連載エッセイ「時代はいま」「#社会詠」で辻聡之さんが「最近、社会詠について考えている。(中略)そういう歌があるのは知っていても、少なくとも自分は作らないと決めていた。それが今や、どうしたらスローガンにならないよう自分なりに表現できるかと呻吟するようになった」と書いておられます。確かに社会詠は難しい。「安倍政権許すまじ」とか「原発反対」などの社会詠はかなりありましたしそういった表現が禁じられているわけでもありません。
ただ多くの物書きはカチンと来る事件や悲惨な出来事を目撃しても脊椎反応でそれを作品に織り込むのを躊躇することが多いかもしれません。一つの理由は言葉が常に遅れの中にあるからでしょうね。ニュース記事なら目撃した出来事を伝えもしそれが間違っていてもその時はそうだったで資料的価値を持つことがあります。ニュース記事は映像音声に次ぐ判断資料です。しかし文学は違います。ある現実事象の本質を捉えていることを読者から期待され作家自身もそういった表現を目指す。しかしリアルタイムで本質は捉えにくい。事象の本質が関わってくるとニュース記事とは比べものにならないほど表現の幅も出て来る。つまり表現が揺れるわけです。
都市はもう混沌として人間はみそらーめんのやうなかなしみ 馬場あき子
おもひみよネットのかなたしんしんと一万人のスタヴローギン 坂井修一
辻さんが引用なさっている社会詠の歌二首です。両方とも社会全般への批判意識が表現されていますが坂井さんの方が一歩踏み込んでいます。スタヴローギンはドストエフスキー『悪霊』の主人公で精神を病んでいますから坂井さんがネット民にあまりよい印象を持っておられないことがわかります。ただこれ以上突っ込むと歌は平板になるでしょうね。遠く相対化しているからそうかもと思わせる。
もうずいぶん昔の本ですが吉本隆明が『戦後詩史論』で一九七〇年代以降の自由詩を「修辞的な現在」と規定したことがあります。それは今から振り返ればその通りで終戦から六〇年七〇年安保を経て高度経済成長に突入した日本は平和を国是としました。政治的にはもちろん様々な事件が起こったわけですが多くの人が勤勉に働き日々の暮らしを裕福にすることに心血を注ぎました。その中で詩の表現は社会本質を抉る戦後詩から修辞(レトリック)を重視する生活詩に変わっていった。言葉の意味伝達機能を拒否したかのような現代詩の修辞もそれに拍車をかけました。
短歌では塚本邦雄や岡井隆の歌で社会詠と解釈できる作品がかなりあります(同時代の本質を描いた作品という意味です)。ただ彼らも八〇年代以降はなかなかそれが難しくなった。八〇年代以降に社会は情報化社会に突入し世界が巨大に複雑に膨らんで捉えにくくなってしまったからです。それは現代も同じです。
ではどうすれば社会詠を詠めるようになるのか。答えは一つではないでしょうが作家の思想の強度が問題になるでしょうね。吉本隆明は左翼思想家と思われていますが磯田光一が吉本さんが「思想のためには死ねないな。子どものためになら死ねるけど」とおっしゃったと書いておられました。社会主義であれなんであれ抽象思想のためには死ねないということです。逆に言えば何が自分の肉体に直結した譲れない思想なのかを認識できれば社会詠の表現方法が自ずから見えてくるかもしれません。
(フウイヌムは語る)確かにわたしはこの国のヤフーが嫌いだ。だが、残酷だからというのでナイ(猛禽の一種だ)を咎めたり、蹄を傷つけるからというので尖った石を咎めたりはしないのと同じく、忌まわしい性質をもっているからといって、ヤフーを咎めるつもりはない。しかし、もし理性の所有者だと称している者がこれほどの残虐行為を犯しうるとすれば、その理性の力は完全に腐敗堕落しきっていて、単なる獣性よりもさらに恐るべきものとなっているのではないか、と疑わざるをえない。
ジョナサン・スウィフト『ガリバー旅行記』(平井正穂訳)
獣人に過ぎないどころではない。文明人は、フウイヌム国の野蛮なヤフーよりもずっとタチの悪い、凶悪な存在なのであった。フウイヌム=馬によってこれが指摘される――『ガリバー旅行記』が風刺文学として恐ろしいほどの力をもっているのは、こういう鋭い洞察を局外の他者(ここでは馬)に語らせるところにあるだろう。現代のわれわれにも刺さってくる強烈な文章だ。
坂井修一「連載 かなしみの歌びとだち―近代の感傷、現代の苦悩―第十七回 迢空の馬、スウィフトの馬(下)」
坂井修一さんが「連載 かなしみの歌びとだち―近代の感傷、現代の苦悩」で先月号から「迢空の馬、スウィフトの馬」という表題で書いておられます。スウィフトの『ガリバー旅行記』が取り上げられているのでちょっと感動してしまいました。小人のリリパット国のエピソードが童話などで面白おかしく脚色されていますが『ガリバー旅行記』はかなりの奇書です。ダンテ『神曲』と同様に政治的意図の濃い作品なのですがそれを逸脱してしまうような奇想がスウィフト文学の特徴でしょうね。
坂井さんが引用なさっているのは「第四編 フウイヌム国渡航記」でこの国は知的で高い倫理を持ったフウイヌムという馬族に支配されています。フウイヌム国にはヤフー族と呼ばれる者たちも住んでいて利己主義的で吝嗇で暴力的です。ヤフーが人間存在の喩であるのは言うまでもありません。
ただしヤフーは理性を持っています。そしてフウイヌムが批判するのはほかならぬヤフーの理性のあり方です。ヤフーたちの「理性の力は完全に腐敗堕落しきっていて、単なる獣性よりもさらに恐るべきものとなっている」とガリバーに語ったのでした。
ガリバーは自分はヤフーとは違うと主張しますがフウイヌムの議会でヤフーとなんら変わらないという判決を受けフウイヌム国から退去するよう命じられます。ガリバーは紆余曲折あってイギリスに帰りますがフウイヌム国での体験が強烈で妻子にすら馴染めません。オリジナル作品では馬小屋で馬たちとフウイヌム国の言葉で会話するのがガリバー心の慰めとなったというオチになっています。
『ガリバー旅行記』にはイギリスでの出世を望み叶わないとわかると故郷アイルランドで愛国の士になるというスウィフトの屈折した心情が反映されています。ただ『ガリバー旅行記』終章「フウイヌム国渡航記」の結末はちょっと度が過ぎている。スウィフトの生きた時代は大航海時代と啓蒙主義などに代表され人間理性全盛の時代でもあります。読み方によっては『ガリバー旅行記』は支離滅裂な小説なのですがスウィフトが人間理性の懐疑主義者で厭世的心情を持っていたのは間違いないでしょうね。
人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝける。旅寝かさなるほどの かそけさ
ひそかなる心をもりて をはりけむ。命のきはに、言ふこともなく
ゆきつきて 道にたふるゝ生き物のかそけき墓は、草つゝみたり
釈迢空(折口信夫)『海やまのあひだ』
スウィフトは人間理性を批判しましたがヨーロッパでは長らく人間が世界の覇者で最高の知的動物だという認識が主流でした。坂井さんはその対極にある文学作品(の思想)として釈迢空の歌を挙げておられるわけです。『海やまのあひだ』は迢空三十八歳の時に刊行した第一歌集です。もう思想的には出来上がっていたとはいえずいぶんと老成した歌です。
ただ迢空が表現した人間存在は動植物と同じといった汎生命思想は日本では馴染み深いものです。詩人に限らず小説家なども年を取れば取るほど伝統的と言いますか日本人の肉体に沁み込んだ汎生命思想に傾いてゆくようなところがあります。一方でこの思想が日本人の社会批判思想を鈍くしているところがある。諦念と紙一重なのですね。
社会詠に戻りますと前衛短歌・前衛俳句・戦後詩・戦後文学(小説)でも広義の優れた社会詠を書き残した作家たちの個の輪郭ははっきりしています。スウィフト的人間理性批判はヨーロッパでは珍しい先例ですが日本ではその逆に人間理性中心主義的思考が弱いとも言えます。
いずれにせよ社会詠には日本的春夏秋冬の循環的世界観をいったん拒否するような姿勢と思考が必要になります。日本的思想に安住していてはダメなのです。また社会詠は的を外すと悲惨なことにもなる。塚本の社会詠などは細心の注意を払って足を掬われないような表現に練り上げています。個の思想を肉体化できるのか。社会詠は作家の勇気が試される表現でもあります。
高嶋秋穂
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