今号は第164回直木賞受賞作発表号で、西條奈加先生の「心淋し川」が受賞なさいました。西條先生、おめでとうございます。短編連作で表題作の「心淋し川」と「閨仏」「冬虫夏草」の三作が掲載されています。江戸千駄木町の一角にある心町が主人公です。町が主人公というのはちょいと変な言い方ですが、短編によって主人公が変わりますがすべて心町の住人という設定だからです。
心町とは雅な名前ですが、実際は「小さな川が流れていて、その両脇に立ち腐れたような長屋が四つ五つ固まっている。木戸すらないだけに住人でさえも長屋同士の境がわからず、まとめて心町と称した」とあるような貧乏長屋です。心町は昔は裏町と呼ばれていたようです。現実とは逆の名前を町につける慣習は日本全国で行われていましたね。心町もそんな町の一つです。
「やっぱり人ってのは死に際になると、生国に帰りたいと願うものなのかねえ」
今年の初め、昭三じいさんの葬式から帰った母のきんが、そんなことを口にした。
風邪がもとでひと月ほど寝込み、そのまま枕が上がることなく静かに逝ったが、
「ああ、帰りてえなあ・・・・・・もういっぺんだけ、霞ヶ浦が見てえなあ」
それだけは床の中で、繰り返し呟いていたという。
「じいさんの生国は常陸でね、霞ヶ浦の北辺りにある村の出だそうだよ」
故郷が遠くにあれば、恋しく思うものだろうか?
いや、そんなことはない。あたしはここを出たら、二度と戻りたくなぞない。
西條奈加「心淋し川」
表題作の「心淋し川」の主人公は十九歳のちほです。そろそろお年頃というか、もう嫁に行っていてもいい年齢です。心町の長屋に父母と住んでいて、父は風呂の釜焚きの仕事をしていますが飲んだくれで仕事をサボりがちで、母親とちほが針仕事で家計を支えています。ただしちほはまだ半人前。母ほど腕がよくないんですね。
姉が一人いますが鮨売りの仕事をしている男と相思相愛になり、清太という男の子をもうけて家を出て行きました。義兄は心町あたりを振り売りして歩いていましたが、姉と結婚してしばらくして仕入れ先を浅草の仕出屋に変えた。ちほは「おそらく言い出したのは、姉ではないか? この町とこの家から少しでも離れるために、姉が望んだことではなかろうか」と考えます。
ちほは心町を出ていきたいのですが、それには連れ出してくれる男が必要です。この時代、町衆の間で恋愛結婚はありましたがそれでも珍しかった。たいていは家同士の見合い結婚だったのです。また心町自体が主人公なので、ちほはそう簡単に町から出て行けない。ですから彼女は心町に留まり続けるか、せめて心町を出て行く希望を得るという展開しかないわけです。
で、掘り下げてゆけば心町にもいいところがあって、魅力満開になるのかと言えばそうでもなさそうです。そういう意味で「心淋し川」連作は絶望小説、あるいは閉塞小説ということになります。
その日は茗荷堂の内儀に、けんもほろろに追い返されたものの、六兵衛は諦めずに何度も通ってきた。
「おりきさん、どうか真面目に考えておくれ。あんたを大事にするし、精一杯のことはするつもりだ」
何度目かは忘れたが、肩を落として帰ってゆく背中を見送りながら、りきは告げた。
「おかみさん、あたし、あの旦那さんに貰っていただきます」
それが、十四年前のことだ。内儀の説得にも応じず、半ばとび出すようにして、六兵衛に連れられて、この家に移り住んだ。
「いったん日陰者に落ちれば、日向になんぞ出てこられない。幸せには、なれないんだよ!」
茗荷堂を出るときに、内儀に投げつけられた。
まったくその通りだと、いまのりきにはわかる。
ふつうの妾であれば、こんな物思いとは無縁だったのだろうかと、詮ないため息がもれた。
西條奈加「閨仏」
「閨仏」の主人公はりきです。寒村の生まれで不作の年になると娘を売るのが当たり前のような土地柄でしたが、りきは売られずに済みました。両親が溺愛したわけではなく、女衒が「こいつは駄目だ、面が不味過ぎる」と買ってくれなかったのです。お多福顔の醜女と描写されています。
働けるようになるとりきは江戸白山の煙管屋に女中奉公に出されますが、そこに青物卸を生業にしている裕福な六兵衛という中年男が客としてやってきます。六兵衛は妻帯者の四十男です。煙管屋のおかみにりきの嫁入り先を相談されて、六兵衛は自分がもらいうけたいと言い出します。妾としてです。おかみさんはとんでもないと断りますが、りきは考えた末に六兵衛の妾になることを承諾したのでした。そして移り住んだ長屋が心町にあった。
りきには妾としての苦労が襲いかかります。「ふつうの妾」なら年を取って旦那に棄てられるということになりますが、そうではありません。六兵衛はお金には渋いがりきを大事にします。生活に大きく不自由するということはありません。しかし彼は次々に女を妾にしていった。しかも一つ長屋に女たちを住まわせたのです。十四年の間にりきを入れて妾は四人に増えました。それだけでなく、女たちはりきと同じく醜女なんですね。
六兵衛は「おたくふくは、福が多い。あんたの器量は、授かり物だよ」と言います。若いとはいえ醜女をあえて妾にする六兵衛の心の闇が物語の一つの伏線になります。しかし妾は妾です。そして十四年も経てば六兵衛は当時としては高齢です。いつまでも妾女四人の生活が続くわけがない。またりきは女たちの中で一番年かさです。六兵衛が亡くなった後の暮らしが想像できる。りきもまた簡単には心町から出て行けない。
薬売りから親子の来し方をきいていたとき、津賀七が、ふと気づいたように口にした。
「ひとつだけ、妙なことがありまして」
「妙とは、何がだい?」
「あっしが高鶴屋に出入りしていたのは、十年ほど前まででして。そこから五年ほどは、持ち場が西国に変わりましてね、江戸には出ておりません」
三代目の死も、四代目の怪我も、それより後のことだ。なのに最後に会った頃の吉は、目も当てられないほどに気落ちして、ひどく老け込んで見えたという。いま思い返すと、息子に嫁を迎えた頃からだんだん元気がなくなってきたと、津賀七は語った。
「その当時からしてみると、いまの方がよほど達者でお若く見えます。母は強しとは、よく言ったものですね」
津賀七の人の好さそうな顔を思い浮かべながら、茂十は呟いた。
「母は強しか・・・・・・怖いね、女親というものは」
煙管をとり上げて、一服つける。白い煙を、ため息とともに吐いた。
「子供のためと口にする親ほど、存外、子供のことなぞ考えてないのかもしれないな」
西條奈加「冬虫夏草」
「冬虫夏草」の主人公は吉です。元は高鶴屋という大店の薬問屋の女将でしたが、息子夫婦の奢侈癖と火事、そして放蕩のあげくの喧嘩で息子が怪我を負い、半身不随になって店を潰してしまったことから心町に流れてきました。息子は母親に介護させながら酒を飲んで暴れ、暴言を吐く毎日です。しかし吉は喜々として息子の世話をします。息子の嫁が気に入らなかったのですね。まああまりいい出来の嫁ではなかったのですが、息子を嫁に盗られたと感じてしまった。だから半身不随になった息子を嫁と離縁させて、貧乏でも母子二人の長屋住まいが気にならないわけです。
吉は「心淋し川」のちほや「閨仏」のりきより将来の展望が見えない女性です。心町で朽ち果てていくしかない。タイトルの「冬虫夏草」がかいがいしく息子の世話をしながら、息子を生殺しにする母親の喩であるのは言うまでもありません。
日本の時代小説は海外のSF小説になぞらえられることがあります。どちらの小説も現代社会が抱える問題をテーマにしています。SFの場合、現代的問題を破滅かテクノロジーの発達による超克、あるいは安定に至った社会を舞台にして描きます。それにより現代的問題の解消方法や問題の核心を摑もうとするわけです。
時代小説の場合は現代的問題を過去に遡って捉えようとします。現代社会ならではの様々な決まりごとを無化して、社会が抱える本質的問題をよりクリアに捉えようとするわけです。もちろん江戸時代にも固有の社会制度はありましたが、過去の社会制度の中に置いても変わることのない男女、家族、主従の関係性の本質などをズバリと表現しようとするのが時代小説の醍醐味です。
西條先生の「心淋し川」の主人公たちが心町という希望のない町に逼塞しているのは、現代社会の閉塞感を表しているでしょうね。池波正太郎先生の時代小説は戦後の混乱からの秩序の回復を描いていましたし、司馬遼太郎先生の時代小説は高度経済成長に代表される戦後の明るい未来がバックボーにありました。「心淋し川」は、まあ言ってみれば希望のない暗い時代小説ですが、現代日本社会の写し絵であると言う意味で優れた小説です。
佐藤知恵子
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