小島なおさんが歌壇時評「描写という物語」で『馬場あき子全歌集』を取り上げておられます。角川書店から刊行された二冊本で全二十七歌集一万首を収録しています。
馬場さんは昭和三年(一九二八年)生まれですから今年で九十五歳です。第一歌集『早笛』刊行が昭和三十年(一九五五年)ですから六十八年間に二十七冊の歌集を刊行なさったことになります。二年半で一冊のペースです。驚異的ですね。
多くの作家は作品は書けばよいというものではないと考えがちです。作品集は出せばいいというものではないと。間違いではありませんが時間をかけ練りに練った作品が良作になるとは限りません。力が抜けた作品が傑作と呼ばれることもある。また作家にとって一番辛いのは作品を書けないことです。書かないと書けないは紙一重ですが決定的な違いです。たいていは書かないのではなく書けないのですね。
馬場さんが矢継ぎ早に歌集を刊行されていることは歌と折り合いがついていることを示しています。歌はこういうものであるという折り合いをつけなければ決して作品を量産できません。それは馬場さんという個と短歌という表現が一体化しているということでもあります。歌に迷いのない作家でなければ作品を量産できません。
ちのみごのわれを育てしおばあさまは骨ばりて痩せし丹波の人なり
おばあさまは朝顔好きでおはしけり蕾かぞへつつ庭行水せり
小さなるよれよれ朝顔を憎みしがこれぞ好事家の江戸の朝顔
おばあさまは婿取りをしに提灯を下げて一番地への橋を渡れり
おばあさまは末娘の婿に会ふあした櫛挿し直し帯を締めたり
おばあさまは「丹波の山ざる」とあいさつし幼きわれはいたくおどろく
てきりすげ、かさすげ、あをすげ、しらこすげ靡く青草を刈りしふるさと
霧降れば海の底なる丹波より駆け落ちしてきたおばあさまです
小島さんは馬場さんの「おばあさま」連作を引用して次のように評しておられます。
過去の出来事を現在形で詠うこと。それは過ぎ去った時間をふたたび体験しなおすことである。過去形は現在の視点から振り返ったときの、過去から現在までの時間の蓄積が表現のなかに、あるいは読者のなかにおのずとたちあらわれる。一方で、現在形は初めての目で物事を見る形式である。「おばあさま」の一連が何十年も前の記憶にもかかわらず、生き生きと読者の眼前に出現するように感じられるのは現在形の力だろう。そしてそれを支えるのが描写による場面の再現ではないか。
小島なお 歌壇時評「描写という物語」
短歌俳句の創作は連作が基本になります。一つの題材を糸口に作品を紡ぎ出さなければなりません。現代歌人に比べると王朝歌人の歌の数は少ないですがそれは記録に残っていないだけです。書き文字が成立する以前から歌人たちは連作によって歌を紡ぎ秀歌だけを書き残してきたはずです。
連作は小島さんが書いておられる通り「過去の出来事を現在形で詠うこと」が基本です。過去の出来事を現在から振り返って言語的に再構築する。これは抒情詩の基本でもあります。いかに過去をドラマチックに言語的に再構築するのかが抒情詩のテクニックであり醍醐味です。ただ短歌でそれに熱中すると絶唱病のようなものにかかってしまい表現がどんどん苦しくなる。連作が難しくなるだけでなく作歌によって歌人が追い詰められてしまうということも起こります。
統計を取ったわけではないので印象論ですが同じ伝統短詩型文学でも俳句よりも短歌の方が自殺者が多いように思います。また俳人は生活が困窮しても恬淡としていることが多いですが歌人はそれが精神困窮に直結してしまうような。創作は作家の救済でもあるはずですが短歌の場合はそれが逆に働くことがあるようです。
馬場さんはそういった短歌の陥穽とも無縁です。小島さんは馬場さんの短歌連作句がふと現在形に変わることがあるのを指摘して「現在形は初めての目で物事を見る形式である」と評しておられます。現在形は〝肯定〟だと言ってもいいでしょうね。
「おばあさま」連作で言えばおばあさまは朝顔を丹精する人で「丹波の山ざる」と挨拶するきっぷのいい女性でもあります。多面的だった。そしてその過去の思い出は「霧降れば海の底なる丹波より駆け落ちしてきたおばあさまです」の現在形で受けられる。おばあさまの全的な肯定です。この肯定はなによりも作家にとっての救済です。世界の肯定がなければ作家は作品を作ることで救済されないのです。
こういった世界の肯定を馬場さんは日本の古典文学――特に能楽からくみ取って継承しておられると思います。馬場さんの能楽論を読めば能がどんな芸術なのか誰にでも簡単に理解できるはずです。能では舞台上に幽鬼が現れる。馬場さんが『鬼の研究』以来愛してやまない日本の鬼です。
幽鬼は恨めしい成仏できないと訴えかけます。たいていは高僧の読経で成仏したかのような結末になっていますがもちろん違います。幽鬼は決して成仏しない。能楽が上演されるたびに現世に舞い戻る。飽くことなく繰り言のように発する言葉が自己の境涯の肯定であり救済だということです。この構造は現世の矛盾や混乱苦しみを詠いそれを肯定する馬場短歌と相似だと思います。
木瓜の実の太りし夏を青やかに撮りてスマホをいぢりそめたり
履きものに下駄といふものありしこと思ひ出しつつ雨をみてゐる
かたつむりの交尾は神代のままにして恋矢に刺して死なすことあり
コロナ籠もり雨の日友のこひしくてでんわすれどもひとりも居らず
長雨の暗き彼方に天体図かざして青きスピカみてゐる
雨の日のご近所は孫子おとづれて大はしゃぎして楽しむ声す
葉鶏頭けんらんとしてわれの身の衰へを嗤うふ秋となりたり
夫の骨まだ一つ家にわれと棲む銀河しづけき夜なり おやすみ
しのぐといふ勝ずまふあり歌よみの歌成らぬ日をしのぐかなしも
全歌集編みくるる歌の友らゐてしだいにありがたくなりゆく日日は
上句と下句ありて歌なすか否第三句おもしろきなり
年表にあばかれてゆく歳月をみれば忙中に閑なく貧し
馬場あき子「木瓜のみのるころ」
角川短歌十一月号には『馬場あき子全歌集』刊行を記念して特別作品三十首「木瓜のみのるころ」が掲載されていました。『全歌集』刊行記念短歌ですが肩肘張ったところはまったくありません。少し寂しくもある日常が淡々と詠まれてゆきます。「年表にあばかれてゆく歳月をみれば忙中に閑なく貧し」は文字通り受けとっていいでしょうね。功成り名を遂げた馬場さんが「貧し」などはあり得ないようですが歌の通りだと思います。ただ絶望も卑下もない。雨が晴れて涼しげな風が吹いてくるようです。
高嶋秋穂
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