世の中はいつの時代も多事多難で誰もが〝今は変革期(変化の時代)〟と考えがちだ。で、話はちょっと脇道に入るが文学は気の長い世界である。そうそう大きな変化は起こらない。詩の世界に限定すれば短歌はいまだ俵万智・穂村弘以降の口語短歌・ニューウエーブ短歌の消化と継承の問題を引きずっている。俳句は有季定型写生のいわゆる伝統俳句に大きく傾いている。兜太や重信らの戦後俳句・前衛俳句以降、とりたてて新たな表現を見出せていない。戦後俳句・前衛俳句の突飛でもあった表現の限界が見えて来て、伝統俳句回帰になっているとも言える。
自由詩の世界は戦後詩・現代詩の影響が霧散して四苦八苦している。俳人は俳句と俳壇に目が釘付けという人が多いので他ジャンルにあまり目配りしないが、歌人は「昔の現代詩はスゴかったねー、今は見る影もないけど」と座談会などであからさまに口にするようになっている。
日本の三つの詩のジャンルはそれぞれちょいと停滞気味である。50年から70年くらいは一つの大きな文学潮流が様々な影響(問題)をもたしているわけだ。それを考えると毎月刊行される商業詩誌はなんなんでしょうね、と思わないこともない。詩誌では先月今月の詩の成果や年ごとの成果が強調報告される。毎月何か事件が起こっている。しかし後から見れば凪のようになにも起こっていなかったように見えることもしばしばだ。
ただ詩誌にも重要な役割はある。バックナンバーを読むと〝危機意識〟だらけだ。誰もがわあわあ現状を憂いて変革の必要性を説いている。これについては詩誌に限らずジャーナリズム全般について言える。現代は常に〝危機の時代〟なのだ。危機意識を煽らなければジャーナリズムは成立しないということである。たいてい具体的方策は示されず来月にto be continuedですが。しかしその暖簾に腕押し的なジャーナリズム的危機意識が本当に煮詰まると大きな変化が起こる。
元禄三年、「花見」と前書をし、「木のもとは汁も膾も桜かな」(「ひさご」)と詠み、伊賀の門人土芳に「花見の句のかかりを少し心得てかるみをしたり」(『三冊子』)と述べ、芭蕉が意識した唯一の「かるみ」の句などをはるかに超えた結果を残している。
「かるきといふは、発句も付句も、求めずして直に見るごときをいふ也。言葉の容易なる、趣向のかるき事をいふにあらず。腸の厚き所より出て、一句の上に自然ある事をいふ也」(許六「俳諧自讃之論」『俳諧問答』)。芭蕉から学んだ許六の「腸の厚き所より出て」が響く。
宮坂静生「芭蕉、その先見性―「おくの細道」私見」
特集「変革期の俳人は何をしたのか」が組まれていて、巻頭に宮坂静生さんが「芭蕉、その先見性―「おくの細道」私見」を書いておられる。ほかにも井上康明さんが子規・虚子について、仁平勝さんが新興俳句運動を、高柳克弘さんが戦後俳句について論じておられる。細かく見てゆけばほかにもあるが芭蕉と子規・虚子は外せないでしょうね。芭蕉は俳句文学の創始者だとも言えるので、変革というならそれまでの連歌俳諧との対比が必要ですが。
それはともかく宮坂さんが取り上げた「花見の句のかかりを」という芭蕉の言葉は、芭蕉が〝軽み〟に言及した一番古いものである。これについて高弟許六が軽みとは「言葉の容易なる、趣向のかるき事をいふにあらず。腸の厚き所より出て、一句の上に自然ある事をいふ也」という解釈をほどこした。
芭蕉の軽みについては昔から様々な議論がある。ただ芭蕉代表作は『おくの細道』などの紀行文である。これがけっこう厄介な代物で芭蕉は美文家であり名文家である。『おくの細道』などを読むと散文と俳句を切り離して考えられなくなる。散文が名句を生み出している面が確実にあるわけだが、俳人は句を中心に考えがちなので句が文を包含しているのであって文章の影響は少ない(句だけで名句である)と解釈しがちだ。しかしそれはどうかな。
許六の解釈(芭蕉理解)は前段の「かるきといふは、発句も付句も、求めずして直に見るごときをいふ也」の方が重要なのではないかと思う。「発句も付句も、求めずして」に文章も求めずしてと加えてもいいのではないか。紀行文と比較すれば句だけで孤立した俳句は軽くなる。どうしたって評釈の幅が狭くなるからだ。が、「直に見るごとき」ものであれば軽いまま秀句を生むことができると言っている。案外写生に近いと思う。
子規・虚子の写生は理論的な方法でもあったから、極論を言えば純客観描写俳句のことである。しかしそんなことをやり続けられるはずもなく、子規・虚子ともに主観(客観理論に沿えば主観で選んだ客観事物ということになる)を完全に排除していない。子規が嫌った主観は俳句論の中には見出せないが短歌論で明確に書かれている。「歌よみに与ふる書」に排除すべき主観とは「理屈」のことだとある。理屈のない、あるいは理屈を超えた主観はOKなわけで、それは「一句の上に自然ある事をいふ」と解釈してもいいだろう。
ちるさくら海あをければ海へちる 高屋窓秋
頭の中で白い夏野となつてゐる
山鳩よみればまはりに雪がふる
角谷昌子さんの連載「俳句の水脈・血脈―平成・令和に逝った星々」第十一回は高屋窓秋。いわずと知れた新興俳句を代表する俳人である。窓秋代表作は「ちるさくら」以下の三句だと言っていいだろう。秋の異称は白秋だが、窓秋には抜き難く「白」のイメージがある。代表句に「白い夏野」「雪」があるからだけではない。モダニズム的な色彩感覚を持ち「頭の中で」と主観的言葉を使っても、窓秋俳句には強烈な自我意識を感じ取れない。白いのだ。
「山鳩よ」の句は雪を見ているのは作家か山鳩かという二つの解釈がある。素直に取れば作家だろうが、忘我の山鳩の頭の中に雪が写ると感受することもできる。作家主体が虚になって、必ずしも写生的外界事物とは言い難い「海」や「夏野」や「雪」が写生されている。
ひかりの地月日の氷殖ゆるなり
きらきらと蝶が壊れて痕もなし
かの鷲は 去りぬ 古木を 忘じ去り
よく知られているように窓秋は四十代で俳句創作を中断し、重信「俳句研究」の求めに応じて二十年ぶりに「ひかりの地」五十句で俳句に復帰した。ここでも「(空)白」である。再び言葉が生まれるようになったわけだがそれは「氷殖ゆる」ということか。何もないこと、何も求めないことを表現しようとしたかのような句が並ぶ。
雪月花無心の巌そこに立つ
花の悲歌つひに国家を奏でをり
核の冬海は鉛となりにけり
黄泉路にて誕生石を拾ひけり
窓秋晩年の句である。「雪月花」「黄泉路にて」は窓秋らしい句だが、邪念や色気を感じさせなかったが窓秋にして晩年には「花の悲歌」「核の冬」のような句を詠むのかという無念さも湧く。
ただ角谷さんの窓秋論の最後には大井恒行さんへの聞書も掲載されていて、大井さん所蔵の窓秋染筆「花の悲歌つひに国家を奏でをり」が図版掲載されていた。達筆ではない。実に素直で正直な字である。それを見ていると「花の悲歌」の句の意図が分かってくるような気がする。
比喩的にしか言えないが、窓秋はそれほど大声でこの句を書いたわけではあるまい。ふとそう思ったのだ。直筆句の素直な筆跡には「自然ある」。窓秋のことを悪く言う人は少ない。人徳と言うべきか。
岡野隆
■ 金魚屋の俳句関連本 ■
■ 宮坂静生さんの本 ■
■ 角谷昌子さんの本 ■
■ 高屋窓秋の本 ■
■ 金魚屋の本 ■
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■