安井浩司の句業を思うと、その凄まじさに眩暈を覚える。これまでにも幾人もの評者が安井の俳句を壮大雄渾の詩宇宙と賞賛してきた。しかし、安井俳句は余りに神格化され過ぎてしまった気がするのだ。
事実、安井の俳句営為は沈黙的格闘それゆえに孤高の闘士であった。然らば偉人の異名は当然と言えば当然であるのだが、周囲の安井礼讃はともすれば純粋読者を大いに敬遠させてしまう嫌いがなくもない。この懸念はしばしば安井俳句に纏わる「難解」の二文字を以て喚び起こされる。果たして、安井俳句は本当に「難解」であったのか。ひょっとすると「難解」なる言葉は安井俳句へのオマージュではなく、これからそれを読もうとする新たな読者にとっては禁令を意味するレッテルにしか過ぎないのではないか。
これに対する安井自身の答えが昨年二月に刊行された『安井浩司選句集』のインタビューに収められている。曰く「かつて難解呼ばわりをされると、半ば宿命と受け止めた頃もありましたが、今や私は断乎、難解俳人ではないことを宣言します」と。
あれから丸一年が経過した。一般の目からもある程度は安井の句業を窺い知ることができるようになった今、その作品は新たな読者を前にふたたび何かを問い始めているはずである。ならばその一読者として「難解」なる迷信に惑わされることなく、自らを恃み歩み寄る形で生の安井俳句を俯瞰してみたい。
そもそも安井俳句の「難解」と言われてきた理由が何であったか考えられないわけではない。それまでの詩には見られぬ独特な文体構造、耳慣れぬ東北の風物、仏教や中国文学の影、それらを挙げるだけでも抵抗感は十分に頷ける。しかし、実際の作品に向き合ってみれば、安井はむしろ予備知識を必要とするような句作りは行っていない。それどころか、言語を通常の意味としてのみ捉え、それを足がかりとして成立するような解釈行為自体を疑問視しているような節さえあるのだ。その兆しが第一句集『青年経』、第二句集『赤内楽』のエロティシズムに既に窺える。
今、世評に則って軽率にも前掲二句集の特色をエロティシズムという観念で総括してしまったが、慌てて付け加えるなら、同二句集の、つまりは安井が表現として用いたエロティシズムは相当に毒を含んだ暴力だったと言わねばならない。
先に示したように安井俳句の出自を言語システムがもたらす約束事への疑問視と見るなら、『青年経』『赤内楽』においては、この疑念の眼差しが露骨な形をとって現れる。それは性的対象へと異化された言語になす術のない人間の不能性を暴こうとする、なかば呪詛にも似た行為であった。
海辺にて寄せくる叫びの蝸牛管 『青年経』
遠帆ふたつ菫にからびる塩の足 『青年経』
蛇捲きしめる棒の滴り沖の火事 『赤内楽』
狂人が立つか帆が立つか便所のじぷす 『赤内楽』
だが、言語の性的異化の果てに安井が見たものは、一般において死を経て生へ還る循環としてのエロティシズム、したがって言語に生命の躍動を付与する機能としてのエロティシズムではなく、言語システムとの契約破棄を企図することによって新たに見えてくるもうひとつの言語、その地平への遥かなる憧憬であった。この遥けきものへの遠望が後の安井俳句の宇宙観を形成する基盤となったことは、以前にも書いた。
続く第三句集『中止観』において作風は一変する。特に句集の巻頭句として置かれた「キセル火の中止を図れる旅人よ」は新たな地平を目指し始めた安井自身の姿を象徴するようで興味深い。
死神がおびひもに泣く夜もあらん 『中止観』
ズボンよりみがきにしんを友に出す 『中止観』
白雲にみそかきべらを起こしつつ 『中止観』
春の雁このまくらぎも死ぬつもり 『中止観』
前二句集での試みが主に言語システムを巡る問題に向けられた挑戦と挑発だったとすれば、『中止観』では俳句文体への強烈な意識がクローズアップされてくる。その実験を可能にするのが独特な響きを持った言葉であろう。上の句で言えば「おびひも」「みがきにしん」「みそかきべら」「まくらぎ」などである。つまり、通常であればこれらは俳句に最も不向きな言語群として第一に排除されなければならないはずのものだが、安井はそれを果敢に起用することにより暗黙裡に成立してしまっていた従来の俳句文体を問い質したのである。そして、この実験過程において安井は独自の言語を手に入れてゆくことになる。
『阿父学』『密母集』の第四、第五句集では俳句文体の追究を一層深化させ、言語と文体の融合化に精錬している様子が伺える。
グライダア近づきつつあり青山椒 『阿父学』
ひるすぎの小屋を壊せばみなすすき 『阿父学』
沖へ出て洗濯板の終わるかな 『阿父学』
麦秋の大工は蛇を地に投げる 『密母集』
夏の海ふとヴァイオリンの妊娠へ 『密母集』
はこべらや人は陰門へむかう旅 『密母集』
『中止観』の頃と比較すれば、特徴的な言語はより緩やかに文体の中へ解消され、作者の意図を超えるような、新たな言語の可能性の萌芽がそこに見て取れるだろう。
また、ちょうどこの辺りから安井は言語の象徴性にも注目していたと見える。それというのは、句集中に使用頻度の高い語句が目立つようになるからである。もっとも前掲の句集にもそのような語句がなかったわけではない。ただ、それまでのものはどちらかと言えば安井が自らの言語獲得に向けて据えた指標としての象徴に止まるものが多く、前回に論じた『青年経』における「遠」にしろ、また先に見た『中止観』冒頭句の「旅(人)」にしろ、多数の用例が見られはするものの、その象徴される内容の向かう先が比較的に明瞭であるという点において、『阿父学』『密母集』以降とは意味が異なってくる。とは言え、もちろん句集ごとに明確な切り分けができるものではないので、たとえば『中止観』では「父」の頻出が以降の句集に先立つ形で象徴性の問題を予感させていたことも念のため付け加えておこう。
話を戻せば『阿父学』『密母集』には「ひる」を意味する語句、「我(わが)」「蛇」「母」などがしばしば一句の構成要素として登場する。これらは見ての通り極めて単純な言葉であるが、そのために却って〈俳句(詩)を読む〉という行為を意識にした読者にとっては既に多くの付加価値を含んでいる。ならば俳句という超短詩に許された数少ない語句の持つ象徴性は、安井が新たな言語地平を切り拓く上で、恐らく何よりも先にその余計な既成観念を抜き去っておかなければならない存在であったはずである。その最大の理由が『牛尾心抄』『霊果』を経て開板される『乾坤』、それに続く『氾人』で明らかになる。
先を急ぐあまり乱暴に句集を跨いでしまったが、『牛尾心抄』は安井の言に従えば「一日二句、五十日をもって百句製作を完璧に実践」した「句日記様式」を採用したものであり、日記形式が強いる時間との永続的伴走は、俳句における一句独立の根拠を問うものでもあっただろう。また『霊果』の句集名について「とりあえず“霊果”として顕ち現れようとするものへ、未知なる願いを託しておきたいのである」と語ったときの安井は、この句集以降、徐々に形成されてゆく新言語を幾分かの自負を以て見据えていたようだ。
とにかく、安井が新言語を獲得するためにはどうしてもその前に対峙し乗り越えておかなければならない大いなる存在があった。つまり「神」である。
第八句集『乾坤』を迎え安井は遂に「神」との対座を決心する。
雨の道蓑より覗く神がいる 『乾坤』
雪蟲や神は断崖を摑もうとして 『乾坤』
居酒屋でふと蟲を食う神を見る 『乾坤』
神が見おろす鱒は渦の中心に 『乾坤』
安井が「神(観念)」に対して如何に考えていたかについては『選句集』インタビューの中で次のように答えている。「神とは、ひとたびそれが言葉に乗るやたちどころに観念化、かつ概念化されてしまいます。それは人間存在に絶対に必要な〈酸素〉と同じようなもので、生まれて死ぬまで酸素なぞ知らないくせに概念としての酸素、つまり言葉としての酸素を所有しているわけですね。(中略)私は、神学者でもなく、その道の人間でもありませんから、詩を書く人間として平易に申しますが、観念、概念化された神を極度に警戒しています。(中略)私は第八句集『乾坤』あたりから、自己勝手な妙手を放ち、〈神〉も〈酸素〉も概念の増殖を断ち切り、肉体化を図るようにしたのです。」
この告白を前に前掲四句をもう一度読み直すなら、なるほど安井の言う「神」の「肉体化」とは、神観念を天上から地上へ引き降ろすことであった。だが誤解してならないのは、安井は必ずしも神を俗化したわけではないということである。つまり、地上に降りても神はあくまで神なのであり、安井は単に神と対話できる次元をそのまま保存したに過ぎない。この神の保存がもたらす結果として地上意識が逆に高次を目指すようになるのはけだし当然の成り行きであった。
羔の群に霧を震わすものがいて 『氾人』
小さな雲が下りきて地上の鱒包み 『氾人』
孔雀の首もつ料理人に雲ふれり 『氾人』
さて、安井俳句もいよいよ大詰めを迎えることになる。何故ならこの後の二句集すなわち『汝と我』『風餐』に至って、安井はほぼ自らの俳句文体を完成させたように思えるからだ。またそれは同時に永年に亘る格闘の末、はっきりと感触を摑んだ新言語の宇宙開闢をも意味していた。
では、安井が遂に手にした新言語とは如何なるものであったか。それは言語と文体の渾然一体を目指す過程で見えてきた、第三の言語特性の発露に他ならない。
夕空へ泣く狼毛の筆ならん 『汝と我』
図書室の夢に日光鹿が寝て 『汝と我』
くつがえる亀もΩも秋の風 『汝と我』
月あがるほどに重たき牛ならん 『汝と我』
蛇投げて大地を測る縄となれ 『汝と我』
祝祭の鳥らいつから平らなる 『風餐』
冬空に紐むらさきの繋ぎあり 『風餐』
竹鋸は鱈を切らずに越え行くよ 『風餐』
安井俳句の最大の特徴は一読の下、今まで触れてきたいずれの詩的言語ともその内容を異にするということを読者が直感的に察知できる点にあるだろう。この違和感はつまり、安井が独自の詩法を以って言語構造を解体し、そこへ新たな息吹を吹き込んできた証である。すると安井の俳句文体はそれまでの詩的言語の構造と何が異なるのか。
今、独自の詩法と言った。しかし厳密な意味で安井は詩法つまり方法論と呼ばれるものを極度に警戒し敬遠していた節がある。方法論とはすなわち個々の詩人における詩作のための手順書であるが、ここに疑いを挟めば通常言語を詩的言語に高める行為の方法化とは、詩人と言語との協定を意味することになりはしまいか。そもそも安井は言語システムが促す言語と読者との黙約に懐疑を抱き詩作行為を出発させたのである。してみれば詩人が方法論を確立することは取りも直さず、自身が発案した言語システムによって読者の解釈行為を誘引するという、何とも皮肉なパラドクスに他ならないではないか。このことに気付いた安井は詩作行為の方法化を避け、あくまでも言語に対して一対一の姿勢を採り続けてきたのである。
また、詩作行為の方法化は上に見た通りそれ自体に作者の恣意性が大きく働いているため、言語が作者の思想に拘束され易い危険性を持っている。つまり方法論を用いての試作行為とは多くの場合、作者の完成ヴィジョンが言語自体に先行しているという特徴を有しているのである。だからわれわれが詩を読んでそこにあるイメージを結像できるというのも、完全ではないにしろ、予め用意された作者のヴィジョンを共有できるような仕掛けが、その詩の中に装置として含まれているからであろう。
そこで安井俳句を眺めるなら、予定されたイメージというものをほとんど持っていないと言ってよい。これは当然安井が方法論を斥け言語に対する作者の恣意性を意図的に放棄したためであるが、もし仮に安井俳句に景を見るとするなら、その一句全体という言語によって初めて顕ち現われるところの言語景とでもしか呼びようのないものであろう。そしてこの言語景こそ安井俳句が遂に獲得した新言語の謂であった。
安井はこれまで言語の自在性を保証できるような場として俳句の文体にその可能性を求めてきた。それは言い換えるなら、言語を巡るシステムをこそ疑問視したが、言語それ自体には限りない愛を以て接してきたと言える。この意味で安井は、言語を決して記号とは見ていない。多くの詩人はソシュール言語学以来、記号に失墜させられてしまった言語に新たな価値を認めようと様々な試みをしてきた。しかしそれは反面、言語の記号性を一旦容認せざるを得なかったという意味で、言語の死にも加担していたということである。そうであるなら彼らが発見した言語の記号的価値というのも、本当は贖罪と呼ぶべき種類のものではなかっただろうか。そう思い及んだとき、安井の言語に対する愛情は、もしかすると古今のいずれの詩人よりも深いものであったと言えるかもしれない。
ともくかく、安井は初めから言語の記号性、言語の死などは認めておらず、むしろそこに新たな命を見出したのである。それは言語本来のあるべき姿の追求であり、且つ意味を超えた言語それ自身の存在意義の獲得であった。
たとえば安井にとって「石」という語句は、その一句の中で最良とされる意味の「石」であると同時に、「石」という言葉としてのモノでもあった。つまり言語と風物とを全く同じ次元において眺めようとしたのである。こうした言語への歩み寄りは、あくまで言語の声に耳を傾けその求めに応じて一句全体を構築するという態度に徹底されたため、そもそも方法化など不可能であったのだ。ときどき安井の句の中に伝統俳句を思わせるような単純素朴な一句が現れ困惑させられることがあるが、それは要するにそのときの言語が一番望んでいた姿を安井が形にしてやったのだと考えればよいだろう。このように安井の俳句文体は言語の自在性を保証したことで、文体それ自身もまた自在たり得たのである。
こうして言語を言語の側から捉え直し、その言語に文体を委ねた安井俳句が一般的な言語レベルでの解釈を拒むのは当然である。普段われわれが詩を読んだとき脳裏に描くようなイメージが結像しないのも以上の理由から明らかだろう。しかしだからと言って安井俳句にイメージ性がないわけでは決してないのだ。否、一句を前にしたときの、あのえも言われぬ混沌の先には、どこか懐かしさすら感じさせるものがある。これを安井俳句の言語景と見れば、この郷愁感はもしかすると遠い昔に言語を発見した祖先のそのときの記憶が、われわれの心に片隅に残っているからかもしれない。
また、安井俳句にアニミズムを嗅ぎ取るとするなら、それは少なくとも自然のモチーフが湧出させる民俗学的な意味での自然信仰に止まるものではなく、形を取らない言語にすら慈しみを注ぐ安井の宇宙観そのものの反映であると言わなければならないだろう。
ともあれ、言語が従来の文体に縛られることのない、言い換えれば言語自身にその生命力を最大に発揮できるような文体を選択させることによって、安井は言語世界から逆照射される形で俳句の新地平を切り拓いたのであった。それは極めて厳密な意味で人間的観念に矯正されることのない、言語によって創り出される俳句ということになるだろう。
さて、言語景を得てから後の安井俳句に少し触れて、そろそろこの稿を閉じよう。『安井浩司全句集』(増補版)に収録する形で『風餐』を発表した後、近刊『山毛欅林と創造』まで安井は計三句集を世に送り出している。先のニ句集『四大にあらず』『句篇』は「前著」の「命題を継ぐかたち」「流れを継いで」の句作ということであるが、安井の中でのテーマ性というものが徐々に形を取り始めた感がある。それは『四大にあらず』「後記」において安井自身が言うように「絶対言語への信仰」ということになるだろう。もっともこの「信仰」は『汝と我』の「後記」でも既に告白していたものだが、安井俳句の文体確立つまり言語景の獲得を『汝と我』『風餐』あたりに見るなら、『四大にあらず』以降を以ていよいよ省察が深まってきたように見受けられるのだ。
ところでこの「絶対言語」なるものについても『選句集』のインタビューに安井の答えがある。「(絶対言語への)道は近いと思われるのに、これ程に遠過ぎる道もありません。と申すのは、そもそも絶対言語など何処にも存在しないからです。在るとすればそれは「絶対言語への信仰」だけにしか過ぎません。しかし、仮想された絶対言語がなければ誰でも詩を書く意味が成立しないのです。芸術の本質は、基本的に自己懐疑の果ての〈救済〉そのことであり、その先に絶対性を願望するのは何の不思議もないでしょう」と。
しかし「信仰」の果てに「仮想され」る「絶対言語」も、〈救済〉を冀う精神の志向性に鑑みれば安井俳句の言語景の射程には確実に収められていたはずである。それというのも、『四大にあらず』以降、殊に『山毛欅林と創造』に至っては、安井俳句における言語がますますの自在性を以て、まさに水を得た魚のようにいきいきと遊泳している姿を見ることができるからである。安井の言語に向けた愛ある眼差しは、喩えるなら言語自体の精神を通じて今や喜びと共に高みへ昇華されつつあるようだ。
冬青空泛かぶ総序の鷹ひとつ 『四大にあらず』
雲を語る友よ小さき蠅フライ 『四大にあらず』
宇宙服はずしてあげよう草遊び 『句篇』
万物は去りゆけどまた青物屋 『句篇』
花の湖おとこ人魚でいいんだよ 『山毛欅林と創造』
霜の崖草体文字みなさようなら 『山毛欅林と創造』
冬山に一羽推古の枝がらす 『山毛欅林と創造』
繰り返すようだが、安井俳句は言語によって創り出される俳句である。そのためそこに現出する言語景がわれわれの通常観念では像を結ばないことも既に述べた。ならば最後に一つだけ付け加えておきたいのは、この拒絶体験を以てもし仮に安井俳句を「難解」と呼ぶとすれば、それは読者のわれわれにも非があるというものだろう。何故ならそもそも言語に概念や観念を与えたのは人間であり、安井はむしろ言語を草花と同じように世界へ開放しようとしたのだから。
表健太郎
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■