小林エリカさんの「最後の挨拶」は、フィクション化されている部分はあるだろうがお父様の終焉記である。近親者の介護や死を作品に描くかどうかは作家それぞれの判断だが書けば必ず得るものがあるだろう。読者にとっても同様で、一人の人間が複雑に絡み合った関係性から成り立っていることが理解できる。書き手の作家についての理解も深まる。また真摯に取り組めば終焉記では作品の出来の良し悪しはあまり問題にならない。〝作品〟としては例外的位置付けだ。エッセイなども含めて近親者の終焉記は素人が書いたものだろうと質の高いものが多い。
半年が過ぎても、片付けは一向に終わる気配がなかった。
マスクに軍手とゴーグル姿のユズとアジサイが奮闘したが、アルバムを開いたり、ノートやポストカードをためつすがめつするのに忙しいリブロとモモと母は、全く戦力にならないのであった。(中略)
写真やアルバムやノートは、もうやけをおこした母が処分するというので、リブロがボール箱に入れて家へ持ち帰ることにした。父の使っていた鉛筆や鉛筆立てにあったルーペ型のキーホルダーなんかまで貰った。
ただでさえリブロの部屋は本や荷物でいっぱいなのに。
ユズはエクステした睫毛をしばたき、マスクの下で何度もくしゃみをしながら言った。
これじゃあ、壁にピストルでV.R. ―― Victoria Regina ヴィクトリア女王の頭文字――って撃ち抜く日も、近いわね。
アジサイは軍手を嵌めた手を振り、付け加える。
これじゃあ、コカインとモルヒネに手を出す日も、近いわね。
モモだけはひとりマスクもつけず埃だらけの床に座り込み、泉屋のクッキーの缶の中から大量に出てきたアメリカ時代の白黒写真をただひたすら素手で一枚一枚繰りながら見続けていた。
小林エリカ「最後の挨拶」
「最後の挨拶」の主人公は三十歳くらいのリブロという女性。モモ、アジサイ、ユズの四人姉妹の末っ子である。父親は医者だったがコナン・ドイル著のシャーロック・ホームズの翻訳者でもあった。『シャーロック・ホームズ物語』全六十巻を妻といっしょに翻訳した筋金入りのシャーロキアン(シャーロック・ホームズの熱狂的ファン)だった。
その父が脳溢血で倒れてしまう。手術で命は取り留めたが障碍が残った。身体だけでなく言語能力にもそれは及んだ。文筆家にとっては致命的だ。リハビリ病院に転院した父を母は自宅で療養させることにした。一戸建てだが新たに小さな部屋を病室用に建て増しすることにしたのだが家は本やモノで溢れている。そこで母と姉妹四人でまずモノを整理することにしたのだった。
父の家はリブロたちの代まで十二代も続く医者の家系である。姉妹は誰も医者にならなかったがそれなりに歴史の重みがある。文筆・翻訳家になっただけあって父は筆まめで、また戦後の早い時期にアメリカを始めとする外国に渡航していたのでその記念品も多かった。そのため片付けは手間取った。父母と同じく文筆家になったリブロは、母親が癇癪を起こしてもう捨てると言い出した「写真やアルバムやノート」をもらい受けて家に持ち帰った。
岡崎には大きな空襲があり、真夜中から夜が明けても街は燃え続け、中学の同級生たちのうち殆どが死んでしまった。
予科練の生徒達たちが次々と特攻隊として飛行機で飛び立っていた。清水が飛んだかどうかの報せはなかったが、きっと清水はもう飛んだかもしれない。
飛行機が機体もろとも敵に突っ込んで燃えていた。
父は蛇腹の灯火管制用のカバーが吊り下げられたライトの下で本を開いては、必死で指でなぞった。
小さな黒い文字が指先の中へと、一文字ずつ吸い込まれてゆく。
その一文字一文字を決して忘れまいと、指に、身体に、記憶に、刻み込む。
本が、何もかも、焼けて、灰になってしまってもいいように。
それから、埋められるだけ本を土に埋めた。
ようやく手に入れた一冊の薄っぺらいノートブックを開く。父は鉛筆を手に握り、小さな文字で書きつける。一九四五年、昭和二十年。
「七月二十四日(火曜日)晴後曇
又一日命が伸びた。」
同
主人公はリブロだが、彼女の独白で小説が紡がれるわけではない。リブロが読んだり見たりした父の日記やメモ、アルバムの写真から父の姿が描き出される。
祖父は軍医として満州や上海に赴任したが、太平洋戦争が始まると金沢陸軍病院勤務になって本土に帰ってきた。それに伴い父は金沢で一中に転入した。が、戦争は苛烈さを増してゆく。この時代、二、三歳の年の差が生死を分けた。さして軍事教練に熱心でなかった清水という親友は、十五歳で中学を卒業すると予科練(海軍の飛行機部隊)に志願した。
日露戦争の日本海海戦以来、海軍は軍の花形だった。清水の壮行会で「父は予科練の歌を歌ってやった」「門出を大いに祝福し、我がことのように喜んだ」「ただ清水の兄だけはひとり冴えない顔であった。弟を励ますのも不承不承で、父の目にはそれが奇異に映った」とある。父が何の疑念も抱かない皇国少年だったことがわかる。この時代の多くの少年少女、特に昭和一桁生まれで幼い頃から皇国思想を叩き込まれた子たちはそうだった。教育は時に恐ろしいものである。
父は医者になるために旧制四校に入学した。祖父と同様に医者になって祖国に奉公するつもりだったのだ。しかし授業は行われず学徒動員で軍需工場での勤労奉仕が続く。米軍の本土空襲も激しさを増し空爆で多くの同級生たちが亡くなった。「父は蛇腹の灯火管制用のカバーが吊り下げられたライトの下で本を開いては、必死で指でなぞった」とある。非戦闘員の市民も誰もが死を意識せざるを得ない日常だった。
結果として父は学徒動員先の富山県井波の飛行機工場の庭で終戦の玉音放送を聞いた。日本の勝利を信じて疑わなかった皇国少年にとっての大きな挫折であり夢から覚めたような一瞬だった。ただ戦後の物質難の中で父はまた本を読み始めた。多くの少年少女がたどった道である。
こういった飢餓が戦後の日本の復興を支えたのは言うまでもない。戦中の物質的飢餓よりも戦後の飢餓の方が切実だったかもしれない。冗談のように聞こえるだろうが、戦後文学とは〝腹が減った〟だと総括することもできる。切迫した肉体的飢餓があったがそれと同じくらい精神的飢餓も強かった。それが第二の明治維新のように、ほとんど無茶苦茶なほどの急激な知識摂取欲、表現欲となって戦後文学に溢れた。
「最後の挨拶」の記述に明らかだが、人間はその気になれば時間感覚を最低でも五十年くらいは過去に遡らせることができる。たとえば一九六〇年代生まれの人なら簡単に大正末から昭和初年代の社会状況や風俗などを我がことのように感受できるようになる。ただそれには肉体的、精神的に憑依できるある種の依り代が必要だ。リブロの場合父のメモや写真類がその役割を果たしている。
コナン・ドイルの手により、ひとたびはライヘンバッハの滝で殺されたはずのホームズは、やがて生き返ることになる。
「「ホームズ!」と、わたしは叫んだ。「本当に君なのかい。本当に生きていたのかね。あの恐ろしい滝壺から這い上がってこれたなんて!」」
結局、ホームズ物語は、その後も書き続けられることになったのだった。(中略)
ホームズ物語は、約四十年にわたって書き続けられた。
それは、子どもの頃にホームズ物語を楽しんだ読者が、やがて成長し自分自身の子どもがまたおなじ物語を楽しむのを目にするという、二世代にわたる読者を得るに充分なほどの長さであった。
しかしそれも一九二七年の『シャーロック・ホームズの事件簿』の刊行をもって本当の幕となる。
その三年後、ドイル自身もまたこの世から去ることになる。
同
小説は現在のリブロと父たち、父の過去、それにコナン・ドイルの生涯を織り交ぜる形で進む。ベストセラーだったがドイルはホームズモノ執筆に飽き飽きしていた。そこで『最後の事件』を書いて宿敵モリアーティとの闘いの末に、ホームズとモリアーティを滝壺に落として殺してしまった。しかし娯楽の少ない当時、読者はホームズの死に納得しなかった。ドイルは責められ殺害予告まで受ける騒ぎとなった。考えてみれば作家冥利の話である。ただその結果、ドイルはホームズを生き返らせて生涯ホームズモノを書くことになったのだった。
小説ではなぜ父がホームズ物語に魅せられたのか、その理由は明らかにされていない。しかし一人の人間の営みが様々な形で次世代に受け継がれることが示唆されている。リブロの父母は『シャーロック・ホームズ物語』全六十篇を翻訳して刊行した。シャーロック・ホームズ全集である。それは多くの人々に読み継がれることになる。医者や文筆・翻訳家にならなくても、父の娘やその孫たちにも底流のような影響を与えてゆくことになる。
父が死んでから十年が経った。
この頃になってようやくリブロは、父が死んだ、ということを口にできるようになった。それまでは、どうしてもそれを言葉にできなかった。
ごく短いたったひと言なのに。
やがて二十年、三十年すれば、また言葉にできることもあるのだろうか。あるいはやっぱり、死ぬまで言葉にできないこともあるかもしれない、と思う。
けれどいったい、どれだけの言葉を尽くせば、ひとりの人間を、そこに刻まれたものたちを、回復することができるだろう。
ひとりが生まれてからこれまで、見た光景を、聞いた声を、話した言葉を、触れたものたちを。
リブロは時折もう父の顔さえうまく思い出せない。
けれど十年で何もかもを忘れ、何もかもが片付き、全てを時効にするなら、スコットランドヤードもいらないだろう。
同
広義の私小説だが「最後の挨拶」は私小説で一般的な父と子の葛藤を描いた作品ではない。むしろ幸福な父娘関係を描いた小説だ。だからというわけではないが、父娘の関係性の記述が淡泊で少し喰い足りない印象がある。小説では悲しみは溶けてしまうほどの悲しみであるのが望ましいし、幸福や喜びは天に舞い上がるような記述になるのが望ましい。リブロたちの現在、父の過去、ドイルのホームズ物語に重ねているので焦点が拡散してしまっている印象がある。
ただこういう小説があってもいいと思う。この作品が下地になって様々な形でフィクションが生まれてゆくだろうという予感も感じさせる。なによりも他者には関わりのない肉親の終焉記を読んでもらえることは大変な幸せだろう。頑張ってきた文筆家のご褒美のような作品だと思う。
大篠夏彦
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