道浦母都子さんの「連載 挽歌の華」は第六回目。毎回楽しく興味深く読ませていただいています。挽歌は言うまでもなく死者を悼む歌。葬送歌です。
死は人間にとって一大事です。死は一個の存在の活動の停止でありすべてを無に帰してしまう。無そものものです。決定的出来事であり起こってしまえば取り返しがつかない。ただ当たり前ですが当人は死を経験することができません。死を体験し表現できるのは生者だけです。
筆硯煙草を子等は棺に入る名のりがたかり我れを愛できと 与謝野晶子
元来、ナルシストである晶子ではあるが、亡くなった人を前に、この人が一番愛したのは私。そう断言できる晶子には、驚くというより敬服の念を抱く。
道浦母都子「連載 挽歌の華」第一回
連載は与謝野晶子の夫鉄幹の死を悼む歌から始まりました。これは象徴的ですね。愛する人の死を嘆き悲しむ絶唱ではなく愛された私を詠っています。鉄幹の思想(広い意味での)はその死によって完全に消滅しました。が愛された私は残っている。愛する人とはいえ他者の死から始まるわたしの生が詠まれているわけです。道浦さんの連載の基調低音でしょうね。
動亂の春のさかりに見し花ほどすさまじきものは無かりしごとし 齋藤史
二・二六事件のあった年、史は妊っていて、五月に長女章子を産んでいる。妊った身で将校たちの話を聞く史には、さくらの美しさより、さくらのすさまじさ、世の困難が身にしみたであろう。
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革命歌うたえぬままに信じたき思いにて組む腕は強く腕に 岸上大作
一九六〇(昭和三五)年十二月五日の自死は、失恋と政治的挫折と一般には言われているが、私は異なった見解をもっている。
「大作は東京へ行きたかった。私と祖父とのいさかいを毎日見るのが嫌だったんや」。
岸上の墓に行く途中、まさゑさん(大作母)は、家の様子を細々と話して下さった。その後、全集を読み返して、母のうたが多いのに驚いた。岸上は、母を捨てた、毎日のように祖父にあらがう母を捨てたことを、いちばん苦しんでいたのではないか。
「連載 挽歌の華」第二回
第二回で取り上げられたのは齋藤史と岸上大作の歌。これがなぜ挽歌なのかと言えば他者のものであれ自己のものであれ痛切な挫折を詠っているからです。
二・二六事件であれ六〇年安保であれそこには当事者固有のものにせよ一つの正義がありました。しかしそれは相対的です。常に対抗する大きな力によって揺さぶられ押しつぶされる。人間の精神に死が紛れ込むのです。
わたしたちはしばしばテレビで「不当判決」と大書された紙を掲げて裁判所から走り出てくる人を見ることがあります。なぜ不当判決なのか。時には法に照らしても必ず勝つはずの裁判に敗訴することがあるからです。社会問題や政治闘争はいとも簡単に大きな力で押しつぶされたりする。その時普遍に美しい桜は「すさまじきもの」であり信じられるのは「組む腕は強く腕に」だけでしょうね。しかしそれにより精神は死を経験するわけです。
新しき妻とならびて彼の肩やや老けたるを人ごみに見つ 中条ふみ子
長男の後に次男を出産するが生後二ヶ月半で死亡。二十三歳の年、長女雪子を出産。その頃から、夫と不和となる。二十四歳で短歌誌「新墾」に入会。(中略)
先に掲げた一首は、離婚後の作だが、寂しさや悔しいみが、一切感じられない。どちらかというと、私と一緒のときの方が幸せだったでしょ、と語っているかのようだ。
中条ふみ子の本質は、その辺りにあると私は考える。自己中心的で、自信家。
「連載 挽歌の華」第三回
中条ふみ子は言うまでもなく『乳房喪失』の著者。道浦さんは「メスのもとひらかれてゆく過去がありわが胎兒らは闇に蹴り合ふ」「もゆる限りはひとに與へし乳房なれ癌の組成を何時よりと知らず」の病中詠も掲げておられます。ただ中条さんの歌が読み継がれているのは彼女が乳癌で亡くなったかわいそうな人だからではありません。残酷なまでに自らの病気を見つめ死に向かう生を描いたからです。その背景にあるのが「新しき妻とならびて彼の肩やや老けたるを人ごみに見つ」のような歌でしょうね。
道浦さんが書いておられる通り「中条ふみ子の本質は(中略)自己中心的で、自信家」。与謝野晶子と同質ですが女性だからというわけではないと思います。歌と歌人の本質だからではないでしょうか。
死にて後愛さるるなどさびしすぎ拾ひ上ぐ雪の中の朱い草履を 石牟礼道子
白い雪の中に残った赤い草履。視覚的にも激しさが感じられる一首。短歌仲間の自死のあと、こんな挽歌が残されている。
おとうとの轢断死体山羊肉とならびてこよなくやさし繊維質
これは事実だろう。弟の事故死。だが、このようにリアリズムとはいえ、表現できるだろうか。私にはできない。見たくもない。彼女の中にある「猛獣のようなもの」が、かっと瞳を見開き弟の死体を見たのだろうか。
「連載 挽歌の華」第六回
石牟礼道子さんはちょっと特異な作家です。短歌・俳句・自由詩・小説とほぼすべての文学ジャンルの仕事を残し水俣病のルポルタージュを書いたことでも知られます。ただまったく理論家ではありません。表現主題に応じて文学ジャンルを選択した。その表現欲求の源にあるのが「死にて後愛さるるなどさびしすぎ」の激情と「おとうとの」で表現された冷たく残酷な視線でしょうね。
道浦さんの連載は挽歌を取り上げていますが作家論でもあります。歌人の生の本質が浮かび上がるような歌を取り上げておられる。またその歌は自己の死の予感を巡るものであれ他者の死を悼むものであれすべて生の強さを表しています。死を観念として捉えた歌はほとんどありません。
人間が死を体験しそれを表現できないのは当然です。ただだから短歌は死に向かう自己と他者の死を詠っているのだとは言えないように思います。比喩的な言い方になりますが短歌から派生した俳句はある意味死に属しています。現世を遠く離れた彼岸から人間の営みを達観的に描き出す表現です。こういう言い方をすると叱られるかもしれませんが俳人は生きながらすでに死んでいるようなところがある。そのような心性でなければ俳句は強さを持ち得ない。
ひるがえって短歌はいつまでもどこまでも人間の生に属しています。これも比喩的に言えば歌人は死ぬことができない。だから短歌は死と相性がいい。いくら書いてもどんなふうに書いても死に到達できないからです。挽歌は確かに短歌の華でしょうね。
高嶋秋穂
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