(イントロ)
静かな犬が
私のかたわらにうずくまっている
私の犬ではない
おそらく誰の犬でもないだろう
(間奏)
静かな犬は
もの問いたげに私を見上げる
恨みや諦めの色のない眼
私より上等な魂
いのちはすべて自然の無言に抱かれ
生きて滅ぶ
言葉を持ってしまったヒトだけが
こうして自然に逆らっている
(間奏)
空気が身じろぎする
小川が河に合流する
思い出の花の香り
子供の遊ぶ声・泣き声
(間奏)
静かな犬は
静かに待っている
次に来る何かを
何の期待も幻想もなく
(アウトロ)
表題曲「静かな犬」は4つのスタンザに分割されている。イントロアウトロを含めた間奏のピアノラインは、四分音符で一音ずつ上がり下がりする。その階段状の構造のためか、一聴して歩調のような印象を受ける。そこから曲の風景が構築される。階段は螺旋形に設えられ、まるで大きな灯台の円筒状の内側を、魂の底を目指して降りていくような慎重な足音が空に響く——。ひとりの聴き手の勝手な想像にすぎないが、観想的な詩句に支えられているとも思う。ただ、「私」なるものが歩行しているという部分は大いにソングライティングに起因する。谷川俊太郎の「静かな犬」の詩行をためつすがめつ眺めていても決して得られなかったイメージだと思う。
詩は私が傍らの犬に一瞥をくれるところから始まる。犬が一瞥を返す。目が合う。犬がまたそっぽを向く。それだけ。「私」はその一瞬の目線の出会いに、犬の瞳の先に、真理を見る。「私」の目はこの星を一回りして、時間を遡り、また元の場所、犬の傍らに戻ってくる。一瞬が内包する永遠に触れて詩想が爆発する。そのエネルギーが「静かな犬」の静かな詩行に保存されている。その静けさのなかに「私」の身の置き所はなく、「私」はヒトなる種のなかに溶けて、自然に逆らうという点で犬とはちがった振る舞いをするが、しかし依然自然の一部であることには変わりない、そのようなものとして観想された自然の真理のうちに身を隠す。「私」ははじめからそこにいて、いつのまにか消えている。足音も立てず。
しかし作曲者谷川賢作は、足音を立てて犬を訪問する。その着想は何に起因するものなのだろう。父と子であるためだろうか。父なる「私」を子なる「私」が訪問する、その足音なのだろうか。
繰り返し「静かな犬」を聴く。やはり私には四分音符の打鍵音が一段一段と下降する歩調に聞こえる。「私」は下向きの螺旋運動の中にあって、犬の傍らでほんの一時足を止め、真理を感得する。真理と向き合って溶解した「私」をそれはそれとして置き去りにして、「私」は当初の何かを目指してまた歩き出す。足音がアウトロに遠く消えていく。
アルバム『静かな犬』の5曲目。「静かな犬」を訪れる「私」と「私」。そこにある矛盾や運動の違い。詩に曲をつけるという営為—それも父の詩に子が—の奥行きをのぞいた気がして、ひとりの聴き手としての私の足もそこで止まった。
星隆弘
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