てて(否定して)裸眼で現世を見つめることを始めたわけです。そこにはもちろん禅の浸透が大きく影響しています。また和歌と俳句の別れから見れば短歌がどのような文学表現であるのか分かるはずです。
短歌は現世の苦悩を詠う。救済はない。俳句のように死後の世界から現世を表現することはできない。比喩的に言えば短歌で人は死ねない。死の間際まで苦を詠う。しかし救済はどこかにある。苦の極点で静謐な世界が一瞬現れる。能が描いている仏道による救済は嘘ではないということです。しかしそれをぴたりと仏教に重ね合わせることはできない。
なんだかモヤモヤしますね。何を言っているのかわからないかもしれません。でもこのモヤモヤは能を観た時のそれに重なります。短歌と能楽は近しいのです。
高嶋秋穂
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