春鷲や翼の脱臼するひびき 『汝と我』(昭63)
一羽の鷲が、雄々しく天を滑空している。さらなる高みへ向かおうとはばたいた瞬間、鈍い嫌な音とともに、とつぜん翼が利かなくなる。鷲は、イカロスのようにまっさかさまに落ちたのかもしれないし、痛みをこらえて飛び続けたのかもしれない。いずれにせよ、何とも痛々しい情景だ。しかし、春の気分がふしぎと陰惨さを感じさせない。それは春のさきぶれの合図なのかもしれない。この朗らかさとあけすけさは、『鳥獣戯画』を思い出させる。相撲を取っているウサギも猿も、あるいははずみで脱臼の音を響かせているかもしれない。もしくは、もっとコミカルに解釈することもできるだろう。試しに「ボキッ」という漫画的な書き文字を添えてみれば、意外に似合うように思う。
安井の句は、私などが思いもしないような深遠な解釈ができるのかもしれない。そうだとしたら、戯画的、マンガ的と解釈する私の解釈は不謹慎なのだろうが、決して蔑ろにしているわけではない。
前衛短歌を展開した塚本邦雄や岡井隆の、何が新しかったのか。一つには、超現実的イメージを修辞の力によって立ち上がらせたことが挙げられる。
日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも 塚本邦雄『日本人霊歌』(昭33)
原子炉の火ともしごろを魔女ひとり膝に抑えてたのしむわれは 岡井隆『鵞卵亭』(昭50)
近代短歌が背負っていたような、人間いかに生きるべきか、といった大命題とは無関係なところに、これらの歌は打ち立てられている。むしろ、そうしたものからできるかぎり遠く離れようとした跳躍の勢いが、これらの歌の魅力となっているのだ。近代に由来する、発展とか成長といった大きな物語が崩れ去った後、ささやかで他愛ない、個の物語が群立する。これらの歌は、そうした時代を象徴するかのように、きわめてミニマムな、周縁的な意識によって成立している。
もちろん、これらの歌が作られた意図には、ひとりの人間としての時代への怒りの感情があったはずである。怒りの源には、戦後の日本社会への不信感があったのだろう。「日本脱出したし」という叫びや、「原子炉の火ともしごろ」という皮肉の表現には、もともとそういう怒りがこめられていたはずなのである。しかし、これらの歌の制作された時代状況を遠く隔てた現代からすれば、作者のこめた思いは霧散して、コミックの一コマのようなイメージとして、われわれの前にあるのみだ。しかし、それでじゅうぶんに面白い、という時代をわれわれは生きている。
俳句においてはどうだろうか。この形式は、いまなお近代の物語をその中に包み込んで温存している感がある。安井浩司の句は、そのようなあらかじめ用意された物語とかかわりを持つことはない。安井の句が前衛と位置づけられる所以である。
ひるすぎの小屋を壊せばみなすすき 浩司
安井浩司の代表句として知られる句である。この句が前衛的である根拠を考えてみよう。まず気がつくのは、この句に「壊す」という動作は書かれていても、その主体が記されていない、ということである。ところが、われわれはこの句を読むとき、「いったい誰が、『壊した』のだろうか?」と考えるだろうか。俳句では、人称のない場合、作者自身を動作の主体とみなすならいがある。だが、われわれは必ずしも「作者=安井浩司」が「壊した」のだとする解を取らないのではないだろうか。これは、どうでもいいことのようでありながら、実は画期的なのである。たとえば、「いくたびも雪の深さを尋ねけり 子規」という句の場合はどうだろう。われわれは「『尋ねた』のは作者である子規なのだ」と無意識のうちに主体を決定づけている。のみならず、この句の場合、「尋ね」という動詞が導くままに、尋ねかけられた主体まで追い求めて、子規が病床にあったという情報も加味しながら、「看護の母に尋ねたのだ」という、登場人物と周辺状況をつきとめてから、この句の情趣を味わうだろう。というより、この句を読むという作業の八割がたが、そうした主体探しに費やされている、と言ってもいい。
「ひるすぎ」の句に話を戻そう。子規の句とは対照的に、この句において「壊せば」の主体は誰でもいい。というよりも、近代以降の俳句を読む際の常識となっている主体探しの作業そのものを、この句は拒んでいるのである。あらためていうまでもなく、近代の文学的主題の核は、われという主体にあった。俳句においても、主体の位置を決めなければいられないという要求は、暗黙のうちに読み手に突きつけられてきたのである。安井の句に向き合うとき、われわれはそうした要求から開放されている。安井の句の人称の曖昧さによって、人は唯一無二の代替不可能な存在である、というわれわれの近代的意識に揺さぶりがかけられる。そうした揺さぶりが、安井の前衛性を支える根拠となっている。
主体もはっきりせず、作者の明確なメッセージも読み取れないこの句のどこに、われわれは感動するのだろう。それは、奇妙なリアリティがこの句にあるからではないか。日も傾き始めたころのけだるさの中で、一軒の小屋がオモチャのようにあっけなく壊れ、あとはいちめんの芒原がひろがるばかり。あきらかに虚構を描いているにもかかわらず、昼下がりに起こったとある事件のことが、ふしぎに生々しく伝わってくる。たとえば、壊れた小屋の壁が、すすきの上に倒れかかり、かすかな風を起こす様や、舞い上がったほこりが、秋空の太陽をしばし朦朧とさせる様など、小屋の崩壊に、確かに立ちあっていたかのような感覚が残るのだ。そのような、かすかなリアリティをてのひらに掴んだとき、前衛としてのこの句は、もっとも輝く。エロティシズムや民俗学の観点から、過剰に象徴的に解釈することは、かえって句の持っている言葉そのものの面白みを損ねることになりかねない。
みずからの生の刻印としてではなく、純粋な言葉の芸術としての俳句を打ち立てた安井の前衛は、さらなる更新によって、伝統となることを待たれている。安井浩司がいまもなお前衛作家として認知されている現状は、俳句にとって不幸なことといえるのではないか。
高柳克弘
(「豈」47号 2008年11月 より転載)
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