今月号では「特別企画 生誕160年 落合直文」が組まれています。落合さんについては『孝女白菊の歌』の作者であることと森鷗外・井上通泰・三木竹二(鷗外弟)・小金井喜美子(鷗外妹)・市村瓚次郎の新声社(S・S・S)の訳詩集『於母影』に参加しているという以外ほとんど知りませんでしたからとても為になる特集でした。
落合直文は文久元年(一八六一年)陸奥国本吉郡北方松崎村片浜(現・宮城県気仙沼市字松崎片浜)生まれ。生家・鮎貝家は仙台藩伊達家の重臣。当時としては比較的裕福で気位も高い武士の子弟ということになります。
明治維新の時(一八六八年)に満七才。当時は数え年ですから八歲という自己認識だったでしょうね。廃藩置県が行われた明治四年まで武家の子弟らしく四書五経を学んでいます。御一新後は本格的に国学(国文学)を学ぶことになった。直文は次男だったので仙台で仙台中教院を主宰していた落合直亮の養子となります。直亮は伊勢神宮禰宜に任命されますから神官としてもトップクラスの人物でした。
直文の文久元年(一八六一年)生まれというのはなかなか微妙です。森鷗外は文久二年(六二年)生まれですからほぼ同世代です。森家は津和野藩藩医の家系ですがともに武士の家。明治維新までわずか七八年ですが当時の武士の子弟は三歲頃から四書五経中心の漢学を叩き込まれました。子どもの頃に武士としての骨格ができあがっていたわけです。当然のことながら後々まで影響することになります。
明治文学というより日本近・現代文学の基礎を作った文学者たちは慶應四年・明治元年生まれの作家たちです。尾崎紅葉・幸田露伴・正岡子規・夏目漱石が代表格です。紅葉と露伴は明治三十年代に紅露時代と呼ばれる全盛期を迎えます。ただ彼らは基本的に文語体作家だった。露伴は太平洋戦争終結後の明治二十一年まで生きましたが小説家としての生命は明治時代で尽きてしまった。しかし二人が明治の新しい文学の先駆けであったのは確かなことです。
子規と漱石は写生文学の継承という点でひと連なりの文学系譜として考えることができます。子規は明治三十五年に亡くなりますが漱石は子規と入れ替わるように明治三十八年に『吾輩は猫である』で作家デビューしました。明治三十八年の島崎藤村『破戒』と漱石『猫』が日本近・現代小説の実質的スタートだったのは言うまでもありません。
漱石は小説『野分』で明治四十年までの文学はことごとく文学史から消えるだろうと予言しています。なぜなら明治四十年までの文学は新たな文学動向の初期に当たるからです。そこでの評価は僥倖と偶然の賜物であり後世にまで影響を与えるものではないと断言している。実際その通りになりました。今ではよほどの数寄者でなければ紅葉や露伴の小説を好んで読む人はいません。漱石以降の文学が現代文学の基盤であり明治四十年代から現代までは一続きなのです。
鷗外は明治二十三年に文語体小説『舞姫』で彗星のように文壇デビューしましたが明治四十二年の言文一致体小説(口語体小説)『半日』までほとんど小説を書いていません。ほぼ二十年近くに渡って小説を断筆していたのです。
それには理由があります。鷗外にとって文語体から言文一致体への移行は単なる文体変更ではなかったのです。それをやるには江戸以前の文化から明治維新後の文化への大きな認識転換を必要としました。露伴を始めとする作家たちはそれができなかった。特に幕末生まれで物心ついた時から漢学や儒学を叩き込まれた子弟はそうでした。直文も鷗外と同様の精神基盤を持っていたと考えられます。
梶原 この方の一番の功績は、新しいものと古いものの両方を結び付けたことかなと思っています。新しいものが出たらぱっと新しい方に行っちゃいがちなところを、自分はやや新派寄りだけど旧派は捨てないということを言っている。辞書の編纂もそうですけど、今使っている言葉とか調べとか受け継がれてきたものもすごく好きなんだと思います。一方で、包容力、鷹揚さとか好奇心もあって、新奇なものをすぐ取り入れるというものもある。文明開化の時代ですが、古いものは捨てないで結び付けようと。だから折衷派みたいに言われるけれども、こうした態度はすごく貴重だったのではないか。こういう人がいたから、いろいろなものがその後も続いてきたところはあると思います。人もずいぶん結び付けていますし。その根っこには教育者の意識というか、みんなに自分の知っていることを伝えたいし、皆を結び付けたいという気持ちが、創作者で自分だけのものをというところより勝っていたのかなという思いはしています。
『鼎談 未来につなげる落合直文――みなおもしろし』今野寿美/吉川宏志/梶原さい子
特集の鼎談の梶原さい子さんの発言は必要十分な直文評になっていると思います。梶原さんは留保を付けておられますが直文は基本〝折衷派〟です。というか明治二三十年までの文学は怒濤のように流入する新奇な欧米文学と従来の日本文学の折衷でした。新たな文化の受け入れ基盤を作ることに費やされた。もちろん直文は国文学者でもありましたから従来の文学との整合性を取りながら新文化を移入しようとした。その点も鷗外と同様です。
阿蘇の山里秋ふけて
なかめさひしき夕まぐれ
いつこの寺の鐘ならむ
諸行無常とつけわたる」
をりしもひとり門に出で
父を待つなる少女あり」
袖に涙をおさへつゝ
憂にしつむそのさまは
色まだあさき海棠の
雨になやむにことならす」
落合直文『孝女白菊の歌』冒頭
よく知られた直文『孝女白菊の歌』冒頭です。哲学者詩人・井上哲次郎の漢詩『孝女白菊詩』を和文に翻案した作品です。哲治郎作品よりも直文作の方が遙かに人口に膾炙しました。
『孝女白菊の歌』は単なる漢詩から和文への翻案ではありません。明らかに明治の新しい詩――新体詩と呼ばれることになります――を生もうとした実験作です。新体詩は実際直文『孝女白菊の歌』の文語体七五調で推移してゆくことになります。
直文は明治三十六年に満四十二歳で夭折してしまいますからその後の彼の文学がどうなったのかは誰にもわかりません。ただ門下生で明治六年生まれの与謝野鉄幹文学との質的差異は明らかです。
直文は時代に合わせて新たな日本文学を模索していったでしょうが『明星派』以降の斬新かつ無防備で急進的な方向は取らなかったでしょうね。鷗外が自然主義小説の模倣で言文一致体小説作家として再デビューしながら歴史小説を書き最晩年には江戸群小儒者の史伝を書くことに精魂傾けたように幼年時代に叩き込まれた精神基盤に回帰していったような気がします。
名もしれぬ小さき星をたづねゆきて住まばやと思ふ夜半もありけり
君とわれただ二人して眺めたる今宵の月よいつかわすれむ
よべ見て人恋しさに来れども月のみてれり磯の松原
をとめ子が泳ぎしあとの遠浅に浮輪の如き月浮びきぬ
少女子が繭いれおきし手箱よりうつくしき蝶のふたつ出できぬ
こういった直文の歌が『明星』的抒情表現に影響を与えたのは確かでしょうね。しかし鉄幹・晶子の強烈な自我意識短歌に進んだかどうかは微妙です。恐らくそうはならなかったのではないか。
おくところよろしきをえておきおけばみなおもしろし庭の庭石
今回の特別企画を読んで直文はよい歌詠みだったのだなと感心しましたが代表歌をあげるなら「おくところ」でしょうね。内容的にも修辞的にもとても端正です。歌から立派な人だったことが伝わって来ます。
高嶋秋穂
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