数十年前からその兆候はあったが、特にここ数年、商業音楽の世界ではジャンルで括る目的/意味は薄れている。本当、向こう側が透けて見えそうなほど薄い。
有用なのは「デトロイト・テクノ」や「ラガマフィン」、「グローファイ」のように、ある程度細分化された対象を指し示す時くらいで、「ジャズ」や「ヒップホップ」といった昔ながらのざっくりとした括り方は、逆に話が分かりづらくなってしまう。
特に「ロック」はその最たるもので、なまじ「反抗」「反逆」のような精神性が関与するイメージの為に、一層ややこしくなっている。海外で成功を収めたメタルダンス・ユニット、BABYMETALを例に出すまでもなく、楽曲の形式が「ロック」的なアイドル・グループはちっとも珍しくない。そう、境界線は簡単に飛び越えられる。そのことを承知の上で、あえて「ロック」という言葉を使うなら、私は遠藤徹氏の「あついすいか」名義のアルバム『ふらち野』(’22)を「ロック」として聴いた。そして何度聴いてもその印象は変わらない。
ロックは「如何様にでも形を変える容器」だ。平たく言えば、何でもアリ。昨日組んだばかりの学生バンドが、ビートルズと同じ地平に立てるからこそ面白い。
好きなロックの条件はいくつかあるが、設計図、つまり方向性がしっかりしている楽曲はとても魅力的だ。実際に具現化しているかどうかは二の次、三の次で構わない。
例えばポール・ウェラー率いるバンド、ザ・ジャムは、指向の変化に技術力が伴わずに空中分解=解散をしている。ラストアルバム『ザ・ギフト』(’82)では、R&Bやファンクを目指しつつも悪戦苦闘する様子が生々しく窺える。ただ聴こえてくる音は実に魅力的だ。誤解を恐れず言えば、目標としていた音楽と同等、もしくはそれ以上に。
そんな嗜好の耳で聴くアルバム『ふらち野』はとても面白かった。
1曲目「ふらち野」を聴いて真っ先に想起したのは、戸川純が所属した音楽ユニット、ゲルニカで、そのムードはアルバム全編に通底している。所謂ポピュラー・ミュージックのスタイルではないことを、迅速かつ明確に宣言するタイトル曲。正に「つかみはOK」。
2曲目はイントロから軽快なリズムが鳴り響き、設計図に「企み」が張り巡らされていることを予感させる。そう、「つなぎもOK」。
個人的に最も売れ線だと感じた楽曲、言い換えればシングルカット候補曲は3曲目「八百屋のジョニー」。今や大先生となったケラリーノ・サンドロヴィッチことケラが率いるバンド、有頂天のカバーと言われたら信じてしまう程のメジャー感に溢れている。実際ヴォーカル音も似ているし。
ここまで礼賛した後で、敢えて付け加えるのは、良くも悪くも音色がチープであるということ。ただ設計図がしっかりしているので、これは好みの問題。物足りなさを感じる耳もあるだろうけど、このチープなサウンドから溢れ出る「企み」に刺激される耳もある。無論、私は後者。
『ふらち野』ライナーノーツ
5曲目はワルツ。そろそろ馴染んできた音色が飛び交い、三拍子のリズムが埋没していく感覚が心地よい。
詞に関して特筆すべきは8曲目「この世界の真ん中に」。字余り気味に憂うべき現実/不都合な真実を告発する手口は、70年代後半に出現したハードコア・パンク、中でも反物質主義、動物愛護のメッセージを掲げていた英国のバンド、クラスやコンフリクトを髣髴とさせる。
次の9曲目「NAMAHAGE」も「悪い大人はいねえが」という破壊力のあるフレーズを擁しているが、楽曲はギュッとキャッチーにまとまっている。この絶妙なバランスから、2枚目のシングルカット候補曲と勝手に妄想。リズム・セクションの比重の高さも魅力的な楽曲だが、続く10曲目では初めて、というか遂に生ドラム(スネア)的な音色が出現し、一気に楽曲の輪郭が鮮明になる。ただ、このアルバムの世界観としては「多用しない」という選択肢がきっと正解。複数回聴く中で、そう思うようになった。
所謂「ロック」において、音色のチープさは個性/特性のひとつ。頼もしい武器にもなり得るし、補正しようとすればいつでも出来る。しかし、アイデア/企みのチープさは致命的。ずっとそう思ってきたが、今回『ふらち野』を聴くことによって再確認できた。叶うならば、このアイデアに溢れたアルバムが、一人でも多くの人の耳をざわつかせますように。
寅間心閑
■あついすいか(遠藤徹)作詞作曲『この世界のまんなかに(見えないものがある?)』■
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