第六十七回 角川短歌賞は該当作なし。商業メディアで該当作ナシというのはけっこうめずらしいです。短歌・俳句雑誌は創作初心者が雑誌を買って勉強の糧にすることが多いと思いますのでちょっと違うかもしれませんが小説雑誌などでは新人賞が一大イベントです。
作品だけ書いて食べてゆける可能性があるのは小説だけと言っていいです。だから小説志望の人が後を絶ちません。登竜門になるのが商業小説誌の新人賞です。小説新人賞を受賞してデビューし本を出しそれが評価されて純文学は芥川賞で大衆小説は直木賞という文壇内新人賞を受賞していわゆる文壇に認知された小説家となるわけです。
ただ簡単な道のりではありません。小説雑誌はたくさんあって新人賞も毎年受賞者が出ます。ですから純文学と大衆文学を合わせると年10人以上は新人作家が出る。この內単行本が出るのは半分以下でしょうね。芥川直木賞の新人賞に辿り着く人はもっと少ない。また直木賞は基本流行作家にならないともらえないですが芥川賞はぽっと出の新人でも受賞することがあります。そして芥川賞受賞後に作品で飯が食える作家はここ三十年ほどで総受賞者の10パーセント以下くらいに下がってるんじゃないかな。小説界も詩の世界並に厳しくなっています。しかし〝一発当てる〟可能性がある文学ジャンルなので志望者が多いわけです。
つっかけのサンダル履いて出るようにきみの機体は飛び立ちゆけり
万神殿目路にとらえて大いなる鞭の撓えるごとき坂ゆく
音となる雨を追いつつふるあめを眺めていたりミラボー橋に
ヒジャーブの限るおもてに日の差して顔の削がれし壁画を思う
昼すぎて部屋の四囲よりもどり来る水道管にみず這う音は
酔いふかくおのが国歌を歌いだしうたうかわれも異国にあれば
角砂糖ひとつ落とせば宿しいし気泡のぼりく紅茶のなかを
引き上ぐるブラインドの外より滑りくる雪のひかりはわが貌とらう
工藤貴響「大いなる鞭」より
次席に選ばれた歌人がお二人いて一人目は工藤貴響さんの「大いなる鞭」です。昭和五十八年生まれでフランスのパリ在住とあります。作品もパリが舞台です。「音となる雨を追いつつふるあめを眺めていたりミラボー橋に」などは異国情緒がありますね。
ただ日常詠連作なので50首を貫く主題が見えにくいかもしれません。「角砂糖ひとつ落とせば宿しいし気泡のぼりく紅茶のなかを」のように外界描写が内面描写になるような歌がもっとあってもいいかもしれない。しかしそれは無いものねだりで淡々と日常を詠むのが工藤さんの持ち味なのかもしれません。
風から風がはぐれたような通知で再発の報せを告げている
窓を拭くあなたとふいに目が合ってむこうで鳥か蝶がよぎった
爪を切る煩わしさを言いきっとあなたは内側から減ってゆく
院内のそこここに照る陽だまりを選んで押していく車椅子
花器だった一つひとつがこの部屋のあらゆる過去を指すように散る
隅々まで食い込むような冬の朝 老いる他なき身体を持って
わたしという狭さをめぐる感情よ雨は鉄格子のように降る
再会を 死者と生者を引き合わせ水面という境界ゆれる
塚原康介「透明な手に招かれて」
二人目は塚原康介さんの「透明な手に招かれて」です。平成七年生まれとあります。テクニック的にはこなれた歌です。ただこの連作もどうも主題がはっきりしない。読み通すと作家の近親者の入院と老いを歌った連作のようです。近親者が母親なのか父親なのかもわからない。それと並行して作家の日常的心情が詠まれています。両者は相関関係にあると思われますがそれもはっきり表現されていません。
もうだいぶ前ですが小説家で批評家だった江藤淳さんが小説新人賞の選評で「雨が降っているなら雨が降っていると書け」と言ったことがあります。ヌーボーロマンやらフランス前衛小説全盛期の話で江藤さんは頑固な保守的文学者と見做されていましたが言っていることには一理あります。
現実に即した表現であるならばハッキリそう書いた方が効果的な場合があります。特に現代のように誰もが忙しくテレビやペイTVだけでなくYouTubeなどでも即座に知らない情報の隅々までを簡単に知ることができる時代はそうです。50首読んで作家の人物や生活背景がまったくわからないというのはどうかな。「前置きはいらない結論は」と先を急ぐ時代には露骨なほど現実に即した表現も有効かもしれません。
もちろん「わたしという狭さをめぐる感情よ雨は鉄格子のように降る」といった表現は魅力的です。このような現実と抽象のあわいにある表現を強くするためにも即物的現実描写は有効かもしれません。
縁と縁、逢着しては引き千切れ海岸線のがたがたになる
20年こねくり回してるわけだしこの知恵の輪を呑んで死にたいな
千年を経て女の子のイラストになるため今山を灼いてる
それさえも美しい、的な事を言いぐるぐる巻きになれた女神像
缶ビール夜が明けていくのを見ていた乱射事件の現場のように
冨岡正太郎「H*ppy*nd」
佳作は三人います。冨岡正太郎さんの「H*ppy*nd」という連作タイトルは正確かもしれません。生活は満たされているということが伝わって来ます。波乱がないとも言えるでしょうか。だから「20年こねくり回してるわけだしこの知恵の輪を呑んで死にたいな」「千年を経て女の子のイラストになるため今山を灼いてる」という表現が成り立つ。でも「缶ビール夜が明けていくのを見ていた乱射事件の現場のように」はどうかな。ちょっと欲張り過ぎかもしれません。
若さにとって死の観念は最高の贅沢の一つです。そう簡単に死なないので誰もが一度は死の観念に近づきます。絶唱にすれば数首は秀歌になるでしょうがそれでは続かない。そう簡単にendにはならないのが人間の生です。日常詠なら死にそうで死なないでいいのでしょうが死の観念に深入りするならもう死んでいるつもりで書く方がよい歌になるかもしれません。
紫陽花の花弁の上の雨粒の中には雨の王国がある
僕たちにそれぞれの夏 それぞれの夏を操る指揮者なんだ
もし君が君自身を微分したら僕は何番目に消えるかな
「分かれよ。」が変換されて「別れよ。」になって恋とはいつも辛いね
「卒業生、礼」と言われて十五度の礼越に見る三月の空
小島涼我「青春狂騒曲」
二人目は小島涼我さんの「青春狂騒曲」。タイトル通りの連作です。ただ「狂騒」とまでは行ってないかな。巻頭に「紫陽花の花弁の上の雨粒の中には雨の王国がある」が置かれいますが快晴ではなくて雨。空に抜けるような狂騒の叫びは聞こえて来そうにありません。青春短歌はすべからく過去詠になりますから過去の言語的再構築の方向をもう少しハッキリさせた方がよかったような。
「でも幸せでしょう」って声を逃がすための冬の窓いくつも開けたけど
家族というやさしい誤触載せたまま舟は季節をゆっくり進む
母だから子を愛すると思われて二月の欄干に微笑んだ
産むことも産まないこともみしみしと鼓膜を圧してくる夜がくる
産まなかったほうのわたしが対岸にときおり手を振るから振りかえす
魚谷真梨子「対岸」
三人目は魚谷真梨子さんの「対岸」。母になった自己と子供と家族への違和感が詠まれています。古典的主題でそれゆえ斬新な歌も生まれやすいと思いますがもっと突っ込んだ方が良かったかな。「産まなかったほうのわたしが対岸にときおり手を振るから振りかえす」くらいの表現から連作を始めても良いのではないかという気がします。
短歌に限りませんが賞の傾向と対策を練り上げて応募して実際に受賞した作家はいます。でもそういった作家は次が続かない。傾向と対策には今の短歌状況の分析も含まれます。現在ならそろそろニューウエーブも下火だけど古典的詠みようでは新し味が出しにくいという分析になるでしょうか。そういった状況(傾向と対策)に自己の資質を合わせるのは至難の業です。一周回って基本に返った方がいい時代かもしれません。自己の資質を最大限引き出しその新し味をアピールすることになるでしょうか。
角川短歌というか歌壇は大変風通しがよく次席や佳作でもその後雑誌で活躍なさる歌人もおられます。次席佳作の翌年に正賞を受賞された歌人もいる。いわゆる歌壇にデビューする道はたくさんあると思います。
ただ歌人に限らず詩人はもうからない。若い內はちやほやされる時期があるかもしれませんが一番キツイ中年から初老になるまでそれを維持するのは至難の業です。しかも詩で食べてゆくのと詩人のプレステージはイコールではない。
詩は結局は日本語の基層であり日本語を豊かにする原理的表現だと考えた方がよさそうです。つまり現世的出世ではなく後世の読者や詩人が一作でも自分の作品を記憶してくれていればそれは日本語の基層を豊かにしたことになる。詩人は浮世離れしているとよく言われますが現世的利益をそれほど得られなくても詩を書き続ける者という意味ではそうかもしれません。
高嶋秋穂
■ 金魚屋の評論集 ■
■ 金魚屋の本 ■
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■