No.127『国宝 東京国立博物館のすべて』展
於・東京国立博物館
会期=2022/10/18~12/18(平成館)
入館料=2,000円[一般]
カタログ=3,000円
うー、またしても会期ギリギリで美術展時評アップです。わたくし、このところ小忙しいのですねぇ。今回は泣く子も黙る東博さんの、寝た子も起きる『国宝 東京国立博物館のすべて』展。東博所蔵の国宝をズラリと並べるという展覧会だから行かなくてもいいかな~と思ったのだが目の保養のために観覧してきた。美術は人間の感性に訴えかける表現なので好き嫌いがハッキリ分かれるがほかに見たい美術展もなかったんだなぁ。
東博開館150年記念の展覧会なので前々から企画されていたわけだが、コロナの影響もあって今年はどこの美術館も展覧会はイマイチパッとしなかった。人だけじゃなくて物の動きも鈍くなってるんですね。東博特別展の醍醐味は一つのテーマに沿ってこれでもかってくらい作品を集めてきて、そのたびに「あーめんどくせ~」と感じるほど詳細な解説を付けたぶ厚い図録を刊行することにある。ただし我慢して読むととても勉強になる。今回は一点だけ取り上げても本一冊書ける国宝を並べたわけだから物同士にほとんど繋がりはない。また国宝が東博のすべてではないので文字通り開館150年の顔見せ自祝展だった。気楽に楽しめる展覧会である。ただしホントに凄い物が展示されております。
『普賢菩薩像』
一幅 絹本着色 縦一五九・四×横七四・四センチ 平安時代 十二世紀 明治十一年(一八七八年)購入 昭和二十六年(一九五一年)指定 絵画第一号
日本政府が重文・国宝に指定するのはいわゆる骨董である。こういった古物の面白さは日本人にはストレートに入って来ない。なんやかんや言って子どもの頃から仏像仏画、日本画浮世絵などを見慣れて目が記憶しているので「またか」と思ってしまうのである。これは外国でも同じで、自国美術の素晴らしさを外国人に指摘されて「ああそうか」と気づくことが多い。
『普賢菩薩像』は東博の収蔵品台帳で絵画部門の第一番に登録されている。東博の始まりから収蔵されていた作品でいわば東博の顔だ。来歴はよくわかっておらず明治維新後の廃仏毀釈のどさくさで奈良の古刹から流出したようだ。彩色はだいぶ剥落していて絹本(絹の画布)も黒ずんでしまっているが、制作当時はキンキラだった。今のチベットなんかの仏画の華やかさに近い。平安時代の仏教は光り輝く仏の姿が見え天上の音楽が聞こえてくるような強烈な幻視的宗教だった。そこから煌びやかな平安芸術(絵画だけでなく文学、工芸品)が生まれていったんですねぇ。
骨董は書画骨董と呼ばれることもあるが、これは日本・中国・朝鮮などの東アジア圏独自の概念である。書(文字)と画(絵)と骨董―その他の工芸品―から構成されているわけでその筆頭が書画である。また書画骨董はそのまま古美術の序列である。文字とその視覚化である絵画がなければ文明は隆興しないという東アジア人の思想を表している。極端なことを言えば東アジアでは文字は神聖表意文字である。特に中国はそうで故宮博物院の最高の秘宝は王羲之らの書跡である。
『法隆寺献物帳』
一巻 紙本墨書 縦二七・八×全長七〇・六センチ 奈良時代 天平勝宝八歲(七五六) 明治十一年(一八七八年)法隆寺 献納 昭和三十三年(一九五八年)指定 古文書第七号
絵の次は書ですね。日本は中国から文字を移入した(学んだ)のでその始まりになった貴重な中国書跡もかなりの点数が国宝指定されている。ただ東博というか日本の書跡で代表的なものはやはり法隆寺関係文書だろう。
法隆寺は言うまでもなく聖徳太子ゆかりの寺である。法隆寺建立から百三十年ほど時代が下るが東大寺を創建した聖武天皇が崩御なさると妃の光明皇后と皇女孝謙天皇(女帝)が聖武天皇遺愛品を東大寺(金光明寺)を始めとする寺院に献納なさった。その多くが現代まで東大寺正倉院に伝わっている宝物である。『法隆寺献物帳』は孝謙天皇の法隆寺献納の際の目録で献納の趣旨が記されている。巻末に藤原仲麻呂や永手の署名がある。
法隆寺の宝物の多くが今は東博所蔵である。明治初期の廃仏毀釈で法隆寺は荒廃し、宝物の流出を怖れた当時の住職が皇室への献納を申し出たのだった。皇室所蔵になった後、後紆余曲折あって東博所蔵(国有)となり敷地内の別館法隆寺宝物館でその多くが常設展示されている。
古い遺物はたくさん残っている。ただそのトップはやはり正倉院御物だろう。土中から発見された出土品ではなく一千二百年以上も受け継がれて来た伝世品だからである。長い年月の間に流出した物もあるが今後市場に流出することは絶対にない。和物に限定すれば国宝中の国宝である。
『秋冬山水図』雪舟等楊筆
一幅 紙本墨書 各縦四四・七×横三〇・二センチ 室町時代 十五~十六世紀 昭和十一年(一九三六年)購入 昭和二十八年(一九五三年)指定 絵画第六九号
現存数は少ないが雪舟は日本水墨画の始祖で最大の巨匠。教科書に載り切手にもなったからこの絵を覚えておられる方も多いだろう。人間は子どもの頃から数え切れないほど絵を見ているが、その中の数点を目が無意識的に記憶している。そういった作品は掛け値なしの傑作である。雪舟『秋冬山水図』もそんな傑作の一つ。左側の垂直の断絶線があれこれ問題になる作品でもある。なぜこんな表現になったのかはいまだにわかっていない。ただ雪舟は禅の僧侶でもあった。断絶線の左側に山の外観、右側に山の内実(岩肌)を描いたのかもしれない。禅的な表裏一体、あるいは円相の表現ではなかろうか。
鎌倉末から室町にかけて日本では禅宗が一世を風靡した。世界を無の一如で見つめる禅的精神性(基本的には無常観)は現在に至るまで日本人の精神基層である。室町を境に平安時代の極彩色の妄想空間的密教が無を中心とする禅的風土に変わったのだった。それを端的に表した作品が雪舟『秋冬山水図』である。世界的に見ても絵画から色が失われるのは尋常な事態ではない。禅が隆盛した日本と中国でしか起こっていない。実物を美術館で見ると「ああこんなに小さかったのか」と思う作品でもある。図版で見ると実物より大きく感じられる作品もまた傑作である。
『鷹見泉石像』渡辺崋山筆
一幅 絹本着色 縦一一四・二×横五六・九センチ 江戸時代 天保八年(一八三七年) 昭和十三年(一九三八年)購入 昭和二十六年(一九五一年)指定 絵画第三号
今回の展覧会で一番見たかったのが渡辺崋山筆『鷹見泉石像』である。東博では定期的に所蔵品を常設展で展示しているが『鷹見泉石像』はめったにお目にかかれない。繊細な彩色画だから光で退色するのを怖れて最低限の展示に留めているのかもしれない。崋山畢生の傑作である。
崋山は三河(愛知県)田原藩家老で蘭学者で画家だった。ほとんどの人が冤罪で罪に問われた蛮社の獄で蟄居を命じられ、四十九歲の若さで切腹して果てた。像主の高見泉石は古河藩(茨城県)江戸詰家老で大塩平八郎の乱を鎮圧した人である。見てわかるとおり西洋画の技法を積極的に取り入れている。
崋山は初期西洋画の先駆者だった。ただ西洋画一辺倒だったわけではなく従来的日本画も数多く描いている。中には日本画と西洋画をマージした作品もある。確か静嘉堂所蔵作品に崋山作の鯉の滝登り図があって、背景は西洋画なのに鯉は従来的な日本画で描かれていた。異文化がぶつかり合った時に生じる変化が如実に表現された作品である。こういった作品は面白い。また崋山作品はどれもこれも美しい。崋山の高い精神性が絵画に表れているとしか言いようがない。
えっらい時間をすっ飛ばしているが、仏教流入によって文字と思想を知ることで文字通りの日本の文明開化が起こり、中世に至って禅が日本人の精神性を決定し、御維新で欧米文化が大量流入して現代にまで至る中国文化ベースの文化と新たな欧米文化の混淆が起こったというのがザックリとした日本文化の流れである。今回の展覧会ではその流れに沿った代表的作品をじっくり鑑賞することができる。
湯島聖堂博覧会関係者写真 明治五年(一八七二年) 横山松三郎撮影
『国宝 東京国立博物館のすべて』展図録より
美術展は美術の名品を見せるための展覧会だからそれほど充実していたわけではないが、今回の展覧会で一番面白かったのは「第二部 東京国立博物館の一五〇年」だった。「第一部 東京国立博物館の国宝」よりも「第二部」に展覧会の趣旨が込められていた。
明治維新以降に欧米文化が流入し、政治経済衣食住だけでなく文化も欧米に見習わなければならないという機運が急速に高まった。動物園・植物園・博物館を世界で最初に作ったのはイギリスである。地球上の土地のほぼ六分の一を植民地にしたイギリス帝国は世界中の珍しい動植物、文化遺物を集めて動物園・植物園・博物館を作ったのだった。動物園・植物園・博物館はいわば帝国主義から生まれたわけだが日本のような当時の後進国(欧米と比較すればそう言わざるを得ないでしょうね)では博物館設置が先進国仲間入りの要件であり、国威高揚のための重要な施設と見なされるようになったのだった。
当たり前だが東博は最初から現在のような立派な建物だったわけではない。東博の始まりは明治五年(一八七二年)に文部省博物局が湯島聖堂大成殿で開催した小規模な博覧会(湯島聖堂博覧会)である。「湯島聖堂博覧会関係者写真」は博覧会開催時に撮られた関係者集合写真。見てわかるようにまだ丁髷を結っている人もいる。撮影は横山松三郎。日本の写真のパイオニアである。
前列左から二人目が蜷川式胤、三人目が内田正雄、四人目のボサボサ髪の人が初代東博館長の町田久成である。いずれも初期東博に密接に関係した大物たちだ。町田は旧薩摩藩士で今の外務省に勤めた。明治政府の花形部署の一つである。しかし政争に敗れ文部省に左遷された。まあ言っちゃ悪いが今も昔も文部省は二流官庁なんですな。別に文化を貶めているわけではないが政治の世界の中心は当然のことながら行政・経済部署である。豊かな社会の上澄みである文化系官庁が格下なのは致し方ない。ただ町田の偉いところは決して腐らず日本の美術行政の基礎を固めたことにある。退官後は出家して滋賀の三井寺光浄院住職となった変わり者でもある。住職時代にほぼ日課のように仏画を描きそれが今も大量に残っている。東博敷地内にブロンズ製の胸像もある。
この町田、内田、蜷川が中心になって湯島聖堂博覧会が終了した直後に関西中心に宝物調査が行われた。明治五年の干支から壬申検査と呼ばれる。写真撮影は横山が担当し絵師として近代洋画の巨匠・高橋由一が参加した。巨大な鮭の絵でお馴染みである。私費で町田が元幕府小普請方(公的機関専門の大工棟梁職ですな)で古物好きとして知られた柏木貨一郎も随行させている。古物調査では岡倉天心―アーネスト・フェノロサによる明治十七年(一八八四年)の法隆寺夢殿秘仏・救世観音像の開扉がいささか神話的に語り継がれているが、日本近代美術史で最も重要な調査は壬申検査である。その調査資料の多くが今では重要文化財に指定されている。
この壬申検査は様々な側面で面白い。人の名誉に関わることなので書きにくいがこの調査で正倉院から最低でも数十点の御物が民間に流出したのはほぼ確実である。中心になったのは蜷川と柏木だと推定されている。いまだはっきりとした証拠はないが物の流通経路からおおよそのことはわかる(美術の一級品の多くは所蔵者の変遷を辿ることができる)。いわばかなり確実な状況証拠である。
これについては責めることはできないというか、大騒ぎするのは野暮だと思う。美術品は美しく貴重だという上辺だけでは済まない。人間が作った物を人間が欲し集めたいと欲望するわけだから、そこでは金を含む様々な人間的欲望が渦巻く。たいていの一級美術品はそういった来歴を一つや二つ持っているものである。そんな裏面的歴史も含めて美術なのだ。そうは言っても正倉院流出御物が国立美術館に高額で購入されたりすると(国立美術館にしか購入できない金額だということ)いまだに与野党間でその来歴が政争の道具になったりするので御物流出に焦点を合わせるのは難しいだろう。が、壬申検査にフォーカスした展覧会も見たいものだと思う。
山下門内博物館「博物館」扁額 町田久成筆
一面 木製 縦一〇七・三×横二一九・七×厚一〇・六センチ 明治時代 十九世紀
山下門内博物館「博物館」扁額は上野に博物館が移転する前の麹町区内山下町時代に施設門前に掲げられていた扁額である。町田さんが東博館長時代の扁額だろう。
美術館に限らないが何かを新しく始め創出した人たちは偉大である。東博は「博物館」という名称が付いていることからもわかるように当初は美術品だけでなく動物や植物、鉱物標本、化石なども収集していた綜合博物館だった。今の国立科学博物館などが新設されて動植物標本などが移転されじょじょに現在のような美術品専門施設になっていった。また東博初期には民間の美術愛好家たちも蒐集品充実に大きく寄与した。
幕末には欧米文化を敏感に察知した古物学が盛んになったが、そういった下地がなければいくら政府が音頭を取っても美術界は盛りあがらない。学者、趣味の数寄者、旦那衆、芸術家らが御維新によって新たな目で日本の古い美術品を見つめることで美術界が盛りあがっていった。
今回は度肝を抜くような国宝がズラリと並んだ展覧会だったが、町田さん筆の扁額などもキチンと保管して伝来させているから東博は奥深い。東博館長を務めた明治の文豪・森鷗外が書いた書類なども今では東博所蔵の一種の美術品だ。地味だが常設展でときおり展示されることがある。
鶴山裕司
(2022 / 12 /07 14枚)
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