小説幻冬は幻冬舎さんが刊行しておられる文芸誌でござーます。だいぶ前に文学金魚ではカルチャー文芸誌という括りで既存の純文学誌、大衆小説誌にカテゴライズできない小説誌を時評しておられました。papyrus、yomyom、ジャーロ、en-taxi、小説tripper、j-novel、mei、feel love、gingerなどを取り上げていました。こうしてみると横文字だらけね。今までの文学のアトモスフィアを変えようといふ各社の意気込みがうかがえますわ。でもほとんどの雑誌が休刊しちゃったのよねー。ま、小説だけじゃないですけど文学ビジネスはあからさまな斜陽産業ですからね。
既存の文芸誌は歴史も長いですし、不況になってもなんとかその対応ができますけど、新創刊の文芸誌は赤字補填のスキームが作りにくいってことかしらね。たいていの小説文芸誌はよくて収支トントンでそこで連載した小説が売れて利益が出る、もしくは多少の赤字が出ても会社の顔として全体の利益で穴埋めするっていうのが普通だと思います。
ちょっと面白いと思うのは、日本人って儲かってもあんまり自慢しませんわね。大阪人の「ぼちぼちでんな」が典型的ですわ。でも赤字になるとおおっぴらに言ったりします。「あいつが持ちこんだ○○でこんだけスッちゃってさー」とかよくバーなんかで話してる投資家がいます。それがなんとなく自慢げなのよね。でもま、儲かった話よりもスッたお話の方が面白いことが多いのも事実ね。恋愛で成功しましたっていう自慢話がちょーつまんないのに対して、どうやってフラれたのかの話の方が面白いのに似てるかも。
でも文学業界は逆ね。雑誌なんかが重版になると時には新聞なんかでも報道されたりします。ベストセラーもそうね。でもそんなことってめったに起こらない。文学は儲かんないってハッキリ言っちゃうとなおびんぼ臭くなるから、売れた時はパーッと喜んで景気づけしようということかしら。それはとってもいいことね。笑う門には福来たるですわよ。
んでカルチャー誌にカテゴライズされていたpapyrusとgingerは幻冬舎様の文芸誌で休刊になっちゃいましたが、この二誌を束ねて新たに刊行されたのが小説幻冬です。版元の名前が付いていますから文藝春秋とか新潮とかと同じ意気込みね、そう簡単には休刊しない、むしろ会社の顔としてやってやるぞーといふ意気込みが感じられます。これもとってもいいことですわ。
小説幻冬は基本的に売れっ子作家様に雑誌に書いていただいて、それを単行本にするという仕組みがスッキリ貫徹されている雑誌でござーます。新年号巻頭インタビューは西野亮廣さんの「信じれば、世界は変わる。」です。西野さんの絵本『えんとつの町プペル』が幻冬舎さんから出版されてよく売れたのは言うまでもありません。幻冬舎さんに限りませんが、出版社は当たり前ですが営利企業ですから、自社に利益をもたらしてくれた作家を大切にするのは当然のことです。
目次を見ると小説は宮内悠介、原田マハ、深町秋生、群ようこ、澤田瞳子、万城目学、藤岡陽子さんの連載が並んでいます。今号では読み切り小説はナシですわ。これらの連載のいくつかを単行本として刊行してゆく、つまり作家を囲い込んで連載させて本にしてゆくという昔ながらの文芸誌のやり方です。これも他社が行っている文芸誌出版の手法と同じです。ただ必ずしも純文学ではなく、一般読者に対して訴求力のある作家様のお作品を重視しているのが小説幻冬様の特徴かしら。
もち本が売れるかどうかはわかりません。当たり前のようですがそこが文芸誌の難しいところよねー。メーカーや仮想通貨の仕掛け人のように、版元が作家と作品を仕込んでアタリを狙うのはとっても難しいことですわね。つまりいい作家、いい作品が出て来るかどうかは書かせてみるまでわかんない。当然、前作、前々作が売れた作家はどの出版社でも優遇されます。ただしイマ作がまた当たるかどうかはわかんない。当たりそうな作家を探してくるのが編集者の腕の見せ所ということになりますが、イチから育てるのはほぼ不可能。基本的にはアタリが出るまでじっとこらえるしかない。出版って大変なお仕事だと思いますわぁ。
「十二階と言えば、柏亭君、こんな話を聞いたことがないか。なんでも、二十年近く前、ぼくたちの先輩があそこで事件を起こしたとかいう・・・・・・」
「事件?」
単語に吸い寄せられるようにして、恒友がぐっと身を乗り出した。
「なんか、前もそんな話が出てこなかったか」
「いや、ぼくは聞いたことがないよ」
そう柏亭が首を振ったのを受け、忠一がつづけた。
「ちょうど、あの十二階が建てられたころの話だ。もっとも、事件の当事者となった先輩自身から聞いたことで、ぼく自身、この目で見たわけではないんだがね・・・・・・」
浅草十二階――正式には凌雲閣は、いまも浅草の目印としてそびえ立つ当代一の高塔だ。
十階までが煉瓦造りで、その上に、木製の二階建てを積み増した形になる。明治二十三年の落成当初は電動式のエレベーターはだいぶ不安定な代物であったらしく、あっという間に運転停止の憂き目に遭ったと聞く。(中略)
しかし、それから二十年近くが経ったいまは、わざわざ十二階を歩いて登ろうという好事家もめっきり減った。十二階はどことなく亡霊のように浅草に立ったまま、いまだどの建物よりも目立ち、そしてどの建物よりも忘れ去られつつある。
「ことのあらましはこうらしい」
「十二階ができた、その翌年のことだ。季節は、ちょうどいまくらいか。あの十二階の展望台から、墜死した人間がいたらしいんだな。ところが、これがどうも妙な具合でね・・・・・・」
宮内悠介「牧神に捧ぐ推理――浅草十二階の眺め」
宮内悠介先生の「牧神に捧ぐ推理――浅草十二階の眺め」はまだ連載二回目ですが、物語が動き始めましたわね。時代は大正時代。物語の舞台に設定されているのはパンの会です。浪曼派の文芸誌「スバル」同人木下杢太郎、北原白秋、吉井勇、そして美術同人誌「方寸」の画家・石井柏亭、山本鼎らが結成していた芸術家の懇親会です。「牧神に捧ぐ推理」の主人公は木下杢太郎です。マルチに活躍した作家ですが今では詩人として有名です。
物語は関東大震災で倒壊して解体されるまで浅草公園にあった十二階建ての凌雲閣から転落死した男の謎を解くストーリーで進みます。でもこれは小説のプロットであって、宮内様の目的といふか楽しみは、パンの会に集った芸術家たちの交流を描くことにありそうです。第二回のラストは「無性に、鷗外先生の話が聞きたくなった。医学と芸術を両立させている鷗外は、しかし一度も、詩や戯曲をやれと杢太郎を励ましてくれたことはない。認めてくれていないのか、それとも、一学生に対して無責任なことを言うのが憚られるからか。あるいは、その両方かもしれない。けれど、もし鷗外が本当に杢太郎のうちに才能の輝きを見出していたなら?」とあります。
明治男といふか、鷗外となると身体と心の半分は江戸の人ですから、あんまり余計なことを言いませんでしたし、他者の創作に対しても厳しかったんですねぇ。アテクシずいぶん前に高濱虚子先生の本を読んでいて、虚子先生は盛んに小説を書いていたのですが、ある会合で鷗外先生に会ったら、しれっと「僕の妻は君の小説の大ファンだよ。僕はまだ読んでないけどね」と言われたと書いておられました。んー正直なような冷たいような。鷗外先生は漱石作品をかなり綿密に読んでいますから、要するに婉曲に読む価値がないと言われたようなものです。
お作品にはパンの会を巡るいろんなTipsが散りばめられるのでしょうね。読み物として楽しくなりそうです。また江戸時代を舞台にした時代小説だけでなく、明治大正の近代を舞台にする準時代小説も増えています。漱石先生を探偵にしたお作品もけっこう売れてますわね。
これは一種の行き詰まりであり、また文学の総決算でもあるような気がします。行き詰まりというのは、売れるということを考えても、新しいタイプの小説という面でも、なかなかコレというラインを作家様たちが見つけられていない現状を指します。総決算というのは、過去の遺産をもう一度見直して、そこから新しい作品を作り上げようという流れですわ。
純文学の世界では三島由紀夫大好き作家がけっこういらっしゃいますけど、彼は戦後作家よね。市ヶ谷駐屯地での割腹自殺は衝撃的でしたけど、小説は極めてオーソドックス。その源流を辿れば川端康成や谷崎潤一郎らに行き着くわけで、彼らは戦前から活動している作家たちです。戦後復興の文学好景気に乗って戦前作家たちは大活躍したわけですが、日本文学の新しい試みはほぼ明治末から大正時代にかけてその土台が出来上がっています。迷った時は基礎に帰れよね。宮内先生の連載、楽しみですわぁ。
佐藤知恵子
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