今回から数回にわたり、「フェスティバル/トーキョー 12」(以下F / T 12)の公演演目を取り上げる。
フェスティバル/トーキョーは池袋周辺の大劇場小劇場と連携して開催される「日本最大の舞台芸術のフェスティバル」である。過去四回開催され、特に昨年度は3・11直後の日本の様々な分野領域における「失語状態」下で、「我々は何を語ることができるのか」という命題と直面した。それから一年、舞台芸術は徐々にそれぞれの言葉で我々の「現状」を語りはじめ、そのことばの堆積のもとで命題は「ことばの彼方へ」に変形した。日本国内から発せられたことばに加え、いくつもの海外の舞台芸術が招聘されている。以下は、F /Tプログラム・ディレクターの相馬千秋氏のステイトメントから抜粋した一節だ。
福島から、東北からの距離感の中で、あるいは急速に書き変えられようとしている世界地図の中で、自分自身の立ち位置を確認し続けること。(・・・)他者を安易に代弁することなく、また他者に同化することなく、むしろ自分と他者の決定的な違いを受け入れた上で、自分の立ち位置に安住することなく、自分自身を問い続けること。
この一節に自覚されているとおり、「ことばの彼方」は我々の現在地、我々自身の現在形を指向している。東日本大震災後という時間のスケールで発せられた種々のことばの堆積を切り崩し、何を語ることができたのか、F / T 12は「語られたことば」の検証の場と捉えられているものと考えられる。
しかし、その検証は公演プログラムとして再び舞台に掛けられ、おのおのの創作者によって検証された我々の「現在」は、再び舞台上の「他者」のことばによって語られることになる。それは舞台芸術がひたすら「他者」を<再−生>する試みにほかならないからだ。チェルフィッチュが「現在地」の<再−生>のためにSFを用意したのと同じ理屈だ。その舞台で「他者」の語ることばは、いずれ再び何を語ることができたのかと検証されることとなり、その結果はまた「他者」の語ることばとなり・・・こうして舞台上では我々の「現在」についての何らかの決定項は際限なく保留される。その保留の限りにおいて、舞台に「他者」は<再−生>されつづける。
それを考えずしてF / Tの舞台が我々の「現在」の何を語っているかという一面にばかり執着してしまうと、我々は相馬氏が危惧する他者への同化に陥り、それを安易に代弁してしまうことにしかならないのかもしれない。じゃあどうするのかといえば、創作者による検証が舞台に掛けられ<他者化>する状況をこそ、検証すればいい。
本批評は我々の「現在」として(創作者の手で)検証されたとおぼしきものが、F / Tプログラム上演を経てどのように<他者化>されているかという観点を重視しようと考える。そして、創作者の検証結果が唯一の意味であるかのように固定化された(あるいは創作者に所有されたままとも言える)舞台芸術よりも、十分に<他者化>され創作者の手を離れて振る舞うようなものを積極的に評価する。<他者性>を片っ端から削除すれば、舞台上のことばは創作者の演説と化す。我々が最も危惧するのは、そのようなイデオロジカルな「他者」との同化であり、そのようなことばを安易に代弁することだからだ。
「何が語られたか」よりもむしろ台本テキストや身体表現、舞台装置、演出方法が<再−生>する「他者」が「何を新たに語りだすか」を考えるほうが、「現在」を舞台に保留して、舞台のことばを絶やさない為に重要なことかもしれない。創作者による「現在」の検証方法は、パンフレットの創作ノート等から断片的に窺い知れる。本批評がもくろむのは、そうした諸々の「語られた現在」と、舞台が「語り出す現在」の距離感を測る試みなのだ。
星隆弘
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■