ウクライナ紛争といいますか、ウクライナ・ロシア戦争が終わりませんわねぇ。毛沢東語録に「原爆なんて怖くない。我々には10億の民がいる」と書いてあったように記憶してますが、大国ってやっぱ強いわ。国民の人口が多いのは戦争になるともんのすごい強みよね。まさか21世紀になって地上戦の肉弾戦で戦争が起こるとは思ってもみませんでしたが、通常兵器で闘うと膠着状態になればなるほど人口の多い国が有利かもしれません。しかもロシアは自給自足できる国ですからね。一刻も早く終わってほしいですが、いろんな面で戦争の残酷さを見せつけられますわ。
それにウクライナの産業が止まって、こんなとこまでウクライナ製品が流通していたのかって驚くことがあります。小麦とか農業生産物だけじゃないのよ。医療品なんかのハイテク製品って、意外とウクライナ製品が多かったのね。これは驚きでしたわ。ホントに世界は狭い。人間社会の最後の砦は食料品とエネルギーってことになりそうですけど、現代社会がそこまで退歩できるはずもないですから、世界は網の目のように繋がっていて何か起こると全世界に波及します。ネットによって世界が狭くなっただけじゃないって実感しますわね。
ウクライナ紛争が膠着状態になって中国と台湾の緊張関係がまたニュースになり始めていますけど、北朝鮮との関係はこのところちょっと影が薄うございます。でも日本にとって一番歴史が深く近しい隣人って朝鮮よね。
門衛の兵士が先頭の車に歩み寄る。彼が誰何しようとしたとき、助手席の窓が開けられ、乗っていた将校が身分証を差し出し横柄な口調で言った。
「総政治局敵工部、辛吉夏上佐」
「失礼ですが上佐同志、来訪のご予定を伺っておりません」
緊張しながら応じた兵に、将校は威圧的に命じた。
「特命である。詳細は責任者にしか説明できない。早く通せ」
兵はたちまちすくみ上がって門を開けた。動き出した先頭車に続き、後続車も敷地内に進入する。
月村了衛「脱北航路」
月村了衛先生の新連載「脱北航路」の舞台は北朝鮮。初回の主人公は総政治局上佐の辛吉夏です。朝鮮半島モノ小説は在日の作家がお書きになることが多いですが、月村先生がそうなのかは存じ上げません。ただお作品の出だしからして日韓関係の軋轢、あるいは日本社会での朝鮮人の皆さんの日常や抑圧を描く一般的な朝鮮半島モノ小説とは雰囲気が違います。辛吉夏は「特命」を盾にある施設の警護を通り抜けます。一種のサスペンス小説の始まり方ですね。
「辛吉夏が兒一〇七号を特別招待所から無断で連れ出したらしい」
4部は監察部であり、軍関連犯罪を担当する。
他の部長達は互いに顔を見合わせた。
「あり得ない。どういうことだ」
2部長が詰問する。
「辛吉夏は総政治局員である自身の身分証を利用した。ただし所属を敵工部であると偽ったそうだ。さらに奴は、命令書を提示して警備に当たっていた兵達を黙らせた。その命令書には、あろうことか命令1号と記されていたらしい」(中略)
金正恩直々の命令書を偽造する――この国において、それは絶対に犯してはならぬ最大の罪であった。
「しかし、吉夏はなぜそんなことを。ばれるのは時間の問題じゃないか」
3部長が投げかけた当然の疑問に対し、2武将が捜査畑らしく即答する。
「一〇七号を連れ出すことさえできれば、すぐにばれても問題はない――そう考えての計画的犯行に違いない」
同
辛吉夏は北朝鮮の軍事演習の最中に特別招待所から兒一〇七号を連れ出します。その理由は彼の不正蓄財が露見したからということになっていますが、それだけではなさそうです。「それを言うなら、総書記とその一族の莫大な隠し財産はどうなるのか」とあります。
では兒一〇七号とは何者なのかという興味が湧きますね。亡命(脱北)しようとしている軍人・辛吉夏にとっても、北朝鮮最高機密部署にとっても掌中の珠であるようです。ぐいぐい引っ張るお作品ですねぇ。
「艦尾7番魚雷発射準備」
昌守が伝声管に向かって復唱する。
奇妙なことに、指揮官の動揺は微妙なブレとなって艦の機器に伝わる。そうなると魚雷は決して当たらない。理屈を超えた現象の存在を、東月は経験的に知っていた。
言い換えれば、より冷静な方が必ず勝つ。(中略)
「距離1・48」
その言葉は、東月の口から滑らかに放たれた。(中略)
全員が息を詰め、永遠とも思える静寂の時間が過ぎるのを待つ。
「0・99海里で爆発音。目標『カ』に命中」
尹の淡々とした報告に対し、全員の漏らした息の音がことさら大きく聞こえた。
同
辛吉夏が逃走用に使うのは潜水艦です。映画『Uボート』などで描かれているように潜水艦内は密室です。人間関係が色濃く浮き出る閉鎖空間ということになります。小説にはうってつけですね。加えて月村先生は軍事にお詳しい、というより軍事オタクです。北朝鮮軍部の階級制度や軍備にもお詳しいのは驚きですが、それ以上に「脱北航路」の戦闘シーンにはリアリティがあります。
ミリターリー小説でも時代小説でも同じことですが、単に知識があっても小説として優れたものになるとは限りません。知識は知識に過ぎず、それをどう活かせるのかが小説家の腕の見せ所です。「奇妙なことに、指揮官の動揺は微妙なブレとなって艦の機器に伝わる。そうなると魚雷は決して当たらない」といった箇所が小説に強いリアリティを与えます。実際の戦争は真っ平御免ですけど、小説でそれを体験するのは意味があります。戦争の悲惨を知ることができるというだけでなく、追い詰められた人間存在の精神も知ることができます。戦争は現象面では単なる野蛮な殺し合いですが、その後にずっと残るのは人間精神の傷ですから。
「紹介しよう、広野珠代さんだ」
乗組員達が顔を見合わせる。何人かは驚愕に目を見開いているが、ほとんどの者は意味が分からずにいるようで、「誰なんだ」「どうして女が」「日本人なのか」といった声が漏れ聞こえた。
艦長の目配せで、吉夏が声を張り上げる。
「桂艦長と協力して計画を練った私は、出港前に彼女をトランクに隠して搬入した。彼女は四十年前、我が国の工作員が日本から拉致した日本人である。情報が遮断されているため諸君の多くは知らぬことと思うが、日本は彼女を拉致被害者の象徴と位置づけている。それこそが我々の勝算なのだ」
同
一〇七号の素性も初回であっさり明かされます。四十年前に北朝鮮工作員に拉致され日本政府が拉致被害者の象徴と位置づけているという記述からわかるように、横田めぐみさんがモデルです。辛吉夏たちは彼女を一種の人質にして日本に有利な形で亡命しようとしているわけです。
またこの設定で狭い潜水艦内部の世界と日本社会がハッキリつながります。日本海を潜行する狭い潜水艦の内部と、恐らく混乱しまくるだろう広大な日本社会がつながるわけです。潜水艦を飛び越えて北朝鮮と日本政府が駆け引きの空中戦になることも予想できます。小説の構えが一気に大きくなり膨らみました。うまいツカミですね。さすが月村先生です。
佐藤知恵子
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