このところウクライナ紛争が悲惨でなんかどんよりしてしまいますわね。ロシア兵の蛮行はマジトラウマものよ。でも戦争ってあんなことが起こるのよねぇ。このところ、少なくともいわゆる西側というか、西側化した民主国家では大規模紛争や暴力が起こりませんでしたけど、なにかの弾みで起きちゃうわけね。ウイルスミスさんのアカデミー賞でのビンタ事件だってそうよ。カッとなると人間、ああいう行動に走っちゃうわけ。言い分を聞けば双方それなりの説明ができるわよ。でも暴力的事件は起こる時には起こっちゃう。それが怖いわぁ。
ウクライナに関してはいろんな分析とか観測が出てますけど、結局のところ、プーチンさんが何を考えどういう行動を命令しているのか、それがわからなければ予測不可能ね。そういう意味では一人の人間に権力が集中してしまうのは危ないわぁ。でもある国とか共同体とか人がいろんな意味で追いつめられると、自分が持っている強力なリーダーシップ、つまり独裁的権力を行使しちゃうのも確かなことね。
ウクライナのような惨状はこれで最後と思いたいですけど、これからも何度も起こるでしょうね。それが人間の世界と言ってしまうと悲観的ですけど、目を逸らすこともできないわね。戦争みたいに多くの人の耳目を惹きつける事件でなくても、わたしたちの世界にはプチ権力者がいくらでもいて、少数でも支配している人たちの生殺与奪の権を握っています。これも無惨な言い方になりますが、そういう抑圧に対しては、極端なことを言うと抵抗するか死ぬかどちらかの選択を迫られたりするわね。
かわいそうなのは翔馬だった。依里を諦めた麻央さんの視線は、翔馬だけに向くようになったの。成績優秀な翔馬を、いい大学に入れて、弁護士か医者にするというのが、あの人の目標になった。それは鬼気迫るものがあったわよ。中学受験を控えた最近は、特にひどかった。翔馬の生活ときたら、学校と塾の往復だけ。家でも夜遅くまで予習と復習。それをずっと麻央さんがついて見ているの。
時々、あたしは注意したんだよ。あんまり子供を追い詰めるもんじゃないわよって。そしたら、麻央さん、「翔馬は自分から望んで勉強をしているんです。放っておいてください」ってぴしりと言い返すの。実際、翔馬はママの期待に応えようと必死だったわね。あの二人は異様な絆で結ばれてた。父親の久桂も、祖母のあたしも入っていけない絆でね。
宇佐美まこと「愛と見分けがつかない」
地方にお住みの方はピンと来ないでしょうけど、首都圏、特に東京都心部での中学受験は異様なほど過熱しています。これは現在進行形の過熱ね。アテクシの知り合いにも子供を中学受験させた親(男親)がいますけど、最初は公立中学でいいと思っていた。ところが小学6年生の二学期始めに先生が「これから中学受験する人は?」とアンケートを取ると、クラスの三分の二が手を挙げたって言うのよ。で、まあ、これはひじょーに言いにくいですけど、残りの三分の一の生徒さんを見てママキーッとなってしまった。ウチの子はこの子たちといっしょに公立中学に進学するのねと思ったら、居ても立ってもいられなくなっちゃったのよ。
もち中学受験で子供の将来が決まってしまうわけではありません。公立中学公立高校に進学した子でも、いろんな形で頭角を現す時は現します。でもママの心情としては焦るわけですわ。そっからママ主導で子供を塾に通わせて家庭教師付けて私立中学受験を目指すチキンレースに参入したわけ。でもはっきり言って、小学六年生の二学期からでは遅いのよねぇ。
子供は詰め込めば詰め込むだけある程度確実に成績が上がりますから、早い子は小学三、四年生から私立中学受験対策を始めています。小六二学期になるとラストスパートに入ってるの。その子はなんとか私立中学に進学しましたけど、希望校ではなかったわね。じゃ、希望校ってなに? ということになりますが、それは親の願望なのよねぇ。
宇佐美まこと先生の「愛と見分けがつかない」の主人公は中学受験を控えた翔馬です。でも彼は負の主人公で、翔馬の祖母や姉が彼が置かれた状況について語ります。引用は祖母の独白(メディアのインタビュー)です。
翔馬と姉の依里の両親は麻央と久桂で、祖母は久桂の母親です。麻央と久桂は恋愛結婚なのですが、麻央は久桂との結婚に早々と幻滅してしまい娘・息子に夢を託します。姉の依里は麻央の期待通りに有名私立中学に合格しますが、麻央の身勝手な願望に反抗して高校を中退してブレイクダンスの道に進んでしまいます。そのため「依里を諦めた麻央さんの視線は、翔馬だけに向くようになった」。ただこのお作品は中学受験をメインテーマにしているわけではありません。もう一人負の主人公がいます。
そんなふうに自分は遊んでいるくせに、伶人は帆乃夏ちゃんを縛り付けて、気ままに操っていた。時々、帆乃夏ちゃんを試すようなことをして、彼女を困らせてたな。あれはちょっとかわいそうだった。
たとえば後輩の男にわざと告白させて彼女の反応を見てみたり、なくしてもいないのに、大事なものをなくしたといっていつまでも探させたり、伶人、意地悪くそんな彼女を見て楽しんでたんだ。あんまりなことをする、と俺も注意をしたんだけど、どこ吹く風だったね。(中略)
そうやって虐めたかと思うと、その後には帆乃夏ちゃんにべたべたして、「俺の女はお前しかいないんだ」みたいに親密にする。冷酷さと優しさをうまく使い分けるのさ。帆乃夏ちゃんはそんな伶人の態度におろおろしながらも、恋人に気に入られようと必死だった。そういうの、そばで見ていると、さすがに俺も胸が苦しくなったもんだ。
同
帆乃夏は一学年上の人気者、伶人に告白して付き合い始めます。ただ伶人が先に大学に進学すると彼は大学生の女の子たちと遊び始める。そのくせ帆乃夏のことも手放そうとしない。それどころか帆乃夏が自分に惚れていて従順なのをいいことに、様々な方法で彼女を揺さぶり傷つけるようなことをしながら最後は優しく接して「俺の女はお前しかいないんだ」といった甘い言葉を囁いたりする。恋愛における一種のモラハラですね。引用は伶人の男友だちの独白です。
つまり「愛と見分けがつかない」は母子密着型の親子に起こるパワハラに近い受験地獄と、恋人同士の間で起こるたちの悪いモラハラを題材にしています。どちらも現代ではある程度よく知られた人間関係の軋轢ですが、一つだけテーマを追いかけても短編は成立します。けっこうやっかいな社会問題を二つ並べているということは、その上位に物語の結末があるということですわね。
帆乃夏はその男の子のことが気になって仕方がなかったんだね。彼の悩みを聞いてあげたんだって。一度塾をさぼったその子にばったり会ったって言ってた。よく考えたら帆乃夏と男の子が抱えた事情ってちょっと似てるよね。帆乃夏は永木先輩(伶人)に支配され、必要以上に拘束されてて、その子も親にがんじがらめにされて勉強に励んでる。通じ合うところがどこかあったのかもね。
帆乃夏が心霊スポットへ行って変わってからまた男の子と電車の中で会ったの。私たちは男の子の前に立ってたんだけど、帆乃夏はさっとその子の隣に身を寄せたかと思うと、何かをそっと囁いた。その途端、男の子の表情が変わった。あれ、帆乃夏と一緒だった。今まで見えなかったものが見えたって感じで、ゆっくり背筋を伸ばしたの。あの子の中にも凍った芯がすっと通ったんだと思った。
電車を降りてから、帆乃夏に訊いた。なんて囁いたのって。そしたら帆乃夏、うつむいて微笑んだ。その笑みも冷たかったわ。下をむいたまま呟いた。
「愛とは見分けがつかないのよね」って。
意味はわからなかったけど、また私は身震いしたものよ。
同
引用は帆乃夏の女友だちの独白です。男の子は母親から中学受験の猛勉強をさせられている翔馬で、彼の母親は持病の喘息の発作で亡くなります。いつも必ず持ち歩いていた吸引器がどうしても見つからなかったのです。母親の死の現場にいたのは翔馬だけでした。伶人に支配されていた帆乃夏は彼をナイフで刺して重傷を負わせます。刺されて倒れた時に頭を打って伶人は今も記憶喪失のままです。つまりある種の虐待を受けていた翔馬と帆乃夏は、自ら暴力的な手段に訴えてそこから逃れたわけです。
なぜ翔馬と帆乃夏が知り合ったのか、なぜ二人とも虐待から逃れようと行動を起こしたのかは実際にお作品をお読みになってお楽しみくださいな。宇佐美まこと先生のキャリアに沿ったきちんとしたオチになっています。キレイにまとまっている作品でございます。
こういったキレイなパッケージ的なお作品のまとめ方は大衆小説でお作品を量産するためには絶対的に必要だと思います。ただ案外難しいわね。ちょっとでもクリシェを外そうとすると作品パッケージが壊れてしまうと思いますわ。クリシェを外すならお作品の最初の一行から外してかかる必要があるわね。そしてクリシェを外せばまとめ方は非常に難しくなります。どこでどう自分の力を使うのか、あるいは力を抜くのかも作家様の力量ね。
佐藤知恵子
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