今回から唐門会所蔵の安井浩司氏作品より未刊句集を紹介していきたいと思う。お借りした資料を整理したところ、製本された安井氏の未刊句集は12点あった。その他に原稿用紙のままの俳句原稿が10点、それに製本された評論が1点である。評論はすでに雑誌等に発表されているのかもしれないが、掲載誌は確認できていない。少なくとも評論集未収録作品である。
最初に未刊句集を手にしたとき、きっとどこかの雑誌に発表された作品原稿を唐門会が譲り受けて製本したのだろうと思った。しかしそうとは言えないのである。それらの多くは、まず唐門会のメンバーに示すために書かれたのではないかと推測される。また未刊句集12点のうち3点は、そのまま出版できるだけの量と質をそなえている。さらに未刊句集には、未発表句が大量に含まれているのである。
簡単に概要を示しておくと、未刊句集は昭和48年(1973年、安井氏37歳)から57年(82年、安井氏46歳)までの約10年間に書かれた作品である。句集で言うと、第4句集『阿父学』(49年[74年]刊)から第7句集『霊果』(57年[82年]刊)までにあたる(未刊句集には63年[84年]刊の第10句集『汝と我』までの作品も散見される)。恐らく昭和48年から57年(73年から82年)までが、最も唐門会の活動が活発だった時期なのだろう。
これまで本稿で紹介してきたのは安井氏の墨書作品だった。俳句作家が墨書を書いて親しい人に贈るのはよくあることである。色紙や短冊が一般的だが、安井氏の場合、タイトルを付けた折帖形式(句集形式ともいえる)の作品があり、そこには未発表句が含まれているのが他の俳人とは大きく異なっていた。その理由は未刊句集を読めばよくわかる。安井氏は句集を公刊する前に、原(ウル)句集とでもいうべき作品群(作品集群)を制作している。唐門会所蔵の折帖作品や未刊句集はその一部だと言っていい。
つまり安井氏の折帖作品や未完句集は、句集が公刊されるまでの氏の創作の過程を知るための貴重な資料だということになる。これらの資料から、安井氏がどのように公刊句集を作り上げていったのかを知ることができるのである。だたそうであるからこそ迷いが生じてしまった。そういった、いわうゆる創作の秘密を明らかにしていいのだろうかと思ったのである。私一人では決められないので、唐門会の酒巻英一郎氏から資料を借り出した鶴山裕司氏にたずねてみた。以下は氏からのメールである。
「結論を言えば書いてください。『安井浩司『俳句と書』展』公式図録兼書籍は、安井文学入門書としては必要十分な内容に仕上がったと思います。あれを読めば安井さんの俳句に対する考え方は理解できるはずです。しかしもう一歩踏み込んだ安井文学読解はこれからです。安井さんは今回の墨書作品を『いわゆる「遺品」です』とおっしゃった。僕は優れた文学者の言葉を信用します。人間の寿命を予測するのは難しいですが、少なくとも安井さんがやりたいことと残された時間のバランスが取れていない、時間が足りないと感じておられているのは確かです。乱暴に聞こえるかもしれませんが「遺品」として墨書を残そうと覚悟した作家さんに遠慮は無用です。特に安井さんはうしろを振り返らない方です。未刊であろうと安井さんが手放した作品については書いていいです。僕は安井さんは現存俳人の中で最も優れた仕事をしていると確信していますが、現在進行形で起こっていることを正確に理解するのは難しい。未刊句集等について書いていただくことはそれに寄与すると思います。」
免罪符をいただいたので、心おきなく書くことにする。未刊句集篇①は『汝がコスモロギア』である。『汝がコスモロギア』は唐門会のために書かれた作品である。全文を本稿の最後に活字起こししてある。安井文学を検討・研究なさる方は参考にしてください。
簡単に概要をまとめておくと、『汝がコスモロギア』は原稿用紙8枚を折ってホチキスで綴じた簡易装で、唐門会主催者の金子弘保氏への手紙が添付している。冒頭に『第二弾、新作七十句を送ります』とあるが、今回お借りした資料に第一弾らしきものは見つからなかった。また安井氏は『もしや、「汝がコスモロギア」を安く見積ったら、唐門会は解散ですぞ』と書いておられるので、唐門会が発足したばかりの昭和48年(1973年)頃の作品ではないかと推定される。
安井氏は俳誌『未定』第70号掲載の『自筆年譜』平成4年(1992年)の項に、『次第に俳句活動に自己懐疑を深め、ある種の〈孤立化〉を目指す』と書いておられる。旺盛に句集は刊行するが、この頃から俳壇メディア等との接触を断ったのである。ただ『汝がコスモロギア』添付の私信に『私もいよいよ発表機関が無くなったようで、どうやら唐門会投稿が唯一の機関となりつつあるようです』とあるように、昭和48年(1973年)当時も発表場所は不足していると考えておられたようである。48年には加藤郁乎や大岡頌司らと刊行した俳誌『Unicorn』は終刊していたが、安井氏は永田耕衣主宰の『琴座』、高柳重信主宰の『俳句評論』の同人だった。しかしこれらの俳誌では多くの同人の作品を掲載しなければならない。それではとても足りないと安井氏は考えておられたのだと思う。
『汝がコスモロギア』は『お前の宇宙観、世界観』といったくらいの意味である。『汝が』は自己を客体化した言葉だと解釈できるので、安井氏の宇宙観=世界観を表した作品だということである。つまり安井氏は一つの主題(宇宙観=世界観)を前提に作品を作っている。
『汝がコスモロギア』には70句が収録されている。第4句集『阿父学』に収録された句が28句、第5句集『密母集』に収録された句が3句含まれている(半分以上の39句は未発表句)。収録句の多さから言えば『汝がコスモロギア』は原(ウル)『阿父学』である。しかし実際に刊行された『阿父学』は『遺典』『幼年や』『帰去来』『色合せ』『無日抄』『商人』『仮文』の7章から構成されており、『汝がコスモロギア』という章タイトルはない。『汝がコスモロギア』という主題は廃棄された、あるいは他の主題に分解・吸収されていったのである。
安井氏の俳句制作方法が他の俳人と大きく異なるのは、まず作品が一定の主題に沿った連作として作られることにある。安井文学では作品は必ずといっていいほど連作の形を取る。しかし安井氏はたった一つの主題で句集を作り上げない。主題は次々に現れ、次いでそれら主題そのものが取捨選択されてゆく。主題に沿った複数の連作が書かれるが、それが弁証法的に統合されることにより、最終的に一つの句集タイトル(大主題)にまとめられた章タイトル群(小主題群)となるのである。
このような作品集の作り方をしている俳人はいない。たいていの俳人は、漠然とした主題は持っていても、数年間に書きためた作品から出来の良いものを選んで句集にしている。高柳重信系の前衛俳句作家には句集を貫く主題が読み取れるが、ほとんどが一句集一主題である。安井氏のような弁証法的句集制作方法を採っている俳人はいないのである。
また安井氏は俳句形式に関して極めて理知的かつ論理的な思考をする作家だが、俳句作品についてはそうは言えないと思う。『汝がコスモロギア』を読んでもわかるが、安井氏は作品を一気に書き上げている。いわゆる自動筆記的に作品を書いているのである。ただこの自動筆記は一般的な俳句のそれとは根本的に異なる。俳句の一般的自動筆記方法はいわゆる景物写生である。正岡子規が提唱したように目に映る景物を詠み尽くすのである。俳句文学はたいていの場合、この方法によって新しい表現・観念を生み出そうとしてきた。
簡単に言えば安井氏の自動筆記は観念的ある。俳句よりも平安時代の和歌(短歌)に見られるような、極めて密教的な想像(創造)空間から言葉が生み出されている。この点でも安井氏は空前絶後の俳句作家である。次回以降、そのような極めて特異とも言える安井文学の生成方法についてさらに探っていきたい。
岡野隆
■ 『汝がコスモロギア』表紙 ■
■ 『汝がコスモロギア』本文 ■
■ 『汝がコスモロギア』添付私信(金子弘保氏宛) ■
【未刊句集『汝がコスモロギア』書誌データ】
満寿屋製の原稿用紙を二つ折りにして背をホチキスで留めてある。黒インクの万年筆書きで章番号のみ赤鉛筆で筆記。原稿用紙の枚数は8枚(16ページ)。全70句を収録。後に第4句集『阿父学』に収録される句が28句、第5句集『密母集』に収録される句が3句あり、残り39句は未発表句。コクヨの原稿用紙を二つ折りにした金子弘保氏宛の私信が挟み込まれている。制作年度は記されていないが、私信に『もしや、「汝がコスモロギア」を安く見積ったら、唐門会は解散ですぞ』とあることから、『お浩司唐門会』が発足した昭和48年(1973年)、安井氏37歳の時の作品ではないかと推定される。
【未刊句集『汝がコスモロギア』全文】
汝がコスモロギア(*1) 安井浩司(雅印)
Ⅰ
蛇とぶやはるかな葱の商人に (④『阿父学』昭和49年[1974年])
かの神社(みや)を訪うこともなし麻畠
蛇山の気流にころぶ妹もはや (④『阿父学』昭和49年[1974年])
花榊隠し田へ行く道もなし
姉消えて常世に立てる蛇の高さ (④『阿父学』昭和49年[1974年])
他山におどるわが一瞥のこうろぎが (④『阿父学』昭和49年[1974年])*2
あかしやをぬいゆく犬の吠叱(ヴエダ)ならん (④『阿父学』昭和49年[1974年])
Ⅱ
蛇山の晴れるや藍の乳母車
熟しつつ畠をぬいゆく蛇男(へびお)こそ (④『阿父学』昭和49年[1974年])
向日葵やおみなは砂へ沈みゆく (⑤『密母集』昭和54年[1979年])
青麦を耳の高さに往ける者よ (④『阿父学』昭和49年[1974年])
白雲の去ぬればみえる山の餓鬼 (④『阿父学』昭和49年[1974年])
古代裂(ぎれ)を思えば谷から急にひばり (④『阿父学』昭和49年[1974年])
早春斯くして人は天にも昇るらん (④『阿父学』昭和49年[1974年])
Ⅲ
枯荻を起せばもとの暗き家 (④『阿父学』昭和49年[1974年])
ぶらんこに乗るや蛇を常食し (④『阿父学』昭和49年[1974年])*3
夏山のねんぶつ音楽湧きねずみ
秋風や終のふもとにおこる足械(あしかせ) (④『阿父学』昭和49年[1974年])
塩を欲りすすきに立てる根の人か
かの塔より降りきて大工は縞蛇へ
煙管(えんかん)を噛みつつ神社へ登る寂しさ
Ⅳ
少年へいざ淡雪をかぶる樽
校庭に蛇遊びして九月も去りぬ
黒猫が帰る麦生を大工は往けり
大宮過ぎてわが踏切のこうろぎよ
尼の寺へゆく荒地顔面のうぐいす (④『阿父学』昭和49年[1974年])*4
青山椒ときどき神社(じんしや)の消えゆけり
種を撒くはるかな神社(みや)の凝視者よ(④『阿父学』昭和49年[1974年])*5
Ⅴ
大工あゝ蛇山にみえる黄水仙
ひるがおの根の混沌の白猫よ
神官(ねぎ)のいろゆうべの草をなぎ倒す
古代飛矢が近づいている桜の根に
父とねてときどきに立つ神社の水は
犬ふぐり汝が囊より時は漏れたり
いらくさくぐる犬の頭も神ならん (④『阿父学』昭和49年[1974年])*6
Ⅵ
竹の子抜く人のけむりの神去(かんさ)るか (④『阿父学』昭和49年[1974年])*7
野鼠も正午(ひる)を過ぎればみな僧侶 (④『阿父学』昭和49年[1974年])
物干台よりわが春雪の虎いずこ
野をもやすわれらは虎に密着し
行く水瓢箪に汝が舌を入れよ
祖父(おおおや)と寝てこがらしの海は漏れたり
雨野にころぶ人ふところに蛇有りや
(雨野にころぶひと懐に蛇ありや)(*8)
Ⅶ
蜘蛛の囲のふと天才である怖れ (④『阿父学』昭和49年[1974年])
天才の墓へ参るに犬雲雀
麦秋の大工は蛇を地に投げる (⑤『密母集』昭和54年[1979年])
水蜘蛛をうかべる子宮の外の秋 (⑤『密母集』昭和54年[1979年])*9
雨空のみがきにしんは自転せり (④『阿父学』昭和49年[1974年])
神殿の春のうなぎは踏まれたり
遠つ神社(みや)をひそかにめざす犬の茄子
Ⅷ
丸鋸へかぶさる人を神楽男(かぐらお)に (④『阿父学』昭和49年[1974年])
神楽からかえり鴉を飼うは今 (④『阿父学』昭和49年[1974年])
少年や蓮華生えくる貝の跡 (④『阿父学』昭和49年[1974年])
薄明に入りゆく川のあぐら場よ
へらぶなを握る悪土の妻ならん
みろくを感じている天井の黒猫も
ほととぎすみがきにしんに変(な)る人よ (④『阿父学』昭和49年[1974年])*10
XIV(*11)
椎の木のふと落ちている青檀那 (④『阿父学』昭和49年[1974年])*12
御糺明沖から赤犬流れきて
丸鋸にでるこがらしの神奴(かむやっこ)
ひるすぎに山人は来る壜の蛇
裏山の敦盛草に似たるかな
姉とねて峠にふえるにがよもぎ (④『阿父学』昭和49年[1974年])
死鼠へ急に高いぶらんこの梵か
XV
旅人木(りょじんぼく)うしろが梵のおもいでよ (④『阿父学』昭和49年[1974年])*13
ふろしきに九月の失訳経のまま
赤星となり杉算(すぎざん)の夜は去れり
藤蔓にみろくの喉は細きかな
二階から始まる道よおきなぐさ
わが犬に隠れて眠る遠津波
死鼠や日蔭に地涌(じゆ)の友ならん (④『阿父学』昭和49年[1974年])*14
【『汝がコスモロギア』挟み込み私信】
第二弾、新作七十句を送ります。
妙作がいくらか混入している筈。もしや、「汝がコスモロギア」を安く見積ったら、唐門会は解散ですぞ――これは冗談。
偉そうなことを前書しましたが、本当はもう少し練るべき句が多いはずです。上京の、一宵一刻のサカナにというわけで急遽まとめた次第。同巧異曲のもので水増しもありますが、参考として組入れたわけで、念の為。
ところで、出来た作品というものは晒さねばなりません。温めておいては、作品が変にいじけるものです。しかし、私もいよいよ発表機関が無くなったようで、どうやら唐門会投稿が唯一の機関となりつつあるようです。
今度お逢いしたときに、拙稿をサカナにし呪文のキャッチボールでもやりとりして、酒をおいしくしたいものです。歓談の場に〝拾遺〟と〝汝〟(*15)の両稿を備えおき下さい。
象人舎主人様(*16) 安井生
【註】
* 句の後に収録句集名を表記してある。数字①、②…は第1句集、第2句集…の略。
1 『宇宙論』というくらいの意味か。
*2 定稿では『こうろぎ』は『こおろぎ』。
*3 定稿では『蛇』に『くちなし』のルビ。
*4 定稿では『尼の寺』は『尼寺』。
*5 定稿では『種を撒く』は『種播くや』。
*6 定稿では『頭』に『こうべ』のルビ。
*7 定稿では『神去(かんさ)るか』は『神去(かんさ)るに』。
*8 鉛筆で異稿が書かれている。
*9 定稿では『子宮』に『みや』のルビ。
*10 定稿では『葉の裏のみがきにしんに変(な)る人よ』に改稿か。
*11 『Ⅷ』から『XIV』に飛んでいる。
*12 定稿では『落ちている』は『落ちてくる』。
*13 定稿では『赤犬のうしろが忿怒のおもいでよ』に改稿か。
*14 定稿では『涌(じゆ)』にルビなし。
*15 『拾遺』と『汝』も未発表草稿のようだが、唐門会からお借りした資料にはなかった。
*16 金子弘保氏の雅号。
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■