今号の特集「遙かなる母校」の総論「学校はヘタがじょうずになるところ」で萩岡良博さんが「学校にもいろいろあるが、私の知る限り、歌人は高校教員が最も多く(私もその一人である)、ついで大学教員ということになる」と書いておられます。短歌に限らず俳句や自由詩でも文筆で食べてゆくのはなかなか難しい。昨今ではそこそこ名前の知れた小説家でもそうなっているので況んや詩をやといったところです。
十代二十代で詩や小説を書き始めた人はなんとか文筆で食べていけないかなと考えたりするでしょうね。そうなれば素晴らしいことですがそうなったらなったで大変です。詩作品だけで収入を得るのはほぼ不可能なので(最近では小説でも同じですが)いろんな仕事をしなければならなくなります。いわゆるフリーライター稼業になる。対価を前提に原稿を書くようになるのでよほど気をつけていないと筆が荒れやすいです。書くよりも文学や人間存在について考える時間の方が多い教員という職業は物書きにとってはいいお仕事かもしれません。
かく言はば子等一せいに笑はむとはかりごと立て廊下を曲がる 馬場あき子
馬場あき子さんは長く定時制高校の先生を勤められました。「かく言はば」はなんとか先生をからかってやろうとするワルガキたちの姿が彷彿とする歌です。学校では先生だけが大人で生徒は子どもというのが基本的図式です。知的にも感性的にもまだ幼い子どもたちを大人の先生がなんとか引率してある方向に導いてやる場です。先生と生徒の間には序列があり距離もある。たくさんの生徒を見てきた先生には経験値もありますからたいていの生徒の言動は理解できるし対処もできる。しかしそれだけでは終わらないのが人間世界というものです。
佐野朋子のばかころしたろと思ひつつ教室へ行きしが佐野朋子おらず 小池光
高二の夏退学めし生徒が証明書取りに来たりぬ厚く化粧ひて 荻原良博
「病院はお金かかるし」女生徒の優先順位は明日の電気 野村まさこ
どうすりゃいいのさ思案橋 てなことを口ずさめども口ずさめども 島田修三
特集では小池光さんの「佐野朋子のばか」を引用しておられる方が多かったですね。冷静な大人で生徒たちを高みから見つめ導かなければならない先生が思わずカッとなってしまった瞬間を歌にしています。ユーモアが感じられるのはどこかで「大人げないな」と先生自身が思っているからでしょうね。荻原良博さん野村まさこさん島田修三さんの歌はもう少し深刻です。先生という職業では生徒の生活の機微の隅々まで見えてしまうことがあります。様々な出来事が起こりそれは生徒自身の問題であることも家庭に起因していることもある。それがわかっているのに解決してやれない先生の苦悩が表現されています。先生と生徒の距離が近くなっています。
「正しいことばかり行ふは正しいか」少年問ふに真向かひてゐつ
よき長男よき委員長のこの生徒よく磨かれし嵌め殺し窓 伊藤一彦
大夕焼けばらんばらんと泣くからに奇人変人ほろぼしてはならず 坂井修一
伊藤一彦さんの「少年問ふに」は幼いはずの生徒に意外なところから人間存在に関する〝真〟を突きつけられた際の先生の動揺を描いています。同じく伊藤さんの「よき長男」坂井修一さんの「大夕焼け」は基本は社会倫理に基づいて生徒を指導しなければならない先生という仕事の矛盾を描いた歌です。内容的には正反対ですが人間存在は一筋縄ではいかない。生徒たちにとって学校は通過場所であって終着点ではありません。型に嵌まりすぎるのもはみ出し過ぎるのも危うい。先生は大変なお仕事です。
わたしたち全速力で遊ばなきや 微かに鳴つてゐる砂時計
とつておきの死体隠してあるやうなサークル棟の暗き階段 石川美南
また春が来た通学路 若い靴は耳から鼻にスッとぬけてゆく
窓越しの青葉のことを誰も触れぬ院生室の先輩後輩 カン・ハンナ
特集で案外少なかったのは学生生活を詠んだ歌です。石川美南さんとカン・ハンナさんの歌は大学生活を詠んだものです。いずれも社会に飛び出して行く前のモラトリアムのように貴重な青春時代を伸びやかに詠っています。統計を取ったわけではないですが最近では中学高校といった思春期の屈折した心情を詠った歌が減っているように感じます。学校や学生時代がテーマではないですが寺山修司「マッチ擦るつかのまの海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」「草の笛吹くを切なく聞きおり告白以前の愛とは何ぞ」など戦後青春短歌には背伸びし屈曲した精神が描かれているものが多かった。しかし今では減っているように感じます。理由は様々でしょうが情報化時代が影響している気配はあります。
相変わらず理由もなく大騒ぎして暴れることはありますが思春期の精神状態がどういったのものであるのかを当の少年少女たちは知識として知っています。そういった情報はネットなどに溢れており中二病などある程度までパターン化もできます。歌人に限りませんが自我意識を創作で表現しようという作家たちがそれに影響を受けるのは当然です。簡単に言えばクリシェを外さなければならない。昔ながらの子どもっぽい屈折や抒情ではもはや表現として物足りないということではないでしょうか。
もちろん大文字の社会的テーマが設定しにくい時代ですから相変わらず思春期の精神を描く文学は現れます。ただ戦後よりも微に入り細に入り過激になっている傾向があります。この過激というのはフィクション要素が増えているという意味です。思春期精神をフィクショナルに膨らませて「死にたい系」などにまで昇華してゆかないと文学表現になりにくい。フィクショナルに膨らませるということは社会的主題ではなく人間存在の根源に触れたいという指向でもあります。ただし短歌という表現は根本的にフィクションと相性が悪い。短い表現ですからフィクションを膨らましてその機微を描くのも難しい。青春短歌が希薄で透明なものになりがちな理由かもしれません。
万智ちゃんを先生と呼ぶ子らがいて神奈川県立橋本高校 俵万智
特集では取り上げられていませんでしたが俵万智さんのこの歌は「カンチューハイ」などの代表歌よりもある意味時代精神をよく表していると思います。誰もが中身は子どもの頃と変わらない「○○ちゃん」なのに社会的には「先生」などと呼ばれてしまう。もちろん社会人として幼いわけではなく「○○ちゃん」であるのも先生や課長や部長やお父さんお母さんであるのも本当です。しかし五十歳六十歳になっても「これから何になろうか」と考えていたりする。
以前はそういった精神は未成熟と呼ばれていましたが現代ではそうではないと思います。「○○ちゃん」が何かになろうとしているのが普通の精神状態に近い。社会の大きな変化に合わせて大胆に変わり続けるのが人間のあるべき姿という時代なのかもしれません。
高嶋秋穂
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