今号は第二十七回三田文學新人賞発表号で、滝口葵巳さんの「愛しのクリ-レ」が受賞なさった。略歴には一九五七年生まれ六十三歳(応募時)とある。一昔前は新人は二十代から三十代が多かったが、だんだん年齢が上がってきているようだ。それはまあ当然でしょうね。テレビのお笑いの世界では四十代が若手と呼ばれているそうだ。現代は様々な技巧が集積され新しい表現の幅がどんどん狭くなっている。また現代社会は非常に捉えにくい。小説は基本的に現実世界を描くものだが、一過性の風俗に頼っていたのではたまさか話題になったとしても次が続かない。ある程度の知性と感受性の成熟がなければ現代社会は捉えにくいと思う。滝口さんがどんな経歴をお持ちなのかは存じ上げないが、受賞作が処女作ではあるまい。ある程度小説を書き慣れた方だと思う。
IDDMは、外部からインスリンを補充しないと死に至る難病で、日本では年間発症率が十万人に一人か二人くらいといわれている。怜歌は、劇症IDDMで、病院に担ぎ込まれてから二日間意識がなく重篤な状態だった。両親は医者から、「助からないかもしれません。覚悟しておいてください」と言われていたそうだ。(中略)怜歌は、注射療法では複数の薬の調整が難しいため、緊急入院する経験を幾度か重ねて生きてきた。発病から毎日、頻繁に自己注射してきた。が、三年前からインスリンポンプという、携帯電話くらいの大きさの機器を常時身につけて、薬を皮下注入する方法に切り替えた。主治医の言った通り、注射より便利で血糖コントロールしやすくなったことは、実感している。
(滝口葵巳「愛しのクリ-レ」)
滝口さんの「愛しのクリ-レ」の主人公はIDDMという難病を患い、それと一生付き合っていかざるを得ない三十九歳の怜歌が主人公である。両親は十年前に亡くなっていて一人暮らしだ。子供の頃に発症して以来自分でインスリンを注射していたが、しばらく前からインスリンポンプという機器を使うようになった。天涯孤独な女性だが暗さや寂しさとは無縁である。会社勤めをして淡々と生きている。ただ小説だから事件は起こらなければならない。
墓前で半時間ほど座っていた。(中略)
海沿いを散策しながら写真を撮ったりして過ごし、レストランに入った。(中略)食欲はあまりなかったが、定食をオーダーした。(中略)
追加で薬を入れたにもかかわらず、血糖値は下がるどころか更に上がっている。高血糖を是正する分量と食事分の薬を入れようとポンプを操作していたら、どういうわけか、ポンプの画面に、「ポンプエラーが発生しました。注入を停止します。エラーコード5X」と表示された。(中略)
怜歌は、なんとか気を取り直して、困ったときの連絡先であるポンプメーカーの二十四時間サポートセンターに連絡しようとリュックから手探りでスマートフォンを取り出した。(中略)
「重大な故障ですからすぐに使用を中止してください。今日は休業日でメーカーの代理店には月曜日以降しか連絡がつかず、修理点検などの詳細はわかりません。その間の治療については、かかりつけの病院に相談してください」
先ほどの女が事務的に答えた。(中略)互いの温度差が悲しい。
(同)
怜歌は両親の墓参りに墓がある離島に出かけた。そこでインスリンポンプが故障してしまう。「早く治療しなければ、とんでもないことになる」のだが、急いで船着き場に行ったが連絡船はすでに出た後である。数時間後の船を待つしかない。しかしその間に身体はどんどん弱っていく。怜歌は島で知り合った親切な老人に船会社に電話してもらい、船で本土に運ばれた後、すぐに救急車で緊急入院した。「異種移植手術を受ければ、もうこんな苦しい思いをせずにすむはずだ。異種移植という言葉が、魅惑的に響くようになっていた」とある。
異種移植は最新のIDDM治療法で、子豚の膵島細胞を加工して人間に移植する治療法である。新しい治療法だからリスクはあるが、移植を受ければもうポンプは使わなくてもよくなるのだった。しかし怜歌は迷っていた。無菌状態で取り出された子豚を使った――当然子豚の命を奪うことになる――治療法に抵抗を感じていたからである。島での危機的な体験は異種移植を受けるかどうかの決断の伏線でもある。
「怜歌さんも怖くなっただろ。手術受けるの、嫌になったでしょ。(中略)」
「わたしは現に見てはいなから、わからない。あー、でも。逆に受け皿のわたしたちが、手術を申し込んだ人間が逃げては駄目だと、責任取らなきゃという気になった。(中略)」
「へぇー、意外だな。(中略)」
「違うよ。それは。わたしは剥製作りをしているから、そういう考えになったのかもしれない」(中略)
「それと、移植手術とどういう関係があるの?」
「はじめは、好奇心だけで参加して、においのきつい死体が気持ち悪いのを我慢するのに精いっぱいだったのが、何体もの動物の遺体を素手で扱ううちに、自分でも予想しなかったことに気づいたの。わたしは、仏像を拝むときに崇高な何ものかに見据えられているような心持ちになるんだけど、剥製作りの作業中、それに似た感覚を覚えるの。実は、移植手術のことを考えるときも、そうなんだ」
(同)
この小説のもう一つの事件は、ブックカフェで働いているIDDM仲間の聖(男性)との対話である。異種移植手術のことを知ると聖はすぐに手術の予約をした。怜歌は島での危機的な体験もあり、聖に続いて手術を受けることを決断したのだった。しかし聖は手術を受けないことにしたと言う。理由は患者会の企画で子豚の手術を見たからである。無菌室のような部屋で親豚から帝王切開で取り出された子豚がすぐに膵島細胞を取り出され、殺されるのを見てショックを受けたのだった。
聖は隠し撮りした子豚の写真を見せ、「怜歌さんも怖くなっただろ。手術受けるの、嫌になったでしょ。そう思うの、自然なことだよね」と言う。しかし怜歌の決断は変わらない。その理由を怜歌はしばらく前から博物館の市民講座で剥製作りを始めたことにあると言う。剥製作りの時に怜歌は「崇高な何ものかに見据えられているような心持ち」になり、「移植手術のことを考えるときも、そうなんだ」と説明する。
三田文學新人賞の枚数制限もあると思うが、この説明はいささか弱い。生命の尊厳、その倫理を巡って怜歌と聖は基本的に対立するわけだが決定的な対立には至らない。聖は「僕にはちょっと理解できないなぁ。ごめん。でも、怜歌さんの真摯な思いは伝わってきたよ」と言う。怜歌と聖は恋人同士ではなく、患者仲間だがブックカフェのお客と店長の関係だからそれも自然だが、残酷を突き抜けた抒情が必要かもしれない。
そんな冬のある夕間暮れ、帰宅した母が目の下に影を落としたまま、ぽつんと言った。
「生きていくの、しんどいな。一緒に死のうか」(中略)
「お母さんの言うとおりにするよ。どうすればいいの?」
もうランドセルを背負うことはないのだ。母は、怜歌から目を逸らせて台所まで走っていって、流しの前で水道の蛇口を開いてじゃんじゃん水を流し続けて、肩を震わせながら、時々、くくっ、と声を出している。(中略)
その晩はビーフステーキが出て、うちにしてはすごく豪華な献立でびっくりした。(中略)
それから母はもう、「死のう」なんて言うことはなかった。
(同)
この叙述は文学として非常に美しい。
少し言いにくいことだが、作者の滝口さんが実際にIDDMという病気を抱えておられるのかそうではないのかによって――小説ではフィクションが許されるのでまったくの架空でもかまわないが――この小説の読み方は自ずと変わってくるところがある。
ただ文学は作家の実際の生とは別種の残酷さを必要とする表現でもある。曖昧なヒューマニズムや観念が小説を美しくすることはない。同じテーマでもっと長い小説を読みたい作家である。
池田浩
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