パソコンの値段がちょっと上がってる気配ねぇ。社用パソコンの手配は当然アドミンがやるわけですが、アテクシは部下のパソコン買ってちょのリクエストにサインしなきゃならないのよ。やっぱ5~10パーセントくらい上がってる気配だわ。世界的半導体不足の影響が出てるわねぇ。
ホントに世界は狭くなってますから、ウクライナ紛争に限らず、どっかの国で戦争紛争、天変地異が起こるとすぐさま世界経済に影響しますわね。どんどんそれが早まっている感じ。これはもう後戻りしない変化ですから、受け入れるしかありませんわ。
こう変化が早いと、文字媒体は圧倒的に不利ねぇ。人間の情報収集方法は、大きく能動的メディアと受動的メディアがござーます。受動的メディアは映像・音声メディアが代表的ね。一昔前はその代表はテレビでしたわ。たまたまテレビをつけて、じーっと見入っているうちに「へーそうだったんだぁ」と知識を得ることがよくござーましたわ。
それが今はインターネットに主流が移っています。ニュースなどでも文字媒体よりも映像・音声メディアの方が圧倒的に早い。サクッと情報を得るだけならそちらの方が便利ですわ。もち真面目な社会的イシューだけじゃなく、ファッション、芸能、ゲームなど人間は様々な情報を欲しているわけで、それもネットの独断場になりつつあります。表情報だけぢゃなく、裏情報、横情報、斜め情報もほぼ瞬時に得られる便利なメディアですわ。
ほんじゃあ能動的メディア、つまり人間が「よし、自分から動こう」を身を乗り出して摑む情報メディアはどういう役割になるのかというと、よほど貴重な情報や知識が含まれている情報でないと、なかなか読んでもらえないということになりそうですわ。つまり文字メディアはほんの一握りを除いて、映像・音声メディアより下位になってしまう可能性大ということですわ。
これは文学にも言えることで、アテクシは個人的な暇つぶしで小説を読み飛ばしていますけど、なかなか刺さってくるお作品は少のうござーます。いつの時代でもそーだったんぢゃないのと言われればその通りですが、刺さる作品の数、確率がどんどん下降線を辿っている気配ですわ。アテクシ、純文学、大衆文学気にせずに読みますけど、どちらのジャンルでもそうね。
ま、純文学、大衆文学という区分といふか垣根はホントにバカバカしいもので、難しそうで高尚そうなら純文学、エンタメ要素が散りばめられていれば大衆文学という定義は、およそ現代人のように口うるさくあったまいい人たちが立てる定義ぢゃありませんわね。文字で書かれる文学は映像・音声メディアよりも遅れますが、その遅れが現代社会の本質に届いているかどうかが純文学と大衆文学の区分よ。つまんないけど最後まで読んで、ああなるほど、ここに届いていたのかと驚く純文学作品もござーますし、現代的問題をテーマにしてハラハラドキドキする展開の大衆小説でも、読んだ途端に忘れてしまう大衆文学のお作品もござーますわ。
そういう意味では大衆文学作家に分類されがちな江國香織先生や井上荒野先生は間違いなく純文学作家よ。現代社会のある本質をお作品で捉えていらっしゃるもの。ただそういった作家様は女性が多いのよ。現代社会の本質といってもある普遍性をしっかり捉えていらっしゃると言っていいかしら。
この現代社会の捉え方が、男性作家になりますと、いつの時代でも天に舞い上がるような観念性よね。ああなるほど、現代社会は俯瞰するとこういう観念で捉えられ、その方向に進むのが正しいのか、とお作品で示唆してくださるのが男性作家の凄みでしたわ。そういった男性作家様が見当たりませんの。皆さん、観念的ではござーますが、それが空回りしてる感じ。観念の刃を振りかざしても、現代社会に斬り込んだという手応えがないわけね。そのくらい変化を中心として見た現代社会は捉えにくい。でもそれって男性作家の独断場でもありますわ。男の子作家、頑張れでござーます。
月に一度の記帳をするため、雨の中を歩いた。
誰もいないATMコーナーに入り、ハンドバッグから通帳を取り出す。(中略)
よれた通帳の表紙には、吉岡利香と、わたしのフルネームが印刷されている。
名前というのは、いったい何だろう。角張った書体で記された四文字を眺めながら考える。わたし自身を含め、結婚して苗字が変わる人はいるけれど、ファーストネームはたいてい一生を通じて変わらない。そしてそれは、本人がろくに意思さえもたないうちに、誰かによって与えられたものだ。
名前は、そこに込められた誰かの〝思い〟や〝願い〟であり、そのものの本質ではない。名前自体が重要なことなんてあまりないし、人生に大きな影響を及ぼすものは、多くの場合、名前を持たない。
十三年前、わたしが飲んだ毒液にも、名前なんてなかった。
なのに、こうして今も全身の血管を流れつづけている。
道尾秀介「名のない毒液と花」
道尾秀介先生の「名のない毒液と花」は、『光媒の花』『鏡の花』に続く花シリーズの第五話です。主人公は吉岡利香。三十代で地元に帰って中学の理科教師をしています。過去の回想ですが、精一というフィアンセがいます。彼も同じ地元出身で、利香が地元で教師をすることに決めると東京での内定を蹴って、いっしょに帰郷してくれました。ところが就職した企業が倒産し、仕方なく高校時代の友人・江添正見と逃げ出したペットを探し出すペット探偵の仕事を始めています。江添〝正見〟はその名の通り、何かを正しく見る人です。当然ペット探偵としても優秀です。
つぎの瞬間、驚くべきことが起きた。夫が突然、こ、こ、こ、と言ってから大声を上げたのだ。
「こっちの台詞だ!」
アナクロニズムな言葉を投げつけたあと、夫は取り憑かれたように喚きはじめた。もともと知的な人なのか、喚いているのにもかかわらず言葉は一つ一つしっかりと聞き取れ、またそれらの繋げ方も過剰なほどに理路整然としていて、わたしたちはものの一分ほどで、妻が夫に隠れて浮気をしていたことや、相手がルークという外国人であることや、夫がそれを三日前に知ったことを把握した。
「あたしそんなこと――」
「じゃあ、何時にどこどことか、さっきはアメイジングだったとか、あれは何だ!」
「そん・・・・・・え、まさか、携帯見たの?」
「お前がもう同じこと繰り返さないって言うから俺は――」
ここでようやく彼は、わたしたちがそばにいることを思い出した。いや、わたしたち以外にも、待合室には五人ほどの客がいた。長椅子に座り、みんな目を丸くしてこちらを見ている。それぞれの足下にあるケージの中では、犬や猫がそろって耳を立てていた。
同
名前にこだわると、精一と江添はペット探偵の初めての仕事で行方不明になったルークという犬を見つけ出します。怯えていたので獣医の所に連れて行き、依頼主の夫婦を呼ぶと二人が喧嘩を始めた。ルークという犬の名前は、妻の浮気相手の男の名前だったのです。
犬の名前は妻の「〝思い〟や〝願い〟」ということになりますね。ただこのご夫婦、妻の浮気がバレ犬の名前が妻の恋人の名前だったということがわかると、希少種で高価な犬であるにも関わらず、ペット探偵の江添に「差し上げましょうか?」とあっさり手放してしまう。「人生に大きな影響を及ぼすものは、多くの場合、名前を持たない」ということになるでしょうか。
ちょっと滑稽な展開なのですが、夫婦喧嘩を目撃しても主人公の私と精一、江添の間に笑いは起きません。物語のトーンはずっと暗いままです。ストーリー展開は私が勤務する中学校の生徒がある問題を起こし、それを精一と江添の力を借りて私が見事に解決するというものですが、最後に悲劇が起こる。なぜ悲劇が起こらなければならないのか、スカッとした解決ではダメなのかということが、冒頭の記述に帰ってくるこのお作品のテーマでしょうね。
主人公の私、吉岡利香は名前を持っているけどそれに重要な意味はない、名づけられない何かが重要だと考えています。シリーズものですから、それがどんな風に明かされてゆくのか楽しみです。
佐藤知恵子
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