角川短歌の巻頭グラビアページは「名湯ものがたり」で第七回は道後温泉です。尾崎まゆみさんが三首と短いエッセイを書いておられます。
天飛ぶ鳥も使ひそ石手川せせらぎに白鷺の足音
マッチ箱のやうな電車の終点に神の湯霊の湯美肌となれり
鯛めしは二通りあり湯のあとに食べ比べとふ楽しみのまつ
尾崎まゆみ
軽く詠まれた歌ですがこういった表現を短歌から排除すると短歌文学は貧しくなるでしょうね。短いからこそ他者や外界との接触の初発的な機微を表現できる芸術でもあるからです。
秋の雨荷物ぬらすな風邪引くな
君を送りて思ふことあり蚊帳に泣く
正岡子規
松山といえば子規虚子をすぐに思い出しますが引用は子規の送別句です。「秋の雨」はイギリス留学に旅立つ漱石に送った句で「君を送りて」はアメリカ留学に旅立った秋山真之と別れてから詠んだ句です。いずれも手慣れています。散文でグダグダと書くよりも短歌や俳句でパッとその折々の感情を詠んだ方が印象は際立ちます。ただし作品的意図が露わになると嫌味ですね。作品意図のない作品でなければ印象に残らないと言えましょうか。
口語短歌は比較的若い世代にとってもはや盤石の表現ですからあまり言うことはありません。ただ口語短歌の〝枠〟を意識し過ぎて却って不自由になっている作家がいるのはちょっと気になります。内面表現が多いわけですがその内面はたいてい貧しい。それを避けるためあるいは隠すために修辞を凝らした風景描写に傾く傾向があります。自在な表現を得るための口語のはずが不自由な〝現代詩化〟している気配です。
極端な現代詩が自在な表現から遠ざかっていったのは周知の通りです。実人生で重大事件が起こっても詩人たちはそれを表現できなかった。現代詩という書き方の縛りが表現範囲を狭めたのです。これをずっと続けてゆくと間違いなく年を取れば取るほど作品が書けなくなります。書き方に復讐される。
詩の新しい書き方は変化した新しい世界に対応するために生み出されるわけですが変化の本質を捉えていなければ隘路にはまりこんでしまうことがあります。どんな場合でも自在な表現はとても重要です。書けない題材をいかに無くしてゆくのかが重要です。書き方と題材に折り合いを付ける必要があります。すべての書き方には一長一短があり魔法の書き方はないのです。複数の書き方を持っていたほうが良いということでもありますね。
一昨年のパリ以来なる鞄持ち入院という旅が始まる
日が昇るラッキーセブンの幸せの東病棟748号
空中に繰り返し書く指で書く「い・た・い」はあと一文字で「あ・い・た・い」
俵万智「笑いたい夏」
今号には俵万智さんの「笑いたい夏」第55回釈迢空賞受賞第一作30首が掲載されています。俵さんは入院なさったようです。お会いしたことも友人知人でもないのですが「だいじょうぶですか」とお見舞いを寄せたくなるような歌です。こういった生活の機微が作品からはっきりわかるのも短歌の大きな富です。俳句や自由詩でも表現できないことはないですが内面と外界を端的にパッケージして表現できるのは短歌の大きな特徴でしょうね。
息子から音沙汰はなく「母の日」は私が母を思う日とする
尊敬はしないが感謝はしていると子に言われたり十六の春
ちょうどいい死に時なんてないだろう「もう」と思うか「まだ」と思うか
遠い山の緑のようだ退院後の仕事で埋まりゆくカレンダー
芸人のモノマネをする息子いて元を知らねど笑いたい夏
同
俵さんの歌は現在をすっすっと滑ってゆく表現が多いですがその折々の感情や出来事がふっと深みを持って表現されます。その乾いたというよりドライと言った方がしっくり来るような表現が私性の表現でありながら私性の相対化をもたらしています。また歌から音沙汰のなかった息子さんがお見舞いに来てくれたことがわかります。よかったよかった。
紀の川は紀の川らしく流れゐむ三年帰れぬふるさと遠し
紀の川を越すたび家族亡くしけり墓石に苔の蒼深からむ
父ははが初孫の吾子を待ちくれし山容よき名草山を背にして
父母がれんげ畑の真ん中に子を高だかと抱きあげくれし
岸上展「紀の川恋ほし」
今号掲載の岸上展さんの「紀の川恋ほし」は望郷歌です。紀の川という地名はそれでなくても訴えかけるものがありますね。万葉時代からの歌枕です。また有吉佐和子の『紀ノ川』もそこはかとなく思い浮かびます。地名の持つ力も作品に援用しない手はないですね。渋谷センター街でも新宿歌舞伎町でもそれは可能なわけですが地名が作家の内面と結びついていなければ単なる名詞で終わってしまいます。
岸上さんの歌は古典的手法で書かれていますがそれはあるシーンを写真のように浮かび上がらせるために援用されています。こういった歌が短歌的写生の典型だと思います。ある一場面が見えて来てかつそれは岸上さんという個を超えた普遍性を持つ。あるいは普遍的風景と内面につながってゆく。
亡き父が抱きあぐる午後 流感に祖母は逝きたり八十五歳
ゆきてかへらぬ昭和貧しき戦ひに家族ら生きし いま眠る墓
ふるさとは祖母の眠りの果てに吹く和歌浦よりの風はさやさや
同
無理のない連作も短歌では重要です。それは作家の心の襞を追ってゆく試みになります。表現の核となるものはいつだって小さい。その小さい表現の核が逆説的に大きくなるところまで――ということは作家の無意識が意識化されるところまで連作が続けば成功作になる可能性が高まるということでしょうね。
高嶋秋穂
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