さぁて、今月から小説新潮様の時評を始めますわよ。小説新潮様はその名の通り、新潮社様刊行の大衆小説誌でござーますわ。文藝春秋社様ではオール讀物と文學界が大衆小説と純文学小説のセットになっているのと同じ構図ね。
そんでもちろん応募は終わっちゃいましたけど、小説新潮様のグラビアは「新春特別プレゼント企画 作家からの年賀状」でござーますわ。雑誌添付の応募券を貼って申し込むと、抽選で大好きな作家様の年賀状がいただけるのよ。トップページには江國香織先生と浅田次郎先生の年賀状が写真で掲載されておりますわ。
浅田次郎先生の年賀状は「謹賀新年」の立派な墨書です。江國香織先生の年賀状は素敵なイラストに「こういうオモチャを昔持っていました。牧歌的な一年になりますように」という言葉が添えてあります。アテクシ、浅田先生のお作品の大ファンですけど、この年賀状だけってことにすると、江國先生の年賀状の方が欲しいわねぇ。
江國先生の小説はもちろん大好きですけど、先生のエッセイも好きなのよ。日常生活の過ごし方がわかるからってファン心理もありますけど、むしろ先生の日常時間への対し方が好きなのね。
江國先生、むっちゃくちゃ忙しいはずなのよ。書きまくっておられますからね。でも忙しいっていう愚痴とかは、めったに書いたりなさいませんの。むしろのんびり日々を過ごしておられるような感じですわ。それを読むたびに「えらいわねー」と思っちゃいますの。年賀状も「牧歌的な一年になりますように」という添え書きでしょ。キュンときちゃう。
アテクシ、追いつめられると「テメー知恵子様がクソ忙しいの見ててわからんのかつまんない仕事持ちこむんじゃねーよこのタぁコおぉぉぉっ!」などと、つい海のステキな生き物を侮蔑するような言葉を口にしちゃいますの。これではいかん、おおいに遺憾であると後から後悔するわけですが、年に数回は大爆発しちゃうのね。江國先生を人生の師として崇めて心穏やかに生きていきたいわぁ。今年から実践よっ!
そういう時期が三、四年は続いた。その間に直純一家は新中野に引っ越し、凛々花は年長さんになり、私は販売促進部から企画開発部に異動になり、茗荷谷から四谷三丁目に引っ越した。再々会四年目あたりから、一年に一度くらい、直純は私の住まいに泊まったり、関東近郊に一泊旅行に出かけられるようになり、相手を見つめるより相手と並んで映画や絵画を見ることのほうが増えた。再々会から六年後には――その年に私たちは四十歳になったのだが、恋愛の純度は薄まりはじめ、ラブだかライクだかわからなくなり、けれども習慣のように会い続け、ときには旅行にいき続けた。このころにはもう、直純は私のためにはがんばらなくなっていたし、そりゃあそうだよな、と私も思っていた。
角田光代「冬の水族館」
角田光代先生の「冬の水族館」は四十五歳の私が主人公です。恋人の直純がいます。ただし既婚者で娘もいる。大学時代の同級生ですが親しくなったのは卒業後十年目の同窓会でした。話が合い食やお酒の趣味も合った。私は直純と付き合うようになるのですが、直純は私といわゆる肉体関係が生じるほど深入りしてからしばらくして、付き合っていた女性と結婚してしまった。私は当然怒ります。「卑怯だなと思うのは、そんなふうにして会いすぎながら、直純が、結婚が決まっていることを言わなかったことだ」とあります。当時私にも恋人がいたのでちょっと微妙ですが、直純に強く惹かれ始めていたのです。
私は直純の電話番号などを消して連絡を断ちます。しかし二年後にほんとうに偶然居酒屋で再会してしまう。私はなぜ結婚の予定があることを言わなかったのだと直純を責めます。直純は謝り続け「たのしすぎて言えなかったんだと言った」。「ああわかる、その気持ち、と思ったけど(私は)言わなかった」。そして二年のブランクを隔てて私はまた直純と付き合い始めたのでした。
私は大学卒業後、十年経った三十二歳の時に直純と付き合い、一度別れて二年後に再会してそれからずっと四十五歳になるまで直純と付き合い続けています。もう「ラブだかライクだかわからな」いような恋人です。ちょっと夫婦関係に似ていますがもちろん違います。
ビールを飲んでいなかったら、まだ高校生だと錯覚できるかもしれないと、馬鹿げたことを案外真剣に思いついた。学校を抜け出して電車に乗って、遠くの町まできた高校生のカップル。どうとでもなる未来がたっぷりあることに気づかずに、隣にいる相手のことなんて数年後には忘れてしまうかもしれないなどと思いつきもせずに、今日この瞬間に死んでもいいくらいしあわせだと思っている高校生だ。空が青か灰色かなんて気づきもせずに、水族館がさびれているなんて思いもせずに、人がいないことがさみしいなどと感じもせずに、昼になったら、教室で食べるはずだった弁当を広げて、おかずを交換したりしながら食べる。帰りに売店に寄って、ださいとも思わず、いつか捨てるとも思わず、イルカかアザラシのキーホルダーを買って、たがいの鞄につける。財布には帰りの電車賃ぎりぎりのお金しか入っていなくて、特急券を買えなくて各駅停車に乗って、窓の外がどんどん暗くなっていってもなんの心配もない。何度も振り返りながら手を振って別れて、それぞれの家に帰って相手のことを思いながら眠る。ビールがあればいいのにな、なんて一日のうち、いっときも思いつかない。ビールが飲めたらよかったのにな、なんて考えもしない。飲まなくても一日は充分たのしく過ぎていき、酔わなくても会話は尽きず退屈と思うこともない。
同
ああなんて美しい記述なんだろうと思いますわ。四十五歳の私は同じように中年になって娘もいる直純と日帰り温泉旅行に来たわけですが、温泉に入る前に行こうとしていた山のロープ―ウェイがメンテナンス工事で動いていない。「私はいつもこうなのだ。子どものころからずっとそうだ。何も調べずに、まず動き、動いたあとで失敗する。動く前に調べたり、予習したり、段取りを踏むべきなのに、いつも忘れて動いてしまう。幾度失敗しても学習しない」とあります。直純との関係に重なっていますね。
仕方なく私は直純と水族館に行きます。水族館は寂れている。観客の少ない寂しいイルカショーをビールを飲みながら見て、わたしは直純が、ではなく自分が純な高校生だったらと思うのです。人間は年齢ほど年を取らない。精神の年齢は十代くらいからずっと同じです。しかしその上に経験を積んだ年齢が重なっているだけ。いつでも十代の自分に戻れるわけですが、そこから今の自分に戻ってくる際には様々な経験値が付け加わっている。
「おみやげに買っていってあげたら」と、イルカのぬいぐるみを手に取って渡すと、
「そんな年じゃないし」と直純はそれを棚に戻す。主語を言わなくても通じる。(中略)
「じゃ私に買ってよ」直純が棚に戻したイルカをもう一度手に取って押しつける。
「マジか」つぶやいて、直純はおとなしくそれを持ってレジに向かう。レジで、スタッフの女性にイルカのぬいぐるみを渡し、背を丸め、ズボンの尻ポケットから財布を取り出す中年男を私は眺める。財布をのぞいている彼から目をそらし、ぶらさがっているキーホルダーを眺め、意味もなく値段を確認していく。
同
水族館の売店で私はイルカのぬいぐるみを直純に買ってもらう。私の恋は色あせているようで強いことがわかります。そしてこの恋、コワレモノです。コワレモノだから大切にして壊れないようにしているだけ。それがさりげなく表現されている。私は「大人になったら賢くなるはずだと思っていたけれど、そんなことはないのだと知った今、老いれば執着や愛欲がなくなることも、ないのだろうとぼんやりと思う」。これぞ小説という叙述です。
アテクシ、小説は現世のどうしようもない矛盾を描き出す言語表現だと思いますの。角田先生の「冬の水族館」はそれを鮮やかに描いておられます。秀作でござーます。
佐藤知恵子
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