鶴山裕司さんが『安井浩司読本』のことで「俳壇トラブル」に巻き込まれた、とのこと。話を聞くと、あまりにオモシロイので、ぜひそれ書いてくださいとお願いしました。
ようは金魚屋刊の『安井浩司読本』をテーマに、鶴山さんが酒卷英一郎さんと2人でコールサック誌のインタビューを受けた。ところがインタビュアーの関悦史さんが、鶴山さんの存在を完全無視した。その異様さに耐えかねた鶴山さんが、記事のゲラから自分の発言をすべて削ってくれ、と申し入れると、「ああ、そうですか」で済ませた、ということです。
このインタビューは6月に発行される文芸誌「コールサック」に掲載とのこと。これは見ものだなぁ。2人いたインタビュイーが、1人しか存在してないふりして編集されているのだろうから、まさしく前代未聞(爆)。普通ならそんなケッタイな事態を避けるため、編集者もホストもじたばたして説得に動くはずですがね。そうしないということは、つまり最初から意図的に無視した、と認めたってわけです。
だけんど、石川がそれに「偽計業務妨害罪じゃね?」と言ったのは、必ずしも関さんという物書き個人に対して、ってわけじゃないです。物書き同士の闘いには基本、法律なんぞ持ち出すべきじゃない。物書きは文筆という自前の武器で闘うべきで、それを放り出してパパに言いつける、なんて子供じゃあるまいし。仮に裁判に勝っても、物書きとしては終わってしまう。
しかし今回は、コールサック誌という企業体の企画です。その依頼で、鶴山さんは何日かかけて準備もしただろうし、往復5時間かけて3時間のインタビューを受けた。そうやって時間を浪費させるとともに、意図的な嫌がらせで不快な思いをさせ、鶴山さんの日常の仕事はそのぶん滞ったはずです。すなわち「嫌がらせ」では済まない「損害」が生じている。まぁ、嘘の注文20人前でピザ屋に損害を与えるのと変わりませんな。それがもっぱら関さんの偽計だったとしても、それを許し、フォローを怠ったコールサック誌の企業としてのコンプライアンス(法令遵守)は問われる。
今回は『安井読本』についてのインタビューだったはずですが、鶴山さんは『安井読本』の編集統括で編集長です。「(関さんは)僕に質問することもなかった」と言っておられますから、編集統括を呼んどいて「編集方針は?」「その意図は?」とすら聞かなかった。鶴山さんは、関さんが何をしたかったのか、と訝しんでおられますが、石川は編集者なので、そばにいたコールサック誌の編集者が3時間もの間、いったい何をやっていたのか、まじで不思議です。「誠にありがとうございました。」って、正気か…?
もちろん鶴山さんは酒卷さんに配慮して、「自分の発言だけを削って単独インタビューにしてくれ」と、おっしゃった。実際、そうしないと記事そのものがボツになる。しかしそのことと、事実に基づく情報を伝えるジャーナリズムの使命とは別です。最初から酒卷さんとの一対一インタビューだったふりをするのは、明らかな虚偽です。そうなった背景をきちんと説明しないのは不誠実で、あまりにも読者を馬鹿にしている。
石川だったら、6月に掲載のそのインタビュー記事と併せて、今回の鶴山さんの原稿「俳壇ってなんだ?」を転載させてもらうなぁ。だって、今回のことは〈安井浩司をめぐる俳壇状況〉の象徴的できごとでもある。それを多角的に捉えることで初めて全体像が見えてくるわけで、それこそまさにジャーナリズムの務めでしょ。文芸編集者の血が騒ぐぜ。
以上が金魚屋の編集者としての見解なんだけど、石川、なんとなく腑に落ちないところがあって、ちょっと調べました。関さん、トラブルは2回目ですね。それも構造がよく似通っている。最初は芝不器男新人賞の選考の席で、ある候補者に対して関さんが暴言を吐いた、と言われるトラブルです。今回と共通して感じるのは、関さんという方は、いつも自身と〈権威〉との距離を測っておられるのではないか。そして、ご自分が選考委員の立場にある、あるいは『安井読本』を宣伝してやる立場にあると思うと、相手が自分に逆らえないと思い込んでしまうのかもしれない。
これは石川の経験談ですが、世の中には自身の優位性の〈幻想〉を保つべく、めったにない機会を捉えては他人の尊厳を踏みにじらずにいられないメンタリティの人がいます。なぜその人がその〈幻想〉から逃れられないのか、他人にはわかりません。
関さんは、その最初のトラブルの責任をとって、即座に謝罪して芝不器男新人賞の選考委員を降りられました。その後、コールサック誌の関さんのインタビュー連載が開始しましたが、第1回は芝不器男賞選考委員の齋藤愼爾さんです。インタビューが収録されたのがトラブルの前か後かは知りませんが、斎藤さんには丁重にインタビューなさったと思います。斎藤さんへのインタビューも、鶴山さんと酒卷さんへのインタビューも文学的選択のはずですよね。なのに相手によってインタビュアーとしての態度が激変する。
いずれ物書き同士は、しばしば対立するものです。けれど正当な批判は、不当な嫌がらせや誹謗中傷とはまったく違う。批判とは私怨でなく、もっと大きな価値あるもののために為されるのです。激しく言い争っていたとしても、互いが理想とする文学に向けて、という相互理解がどこかにある。「堂々と対立できる人であれば、僕は軽蔑はしない」と鶴山さんが書かれているのも、そのことです。そして法律家も同じ人間ですから、文学以外のいわゆる「名誉毀損罪」の免責もこの価値観で考えられています。
鶴山さんは、いまだに何か「ぬらりとした不快感」が残っている、とおっしゃっていました。関さんの最初のトラブルは「侮辱罪」、今回は「偽計業務妨害罪」と一般社会では解釈されるでしょうが、それらは関さんにとって、何かしらの大きな理想に近づくために為されたものなのか。俳句の理想があったから、と言うなら、知りたい。それを陰湿なやり方ではなく、鶴山さんに正面から伝えることで、仲良くはなれないにせよ、最低限の相互理解はできるのではないでしょうか。
■ 鶴山裕司さんの『安井浩司研究No.007』未刊詩集『Die lilaue wolke, Die meimer Augen』(その三) ■
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