No.131『古代メキシコ展』
於・東京国立博物館・平成館
会期=2023/06/16~09/03
入館料=2,200円[一般]
カタログ=2,800円
今回の展覧会の正式名称は「古代メキシコ―マヤ、アステカ、テオティワカン」である。実質的国立博物館東博は国同士の交流の役割も担っており、古代メキシコ展が開かれるということは日本とメキシコの関係が良好ということですな。もちろんメキシコ側も総力を挙げて国宝に近い物を出品している。何十年に一度しかメキシコからこんな素晴らしい物が運ばれ展示されることはないだろう。
メキシコはアメリカのカリフォルニア、アリゾナ、ニューメキシコ、テキサス州と国境を接した国。北アメリカと南アメリカ大陸の中間にある。グァテマラ、ベリーズ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、パナマまでが中央アメリカで、コロンビア以南が南アメリカ(南米大陸)になる。世界地図で見ると細長くくねっていて狭そうだがメキシコだけでも日本の五倍以上の広さがある。しかも高低差が激しい熱帯である。
日本では今のペルーからボリビア、エクアドルの細長い太平洋岸に存在したインカ帝国が有名である。特にマチュ・ピチュ遺跡がやたらとテレビなどで紹介されたりする。しかし古代メキシコとインカ文明は別物である。もちろん影響関係はあるが古代メキシコの方が古くから高度な文明を誇っていた。そのためこのエリアはメソ(核)アメリカ(文明)と呼ばれる。
ただし古代メキシコ、というよりメソアメリカには統一国家が存在しなかった。古くから多くの王朝が存在し入れ替わった。その代表がマヤ、アステカ、テオティワカンである。このあたりは図録掲載のレジュメ的図表を紹介した方が早いですね。
『メソアメリカ文明のエリア』
『古代メキシコ―マヤ、アステカ、テオティワカン』図録より
『メソアメリカの王朝の移り変わり』
同
メソアメリカ文明の中心地はメキシコだが、コスタリカあたりまでの広大なエリアに拡がっていた。マヤ、アステカ、テオティワカン以外にもオルメカ、トルテカ、サポテカ、ミシュテカなども知られている。このほかにもたくさんの王朝(首長王国と言った方がいいかな)があった。またそれぞれの首都(中心地)はかなり離れている。
中央アメリカで避けて通れないのが一四九二年のコロンブスのアメリカ大陸到達である。僕が小学生くらいの頃にはコロンブスに関する児童向けの本があって、その内容は〝英雄コロンブスの新大陸発見冒険物語〟だった。しかし今では「コロンブスのアメリカ大陸到達」と呼ばれるのが一般的で一昔前のヨーロッパ中心史観は否定されている(マゼランの世界一周も同様)。コロンブス到達以前から人が住んでいて文明も栄えていたのだからこれは当然ですね。
コロンブスによって航路がわかるとスペイン人は艦隊を送り込んであっという間にメソアメリカエリアを植民地化した。スペイン人による大虐殺があったことはドミニコ会士バルトロメ・デ・ラス・カサスの『インディアスの破壊についての簡潔な報告』でよく知られている。南米大虐殺で犠牲になった人々の数はナチスドイツによるホロコーストを遙かに上回るとされる。スペインに続いてポルトガルがブラジルなどの南米大陸を植民地していった。北アメリカがイギリスやフランスの植民地になったのは言うまでもない。大航海時代に続いて起こった帝国主義時代である。
英語が公用語のベリーズを除き、今ではメキシコを始めとするメソアメリカの国々の公用語はスペイン語である。そこからもわかるように征服者のスペイン人は徹底してこのエリアの文化を破壊した。宮殿などを破壊しただけでなく言葉も宗教もスペインのそれを強制したのだった。
それでも古くからの文化伝統は残っているが、三〇〇年以上続いたスペインの統治によってメソアメリカ文明の姿がわかりにくくなったのは確かである。ユーラシア大陸と比較すればメソアメリカ文明研究は遅れておりまだまだ未発掘の遺跡が残っている。考古学的には宝の山といったところだ。考古の世界では発掘によって史観が変わるから今後も様々な大発見があるかもしれない。
『オルメカ様式の石偶』
オルメカ文明 前一〇〇〇~前四〇〇年 セロ・デ・ラス・メカス出土 ヒスイ 高八・四×幅五・六センチ メキシコ国立人類学博物館蔵
今回の展覧会では出品数が少なかったが、メソアメリカで今のところ一番古いと言われる『オルメカ様式の石偶』である。小品だがオルメカには巨大な石頭彫刻もある。
アフリカが人類発祥の地であるのは間違いなく、南北アメリカに人類が住み着いたルートは凍結したベーリング海を渡ったルートと太平洋の島伝いに船でやって来たルートの二つがあると言われる。南北アメリカ大陸には一万三千年前には人類が居住していたがオルメカ文明は紀元前一五〇〇年から四〇〇年頃まで実に一〇〇〇年以上続いた。その後のメソアメリカ文明の基礎となったのがオルメカだった。
『石偶』は典型的なオルメカ様式でオルメカの人物像には赤ん坊のような形のものが多い。ただし顔の造形には彼の地で生態系の頂点に君臨するジャガーの特徴が反映されている。ジャガーはオルメカに限らずメソアメリカ文明で最高神として崇められていた。
材質は翡翠。翡翠は生産量が少なく恐ろしく固い。『石偶』は高さ八・四センチだからヒスイ製としてはかなり大きい。質も良い。日本の勾玉にも翡翠製はあって、弥生から古墳時代初期は翡翠製だったが律令時代初期の量産時代になると加工しやすい滑石などに変わってゆく。
じゃあ人類はアジア経由(南北アメリカの先住民はアジア系)で南北アメリカに渡ってきた際に、古代中国や日本にもある石文化(貴石文化)を継承していたのかと言うと、そうは言えない。このあたりがメソアメリカ文化の面白いところであり理解しにくい要因にもなっている。
僕たちはユーラシア大陸的な文化の捉え方に慣れている。日本を含む東アジアだけでなくヨーロッパ、中東、インドなどの人々もそうである。人類は石器時代を経て銅や鉄の精製法を生み出し、文字を活用して天文学や工学、法学など様々な文化を創出していったというプロセスである。
しかしこのプロセスがメソアメリカには見られない。メソアメリカはユーラシア大陸とは明らかに違うプロセスで、しかもユーラシア大陸に比肩する高度な文明を生み出した。しかもその詳細がいまだにわかっていない。
正倉院御物には遠くペルシャ(今のイラン)からもたらされた宝物がある。そのため日本人は自分たちのルーツとして中国、インド、ペルシャにまでその視線を伸ばすことができる。ヨーロッパや中東の人々も同様でアジアとの交流は避けて通れない。しかしメソアメリカ文明とはほとんどなんの接点も見出せない。だがその点こそメソアメリカの最も面白いところである。
『月のピラミッド(テオティワカン文明)』
『古代メキシコ―マヤ、アステカ、テオティワカン』図録より
『テオティワカンの都市構造』
同
テオティワカンはメキシコ中央高原のテスココ湖近くにある古代都市である。紀元前一〇〇年から西暦五五〇年頃まで存在した。建造物を持ってくるわけにはいかないので図録の写真になるが、尋常ではない規模の都市がこの地にあった。
約二十五 ㎢ の広さに二〇〇〇ほどの居住用アパートメントが建ち並び、街の中心を貫く死者の大通りに沿って月のピラミッド、太陽のピラミッド、羽毛の蛇ピラミッドが立ち並んでいた。役所や宗教施設も確認されている。ピラミッドが完成し最も栄えたのは西暦二〇〇年頃と考えられている。メソアメリカ文明の凄みは実際に現地に行って遺跡を見ないとピンと来ないだろう。
月のピラミッドは高さ四十六メートル、太陽のピラミッドは六十五メートル、羽毛の蛇ピラミッドは二十四メートルである。エジプトクフ王のピラミッド約一三九メートルには敵わないが、エジプトと違いピラミッドの側面に様々な彫刻や像がある。高度な建築技術、石彫技術を持っていたことがわかる。これだけの巨大建造物を造り広大な街があったわけだから、強力な王権国家(首長国家)だった。こういったピラミッド状の建造物はほかのメソアメリカの古代都市にもたくさんある。
ではメソアメリカのピラミッドがエジプト経由のものなのかと言えばまったくそうではない。少なくとも両者の影響関係を示す証拠は何一つない。メソアメリカのピラミッドは王の墓だが、その宗教的・政治的権威を表すために自然と恒久性のある石で地上を見下ろす高いモニュメントが造られていったとしか考えられない。
文化は驚くほどの速さで各地に伝播するが同時発生することもある。たとえば大干ばつや大洪水が起きたりすると似たような宗教祭祀的な物が造られそれが遺跡から発掘されたりする。人類の発想法は似通った面があるのだ。異文化からの影響をほどんと確認できないメソアメリカのピラミッドは人類共通の発想法を示唆している。ただメソアメリカ文明の特異性はそれだけではない。
『トニナ石彫159』
マヤ文明 七九九年頃 トニナ出土 砂岩 高五八×幅七三センチ トニナ遺跡博物館蔵
マヤはメソアメリカで最もよく知られた文明である。紀元前一二〇〇年頃にはその萌芽が見られ、西暦二五〇年から九五〇年頃に最盛期を迎えた。スペイン人によって徹底的に破壊されるまで続いた文明である。
マヤ文明が僕のような日本人を惹きつけるのは彼らが象形文字を持っていたからである。マヤ文字はエジプトのヒエログリフのようには完全解明されていないが、『トニナ石彫159』は「3マニク0ムワーンの日(799年10月31日)に、トニナの王1(名の読み方は不明)の墓に2度目の火を入れる儀式が、トニナの王8(名の読み方は不明)によって行われた。その3,758日前の2ムルク12チェンの日(789年7月13日)に、『チフの都の者の捕獲者』という称号をもつポモイの都の者が捕らえられた」(読解は図録による)と解読されている。
解読からわかるようにマヤ人(そのほかのメソアメリカ文明も同様だが)は暦を持っていた。太陽暦と宗教暦が併存していた。つまり高度な天文学的知識を有していた。また『チフの都の者の捕獲者』は対立する共同体の高位の戦士で『石彫』に彫られた人物だと考えられている。この者は生贄にされて殺されたのだろう。メソアメリカでは盛んに生贄の儀式が行われていた。
メソアメリカの生贄の儀式(習俗)は盛んでスペイン人が植民地化するまで続いた。その残酷さを嫌ってスペイン人はそれを厳禁した。ユーラシア大陸では古代を除いて生贄の儀式は行われなくなるがメソアメリカはそうではなかった。つまり高度な文明を誇っていたがメソアメリカの人々の世界観はユーラシアとは違っていた。いわゆる人権意識というものは存在せず動物よりも人間、それも高位の者であればあるほど貴重な神への生贄と考えられていた。
『石版56(ラ・コロナ出土)』のマヤ文字解読例(読み順)
西暦六〇〇~九〇〇年頃 グァテマラ北部ペテン県出土
マヤ文字に戻るとその構造も独自である。表語文字に音節文字が組み合わさっている。その読み順(書き順)も独自である。詳しくは専門書に当たられたいが、図録に『石版56(ラ・コロナ出土)』のマヤ文字解読例(順番)が掲載されている。石碑碑文では縦二列の文字をひと組に左から右に読む。ただしそれ以降の読み順も複雑だ。ユーラシアのどの文字のセオリーにも当てはまらない。そのためマヤ文字解読は困難を極め、ようやく一九五〇年代に読解が始まり今も続いている。完全に解読されている文字は全体の五十パーセントくらいだと言われる。
マヤ文字は明らかに象形文字系である。エジプトのヒエログリフを見れば明らかだが人類が生み出した文字は最初は間違いなく象形文字だった。しかし中東メソポタミア文明では紀元前二五〇〇年頃には表音文字の楔形文字が使われていた。このエリアでは異民族同士の衝突と併合が激しく、ある民族が別の民族を併合するたびに現世的富だけでなく文化の略奪・吸収も繰り返されていたためだと考えられる。言語が違えば文字も違うわけだが他民族が使うより高度で便利な言語を略奪・吸収するたびに改変が加えられ、文字は高度に抽象的な表音文字になっていったと考えられるのである。
その意味では中国から東アジアに残った漢字文化は異質である。古代的象形文字(漢字)がそのまま残った。ユーラシア大陸中央部の山脈や砂漠地帯が決定的異民族・異文化の衝突・流入を防ぎ、大局的に見れば同じカテゴリーに属する民族同士の衝突しか起こらなかったためである。
マヤ文明で象形文字系が生み出されたことは、スペイン人が来航するまでこのエリアでは決定的異民族・異文化との衝突がなかったことを示唆している。しかしマヤ文字は漢字とは似ても似つかない。表語文字が音節文字に発展して組み合わされたことはわかるがその方法は独自である。またマヤ文字はユーラシア大陸の文字のように広く使われたわけではない。
マヤ文字は決して庶民にまで気軽に使われた文字ではない。王権(首長)の周囲にいるほんのわずかな人々が重要な記録や碑文などを彫る時に使った。マヤ文字がほかのメソアメリカ文明に広く伝播したわけでもない。メソアメリカ文明には他にオルメカ文字、サポテカ文字などが知られているが原始的でそれが広く活用された痕跡はない。むしろメソアメリカ文明は無文字文明に近い。マヤ文字にしても記録など重要な場面で文字が使われただけで、文字によって高度な文明が発展したとは言えないのである。
『赤の女王の冠』
マヤ文明 七世紀後半 パンレケ、13号神殿出土 ヒスイ輝石岩 直系二五センチ アルベルト・ルス・ルイリエ・バレンケ遺跡博物館蔵
『赤の女王のマスク』
同 孔雀石、ヒスイ輝石岩、黒曜石 高二〇×幅一四センチ 同
『赤の女王の首飾り』
同 玉髄 長二五センチ 同
赤の女王の副葬品全体像
少しは図像的に見栄えのする名品も紹介しておかなければなりませんね。赤の女王の発掘品はマヤ文明が栄えたマヤ低地のパンレケから出土した。この地では一九五二年に考古学者アルベルト・ルス・ルイリエによってパカル王の墓が発掘されている。未盗掘墓で大発見だった。パカル王は六十八年もの長い間王国を治め六八三年に亡くなった。墓はピラミッドの地下にあった。
赤の女王ことレイナ・ロハはパカル王の妻である。発掘された時に遺体が辰砂で覆われていたので赤の女王と呼ばれる。彼女の墓も未盗掘のまま神殿の地下から見つかった。パカル王の遺品とともにメキシコの国宝と言っていい出土品である。女性であるせいか身に纏った装飾品(副葬品)はパカル王より豪華である。冠とマスク、首飾りは今回の展覧会のポスターにもなっている。それだけでなく腕輪、足首飾りなど様々な副葬品が出土している。
見てわかるように赤の女王の副葬品は貴石や石器、貝製品である。金属製品は含まれていない。なぜかというとメソアメリカの人々は金属製品とほぼ無縁だったからである。金属の存在は知っていて活用もしていたがそれが生活全般の利器にまでは拡がらなかった。では生活全般で主に何を使っていたのかというと石器である。
メソアメリカには巨大な石造建築物や石像があるが石器を使って石を切り出し刻んでいた。石器と石の専門家だったわけだ。これはユーラシア大陸の石器から青銅器、鉄器という文化の流れとまったく異なる。世界中見回せばメソアメリカの遺物に似たものはいくらでもある。しかしその生成原理が決定的に異なるのである。
左『テスカトリポカ神とウィツィロポチトリ神の笏形飾り』
アステカ文明 一四八六~一五〇二年 テンプロ・マヨール、埋納石室174出土 金 高一四・八×幅三・二センチ テンプロ・マヨール博物館蔵
右『トラルテクトリ神形飾り』
同 高八・六×幅五・三センチ 同
最後にアステカ文明の出品物を紹介しておきましょう。マヤと並んで最も有名なメソアメリカ文明である。スペイン人の来航まで王朝は続きマヤと共にスペイン人によって滅ぼされた。石器中心の人々が鉄器や鉄砲を武器とするスペイン人に敵うはずもなかった。ただし少数のスペイン軍に攻め滅ぼされたわけではなく、スペイン人がアステカに敵意を持つ現地の部族を巧に煽って共同戦線を張り滅ぼしたのだった。
アステカの首都はテスココ湖に浮かぶ小島テノチティトランにあった。すでに滅びていたテオティワカン文明の首都に近く古いテオティワカン文明を受け継いでもいた。金製品はテノチティトランの大神殿、テンプロ・マヨール出土である。
金製品だがメソアメリカ文明全般に金の遺物出土は多くない。金の存在は知っていたがそれを至上とはしていなかった。メソアメリカの人々が最も重視し尊重していたのは石だった。
コロンブス書簡集を読んだ方はおわかりだろうが、彼は中央アメリカに着くやいなやパトロンのスペイン・イザベル女王に「もうすぐ金が見つかります。もうすぐです」と何度も手紙を書き送っている。報告書なので無味乾燥なのは仕方がないが、コロンブスの航海目的が金、つまり現世の富そのものを手っ取り早く得ることにあったとわかる。スペイン人は現地の人々がそれほど金を持っていないことを知ると彼らを使役して金を集めさせた。ゴムなどの農作物を輸出品にするのは後のことである。
ちょっと書きにくいがスペイン人に征服され文化伝統を完膚なきまでに破壊されたこともあって、メキシコを含む南米の民族意識は最近まで低かったと思う。また征服者である欧米からの蔑みの視線も抜き難く存在していた。メソアメリカに代表される南米文化がそれに輪をかけた。
メソアメリカ文化は実質的に無文字文化である。鉄器などの利器も知らなかった。そのためメソアメリカ人は未開の野蛮人といった偏見が根強く存在した。高度な石造建築物や天文学などがあったことは長く無視されて来たのである。
しかし考古学的発掘調査から、メソアメリカには尋常ではない高度な文明が存在していたことが明らかになっている。そしてその文化は、今や実質的に世界的普遍者となった欧米的(ユーラシア的)文化とはまったく異なる。文字を最大限に活用しなくても、青銅器や鉄器を使わなくても高度な文明を築くことができた。
まだまだ謎が多いがメソアメリカ文化はユーラシア文化にとってほぼまったくの他者、文字通りの異文化である。ほぼ完全な他者だからこそメソアメリカ文明は面白い。その探求と受容はユーラシア文化に慣れ親しんだ者にとって本質的な〝文化的新大陸発見〟になり得るものである。
鶴山裕司
(2023 / 07 /07 19枚)
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