「人物特集 没後50年 三橋鷹女」が組まれている。俳人に限らず性別・男が女性作家(作品)をストレートに批評するのはかなり躊躇する。女性作家が「何でも言ってください」と水を向けても「それって何かの罠?」と思ってしまう。「おっとこのくせに女にグタグタ言いやがって」と思われるんじゃないかと疑ってしまうのだ。そりゃ考え過ぎだよと言われそうだがどーも疑心暗鬼が抜けない。まあ経験則から言っても、女性作家に対してあまり突っ込んだことは言いたくない。世の中男女平等が原理原則だがそれは社会的権利のことで、男に子どもは生めないし必然的に母子関係と父子関係は違ってくる。男には女のことがわからないと言われればその通り。女性は男の言葉に傷つくだろうが男だって同じ。
大阪の読売テレビで上沼恵美子さんと高田純次さん司会の「上沼・高田のクギヅケ!」というテレビ番組が放送されている。高田さんはテレビ朝日で「じゅん散歩」という番組を持っているが、子どもの性別が男の子か女の子かわからない時は「女の子ですか?」と聞くと角が立たないと言っておられた。
評釈すれば女の子は(社会全般の漠然とした認知として)かわいい。そして幼い子どもは(これも社会全般の漠然たる認知として)かわいい。ゆえにかわいい中でもよりプライオリティの高い「女の子ですか?」と聞いた方が無難だということだろう。男の子がいつまでも女の子に見えると困るかもしれないが、子どもの時に女の子に間違えられてもお父さんお母さんは「かわいいってことなんだね」と思ってくれるということか。もちこれは今社会問題になっているLGBTQとはぜんぜん無縁の意識低い系の漠然たる社会認知を前提とした評釈です。
ただ高田さんの発言に、スタジオに同席していたお笑いの人が「じゃ、オジイサン、オバアササンで性別がわからないときは「オバアサンですか」と聞いたらいんですか?」と突っ込みを入れた。この突っ込みがツボに入ったようで高田さんは笑いが止まらなくなってしまったが、なかなか含蓄深い突っ込みである。
うんと年を取ると、人間、男性なのか女性なのか見た目ではわかりにくくなることがある。これも意識低い系のたわ言評釈だが、一般社会認知としてかわいいはずの女性に「オバアサンですか?」と疑問形を投げかけるのは失礼だろう。オジイサンにそう聞くのもなんだかなーになる。男は男らしくという社会一般の通念があるから、オバアサンに間違えられると不快に思う方がいらっしゃるかもしれない。
今はもうこんなたわ言を書いただけでどこかから批判の矢が飛んできそうな世の中だが、まあ始めてしまったのだから意識低い系の話を続けましょう。女性が男性より生物学的変化に富んでいるのは確かだと思う。女の子は生理を迎えてお尻やおっぱいが大きくなり、男たちからの数々のちょっかいをくぐり抜けて結婚して子どもを生んで育てたりする。花のような時代がありお母さん時代があり年老いてゆくわけだ。
対する男は単調だ。身体がデカくなって筋肉質になるが、ジイサンになると立木が枯れるように萎んでゆく。村上龍さんじゃないが「すべての男は消耗品である」と言いたくなるところがある。女を追っかけ仕事に熱中して定年を迎えると、濡れ落ち葉のようになってしまう男は多い。居酒屋でくだを巻くのがせいぜいで、温泉や劇場、美術館、映画館、カルチャーセンターに至るまで年を取っても活き活きしているのは女性が目立つ。女性は年を取るのことに折り合いをつけられるが男はそうじゃない場合が多いと思う。女性は化粧するから毎日毎日鏡を見ているせいかもしれませんねぇ。
で、何を言いたいかと言うと、俳句は季語が屋台骨である。春夏秋冬の季節の巡りが俳句の根幹である。『角川俳句大歳時記』も春夏秋冬プラス新年でまとめられている。じゃあ生物学的に季節の巡りに似た人生を送る女性作家が俳句と相性がいいのかと言うと、そうとは言えないでしょうね。
これはちょっと真面目というか難しい話になるのでこれ以上は突っ込まないが、俳句は極めて男性的なところがある。季語、春夏秋冬の季節の巡りを表現の根幹としていて写生、つまり現実世界の描写を基本技法としているが人間の実人生には深く食い込まない。食い込めない。ストレートな感情表現は不得意なのだ。どこから見ても現実に即しているのだが俳句は本質的に抽象表現になりやすい。まあはっきり言えば男の浮世離れに近しい面がある。
小原眞紀子さんが『文学とセクシュアリティ』で明らかにしたように、天に舞い上がるような男性的抽象観念表現と、根源的生命力を感じさせる地に足がついた女性的表現というものは確実にある。それが現実の男女性差と相性がいいのは言うまでもない。というか男性的表現と女性的表現は現実の男女性差から生じている。
文学ジャンルの性別というと奇妙かもしれないが、短歌から派生したが俳句と短歌は今ではまったく別ジャンルの文学である。質的差異がある。それは男性的表現と女性的表現の違いではないか。子どもの性別を知りたがるように、ある程度ドライに文学ジャンルの性別を把握した方がいいと思う。
短歌は明らかに女性性的表現と相性が良く俳句は男性的表現と相性がいい。もちろん誇り高い自我意識の持ち主である現代作家にとっては「それがどうした」である。しかし個の自我意識ではどうにもならないことはある。ジャンルの原理を把握した方が作家が性別男だろうが女だろうが独自の表現を生み出しやすいと思う。
すみれ摘むさみしき性を知られけり 三橋鷹女
ひるがほに電流かよひゐはせぬか 第一句集『向日葵』昭和十五年(一九四〇年)
夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり
みんな夢雪割草が咲いたのね
著莪さいて乳房うつうつねむたかり 第二句集『魚の鰭』昭和十六年(一九四一年)
新涼の小さき乳房をもつ吾は
かなしみに女は耐ふべし雲雀鳴く
この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉
ひとり子の生死も知らず凍て睡る 第三句集『白骨』昭和二十七年(一九五一年)
老いながら椿となつて踊りけり
白露や死んでゆく日も帯締めて
鞦韆は漕ぐべし愛は奪うべし
饐えた臓腑のあかい帆を張り 凩海峡 第四句集『羊歯地獄』昭和三十六年(一九六一年)
大海のまんなか凹み 死魚孕む
墜ちてゆく 炎ゆる夕日を股挟み
あばら組む幽かなひびき 羊歯地獄
はるかな嘶き一本の橅を抱き 第五句集『橅』昭和四十五年(一九七〇年)
囀や海の平らを死者歩く
あす覚める眠りがみがく桃色ひづめ
いまは老い蟇は祠をあとにせり
鷹女俳句は「夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり」から始まる。句誌に作品を発表しその評価も高かったが師を持たず結社所属でもなかった。意識的孤高ではなかったと思う。鷹女には仮想敵というものがなかった。「この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉」にあるように作家意識は內に向かう。
「ひとり子の生死も知らず凍て睡る」は戦争に取られた息子を案じた句。また老いを意識するようになると早々と「白露や死んでゆく日も帯締めて」と詠んでいる。これは鷹女の快楽原理である。誰かに見られているわけでもないのにきちんと帯締めて一人死んでゆくのが彼女には気持ちのいい死に方なのだ。
鷹女は赤黄男―重信の同人誌「薔薇」に参加したことでも知られる。あの口うるさく頭でっかちの重信が、まあいわゆる三顧の礼で鷹女を同人に迎えた。この頃鷹女も「墜ちてゆく 炎ゆる夕日を股挟み」などの赤黄男張りの俳句を詠んでいる。しかし前衛俳句と呼ばれるようになる男たちの俳句がその後の鷹女に決定的影響を与えることはなかったと思う。
「いまは老い蟇は祠をあとにせり」は晩年の句。やはり視線は内向きで読後感は清々しい。鷹女は自身の生(性)に歩調を合わせてうまく年を取った。作家が女性というだけでなく、作品が女性のものである。柔軟でもある。赤黄男―重信の前衛俳句(男俳句)もあっさり取り入れた。
重信は男の俳人(実質的門弟)に対しては自身の俳句を継承する多行作家を優遇した気配がある。が、鷹女俳句はそのまま受け入れた。本質的に自分とは異質の俳人だったからだろう。性別女性でも男性俳句に引っ張られる俳人は多い。そういった女流俳句作品は面白くない。鷹女俳句には春夏秋冬の具体的手ざわりがある。ただし秋冬になっても枯れていない。女の俳句というと鷹女が思い浮かぶ。
岡野隆
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