コロナが落ち着いて最近またフィットネスに通い始めましたのよ。バカ高いクラブぢゃないわよ。アテクシくらいの年のキャリアウーマンになると、そんじょそこらのオバサマたちといっしょくたにされるのがイヤで、すんごいお高いクラブに通う方たちもいますの。だけどそれって自分でオバサン化を認めたような気もして、アテクシは駅前の若いあんちゃんねーちゃんが集まるフィットネスに通ってますの。で、頑張り過ぎは禁物ね。フィットネスをリタイアして整骨院に通うことになっちゃいますからね。
アテクシ中高はバレーボール部でしたの。サインはぶいっ! の世代ですからね(古っ!)。とはいえ進学校でしたからなんちゃってバレー部でしたわ。試合になると運が良ければトーナメント三回戦くらいまで進めたかな。でもどの学校にも変わり者がいて、先輩の一人がバレーが好きで好きで、けっこう偏差値高い大学出て上場電機メーカーに就職したんですけど実業団バレー部に所属してたのね。すんげーなとバレー部では憧れの的でしたわ。
その先輩が夏休みに母校バレー部の指導に来てくださったのよ。「こんにちは! みなさんいっしょに練習しましょうね」って感じの満面の笑みで。ほんで「ウオーミングアップしましょ」といって走り出したのはいいけど、「コイツいつまで走らせんねん」ってくらい走るわけよ。アテクシたちはそれだけで虫の息ね。二回目の柔軟体操で床に座れるのがすんごいありがたかったですわ。
それから「レシーブ練習しましょう」ってことになって、部員一人ずつ交替しながら先輩のボールをレシーブすることになったの。「もっとボールよく見て」「腰しっかり落として」とか指導が入るんですが、先輩はずっとにこやかにボールを打っておられました。で、ハッと気づいたのよ。部員は10人くらいでしたけど、先輩はハイボール、ローボール、変化球とか一人でずっと打ってアテクシたちにレシーブさせてたのね。二時間くらいは一人で打ち続けてましたわ。「ゲ、こいつバケモノ」と思いましたわよ。
でもねー、その先輩、実業団では補欠なわけですよ。バレー雑誌も時々読んで必ず先輩が所属している実業団チームチェックしてましたけど、一度もレギュラーで試合に出ておられませんでしたわ。この先輩が補欠なら、レギュラー選手ってどういうレベルなの? オリンピック選手ってそれ以上? って思ったら目眩がしてきましたわ。アテクシたちはテレビでスポーツ見て「なーにやってるのっ!」とか毒づいたりしてますけど、テレビの向こうのアスリートはバケモノよ。
「日本中が萩尾レイナのことを〝氷上の可愛い可愛い妖精ちゃん〟と思ってたのが、この一枚で確かに変わったの。この子は、金メダルを渇望するアスリートなんだって。彼女のこの目、『金メダルは私のだ』って叫んでる目だもの」
多々良自身、あの一枚を撮るまで、萩尾レイナを妖精か何かだと思っていた。近寄れば苺の香りがするような、醜い欲望なんて欠片も持ち合わせていないような、「無垢で純粋な可愛い女の子」という理想像を、どれだけ彼女に押しつけていたかを思い知らされた。
額賀澪「星の盤側」
額賀澪先生の「星の盤側」の主人公は三十歳くらいのスポーツカメラマン、多々良です。多々良をカメラマンとして有名にしたのが、自腹でケベック・シティー五輪に行って撮ったフィギュアスケーター萩尾レイナの写真でした。駆け出しカメラマンだから自腹でオリンピック取材に行かなきゃならなかったのですね。
彼の写真はそれまで「氷上の可愛い妖精」と思われていたレイナのアスリートの本質を炙り出した。まさに真を写したのです。この一枚がスポーツ雑誌ゴールドスピリット(ゴルスピ)に採用されたことで多々良にスポーツ写真の仕事が舞い込むようになりました。ただ出世作を採用してくれたゴルスピはやはり多々良のホームグラウンドのような雑誌です。
ゴルスピの編集長が交代したので多々良は編集部に呼ばれます。新しい編集長は小倉という女性です。小倉は新しい仕事を依頼しますが、それはいわゆるスポーツではなく将棋の対局写真を撮ってほしいというものでした。明智昴という「十四歳の誕生日にプロ入りを決めて、藤井聡太の最年少棋士記録を更新した〝天才中学生棋士〟」がいる。その明智がプロ棋士の順位戦に参加する。相手は「彼と同じく中学生でプロ棋士になった座間隆嗣六段。天才中学生棋士と、かつて天才中学生棋士だぅった二人の対決ってわけです」とあります。
多々良は戸惑います。「組織のリーダーが交代すると、必ず、何かしらの変化がある。(中略)その流れに巻き込まれる形で、多々良のようなフリーのカメラマンは仕事を得ることもあるし、失うこともある」。ただ小倉編集長は単なる思いつきで将棋をスポーツとして扱おうとしているわけではないようです。多々良は仕事を引き受けることにします。
撮影時間が何時間あろうと、「ここだ」という瞬間は短い。走高跳や棒高跳の選手がバーを越える一瞬、走幅跳や三段跳の選手が砂場の上を跳ぶ一瞬――本当に、それくらいの時間だ。
今日の撮影の「ここだ」がどこかと聞かれたら、間違いなくここだった。
座間は、明智の初手をじっと見ていた。姿勢よく、川の流れでも眺めるような顔で。
そんな彼を撮った。座間と呼吸を合わせるように、三枚。喉の奥が痙攣して、声が出そうになる。
レンズを通して、座間の体をひたひたに満たした感情が流れ込んでくる。多々良はそれを摑むことができない。圧倒され、呆然として、気がついたら何も残っていない。激流は座間の中に帰っていってしまう。
どうしたって自分には手の届かない場所で、巨大な炎が燃え上がっている。それを思い知らされる瞬間が、撮影をしていると、ある。その瞬間を写真に収めるのが自分の使命だと思う。
この一枚も、きっとそういう一枚になる。
同
多々良は対局で世の中の注目を一身に集める天才少年棋士・明智ではなく、挑戦者の座間の姿に惹かれます。座間は背水の陣でした。将棋は年功序列ではなく徹底した実力の世界です。座間は負ければプロ棋士の順位戦にも参加できなくなる。その研ぎ澄まされた緊張感を多々良は写真に撮ったのでした。
もちろん勝負の世界は甘くない。天才棋士・明智は身体を膨らませるように盤面を見つめて座間に襲いかかってくる。こちらの気魄も大変なものです。番狂わせは起こらない。「才能の炎が燃え続けられる時間は、決して平等ではない。何年も燃え続けられる天才がいれば、一瞬だけ強く輝いて、二度と光らない天才もいる」。座間は後者の方でした。しかしその姿は多々良を強く魅了するものがあった。
額賀先生は勝負の厳しさを絶対的前提としながら、死力を尽くす勝負師(アスリート)たちの世界を鮮やかに描いています。いい写真が撮れましたが、それによってゴルスピの売上が伸びたのかどうかは書かれていません。それは小説的にはどうでもいいことですね。多々良は傍観者のようですがそうではない。彼は深くアスリートの世界を理解している。アスリートたちとは違うカメラという手段で彼もまた勝負の世界に入り込んでいる。必死に戦っているのはアスリートたちだけではないのです。
「僕はねえ、東京オリンピックがスポーツ嫌いを増やしたと思ってるんですよ」(中略)
「オリンピックが悪かったというより、あの頃の新型コロナ対策を含めた、開催までのありとあらゆる出来事が最悪だった。あれじゃあまるで、スポーツは何を犠牲にしても優遇されるべきものだってことを、オリンピックが象徴してるみたいだった」
「スポーツがそんなに偉いのかよ、みたいな風潮、目に見えて大きくなりましたよね」(中略)
あのオリンピックが終わってからも、スポーツは変わらず盛り上がっている。プロ野球、Jリーグ、フィギュアスケート、箱根駅伝・・・・・・試合や大会が開かれれば大勢の観客が集まる。
それでも、オリンピックが分断したものは、繋ぎ直されていないのだ。犯罪者の身内を白い目で見るような、薄く冷たい視線が、いつだってスポーツには降り注いでいる。
同
「星の盤側」というお作品はコロナ禍という時事ネタもしっかり取り込んでいます。それもネットなどが大きな発言力になった現代社会の〝分断〟という本質的な問題の形でです。額賀先生のスタンスから言えばこの分断はそう簡単には解消されない。しかし解消しようとする人々がいる。その地味だけど一心にそれぞれの仕事に励む人々の姿が描かれています。秀作小説ですわ。
佐藤知恵子
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