カウントしたわけではないが、僕が文芸誌時評で取り上げる作家は女性が多いと思う。その理由は単純で男性作家の書いた作品に今ひとつ魅了を感じないからだ。小説に関しては女性作家の時代だな、と思わないこともない。
あらゆる面で男女格差が取り除かれつつある現代だが一方で人間は自己と他者との差異に敏感である。仲がよくても同じ服を着ていただけでなんとなくいたたまれない。差異がなければ人間は平等になり均質化されるわけだが、もしそうなったら人類は滅亡への道をまっしぐらに進むんじゃないかと思う。民俗、宗教、国家、言語も差異だが異なる世界があるからこそ違うエリアの人々の間で新たな認識が生まれる。その最もミニマルな在り方が男女性差だろう。それをトランスする自由はあっていいが、性差そのものは消滅しない。もちろん賃金や社会的地位などのパブリック面は平等が当然である。しかし肉体に基づく内面は違っていて良い。特に小説のような表現の場合、男女性差を露わな差異として取り入れなければ物語は面白くならない。
ちょいと乱暴な言い方になるが男はいつまでも〝男の子〟である。逆もしかりで女性もいつまでも〝女の子〟だ。それが社会的教育のせいだといった議論はさておいて、当面男の子性、女の子性といったものは変わらないだろう。で、男の子性の最たるものはある種の観念過多にあると思う。肉体的敏捷さ、頑強さを恃んでバカをやる。時には周囲の人が呆れるほどのバカをやらかす。そういった跳躍力が男の子の精神世界には根強く存在する。宙に舞い上がるような観念性が垣間見えなければ男の子小説は面白くならない。
しかし現代では男の子が大きな武器としてきた観念性を立てにくい。占い師のような社会学者、政治学者はごまんといて誰もが不確実な未来を予見しようとしている。が、予見が目的化していて確実な未来が見えている人はいない。どう転ぶかわからない現代社会で過去と現代を貫き、未来にも伸びてゆくような観念軸を立てるのはもの凄く難しい。ファッション、お化粧、お料理、おしゃべりといった水のように広がる女の共同体を基盤として、それを相変わらず生物的欲望に基づいて揺るがす男を描く女性作家の方が地に足がついた小説を書きやすいのである。村上龍は『すべての男は消耗品である』という連作本を書いたが、このタイトルがついた本が最初に出たのは一九九三年である。二〇〇〇年紀前後から男の作家にとっての受難期が始まっているように思う。
男の子作家はなんらかの形で社会問題を題材にすることが多い。現代だって社会問題には事欠かない。東日本大震災やコロナ禍は一昔前なら小説家にとって格好の題材だったろう。しかしカミュの『ペスト』がリバイバルすることはあっても現代小説でコロナ禍を中心から射貫いた作品は登場していない。観念軸が立たないのだ。
東日本大震災の後に文芸誌は「震災以降の文学」といった特集を組み、女性よりも男性批評家の方がそれに深く肩入れした。しかし結果は無惨にスベッたと言っていいと思う。フクイチ原発事故に聖書的アポカリプス幻想を重ねて震災以降の変化を予見したわけだが情報化社会がそれを許さなかった。被災で苦しむ人、現場で命がけで働く人、被災で儲ける人といった情報が具体的に飛び交う時代に、表層的政治経済批判はできても人間存在の根幹に迫る観念軸を立てられるわけがない。それぞれの人間の行動には理由がありその詳細が明らかにされるわけだから善と悪といった対立軸さえ立てにくい。しかしやはり、男の子作家の復権は観念軸を模索することでしか得られないのではないかと思う。
「一ノ瀬さんがいなくなりました」、ぼくがそう口にするや、向かいに座る芦澤良子は、「ええ、それはメールでも」と着席したときから相変わらずテーブルに視線を落としたまま、困惑を隠さない声色でささやくように言った。そこで、「その後、一ノ瀬さんからは?」ともっとも訊きたかったことを率直に切り出せば、「いいえ、まったく」と彼女は困惑した声色を崩さず、しかしきっぱりと答えた。
湯浅真尋「導くひと」
湯浅真尋さんは第六十三回群像新人文学賞優秀作受賞者の若手作家である。主人公は楠木(僕)という青年で基本的には彼の視点で語られる。小説冒頭で僕は芦澤良子という女性に会い、一ノ瀬という男の消息を知らないかと訊ねる。物語の焦点は一ノ瀬であり、僕と芦澤が彼と何らかの接触を持っていたことが示唆される。一ノ瀬とは誰か、何者なのかという興味と謎解きで進んでゆく小説である。
「あれもたしか・・・・・・」と芦澤良子は宙を仰いで、「『仕事を辞めました』っていう一ノ瀬さんからのメールがあって、それ自体は見慣れた文面だったんですが、でもそのときはそれで終わらなかったんですよね」と言った。
「というと?」
「なんか、困ってる、って直接そう書いてあったわけではないんですが、このまま東京にいていいのか? みたいな・・・私にむかってというより、自分に問いかけるような感じで」
「それで茉莉さんを紹介したんですか?」
「紹介というか・・・・・・山梨の山奥に移住した友達がいる、みたいなことは、まあ世間話のつもりで伝えたら、思わぬ食いつきというか」
「一ノ瀬さんも移住すると?」
「いえ、そこまでは・・・・・・でも、メールの内容ががらっと変化しました」
「変化?」
「ええ。それまでのひと言返信が嘘みたいに・・・・・・」(中略)
思わぬ話の展開に、ぼくの胸はきゅっと締めつけられるようだったが、それでもなんとか、「知っていたんですね」と口にした。しかしすぐさま、芦澤良子が、それ、を知っていたとしても、なんら不思議ではないことに思いあたるのだった。
同
芦澤と一ノ瀬は繁華街のふぐ屋のアルバイト仲間だった。一回り以上年上の一ノ瀬はほとんど言葉を発しない男だったが深夜バイトなのでそれで支障なかった。芦澤もまたあまり忙しくなく客との接触も最小限になる深夜バイトが気に入っていた。一ノ瀬とは違う理由で世の中を避けるように暮らすようにしていたのである。
バイトを辞めるときにメアドを交換したが、芦澤と一ノ瀬の間に友情や恋愛感情が生じていたわけではまったくない。細々とした短い近況報告のやりとりが続いた。ただ一ノ瀬が何度目かの失業をした際に、芦澤が何気なく山梨の山奥に移住した友人がいるとメールしたときから彼の対応が大きく変わった。一ノ瀬は実際に芦澤の友人、茉莉が住む山奥に実際に引っ越していった。語り手の僕は茉莉が運営するゲストハウスで一ノ瀬と知り合ったのである。
彼の眼は、あまりに澄んでいたのです。あまりになにかをもとめていたのです・・・・・・それはかつて教団で、私がまわりの信者たちに見ていた眼でした。そして私もまた、おなじ眼をしていたはずです。
もちろん楠木君がもとめているものは、信仰と呼びうるものではないでしょう。それでも、あまりに澄み、もとめる眼たちの暴走、そして破局を、私は我が身をもって知っています。だからこそ、私はこのとき、はじめて彼を警戒したのです。(中略)
だからこそ、そんな私が「導くひと」にふさわしいはずがありません。そしてなによりの問題は、彼が「導くひと」をもとめている、ということにあるのです。つまり彼は、かつての「先生」のかわりをもとめているのではないか? いや、「先生」だけではないのかもしれません。彼は「森の共同体」を出ることによって、父を失うことにもなりました。父性の欠如・・・・・・それこそが彼に、「導くひと」をもとめさせてはいないだろうか。
同
茉莉のゲストハウスで僕は一ノ瀬と親しくなったが、本当に腹を割って話し合い相互理解を深めたわけではない。一ノ瀬はやがてゲストハウスも去ることになるが、彼が何者でどういった過去を引きずっているのかは書き置きのように机の上に残された芦澤宛の手紙で明らかにされる。そこには主人公の僕の過去についての記述も含まれている。
まず一ノ瀬の過去だが、彼はオウム真理教の出家信者だった。だから芦澤が何気なく言った山梨という言葉に敏感に反応した。オウムの本拠地が山梨にあったのは言うまでもない。一ノ瀬はすでにオウムを脱会し、教団が行った数々の残虐行為に直接ではないにせよ加担したことを深く恥じている。なぜ自分は教団に入会してしまったのかを考え続けている。
一方主人公の僕は小学四年生から中学三年生の多感な時期に「森の共同体」という閉ざされたコミューンで暮らしていた。大人たちの稼ぐお金は共同財産であり、それだけでなく自分も他者も動植物も平等で自他の境はないと考える集団だった。それを指導していたのが「先生」と呼ばれる人だった。僕は森の共同体に馴染めず母親といっしょにそこを出たが父は共同体に残った。また共同体を出てもそこで暮らした影響は僕の中に根強く残った。
森の共同体はオウムのような宗教集団ではないが、一ノ瀬は僕にかつての自己と同じような危うさを感じた。「彼の眼は、あまりに澄んでいたのです。あまりになにかをもとめていたのです」とある。では何を求めていたのかというと「導くひと」である。それは一種の(超越的)父性だとも表現される。
山梨のゲストハウスで一ノ瀬は僕から、過疎化して活気のない地域の共同体を「導くひと」になって欲しいと依頼された。しかしそれを断り(未必の故意で僕を失望させて)姿をくらましてしまったのだった。宗教とは表現されていないが、僕は、そして一ノ瀬もまた、既存の宗教集団ではないにせよ自らの迷える精神を導いてくれる存在あるいは理念を求める求道的人間である。
いま、ぼくがもとめているのは一ノ瀬恭介の言葉だろうか? あるいは彼自身か? 引っ越したばかりの甲府市内のワンルームマンションでひとり、いまだ殺風景な室内の壁に背をもたせかけながら、ぼくはそっと眼を閉じる。そして――実のところはコピーをとっておいた一ノ瀬恭介の手紙をきつく握りしめ、それでもこれだけは開くまいと波だつ心になんとか言いきかせながら――瞼の裏側で、いまごろ途方に暮れているであろう一ノ瀬恭介の姿を思い描こうとするものの、そこに浮かびあがってくるのは、なぜだかぼく自身の姿なのだ。
同
芦澤良子に一ノ瀬の行方を取材した僕の試みは行き詰まる。僕は山梨のワンルームマンションで自分は何を求めているのかと考える。「一ノ瀬恭介の姿を思い描こうとするものの、そこに浮かびあがってくるのは、なぜだかぼく自身の姿なのだ」とあるように、僕は一人で自己を救う精神的境地を見出さなければならない。一ノ瀬はそのための媒介に過ぎない。
「導くひと」という小説は一ノ瀬の行方を芦澤に取材し追い求めるといういわば有吉佐和子『悪女について』的方法で始まり、一ノ瀬の心中は彼の芦澤宛の手紙で明かされるという漱石『心』的な方法で書かれている。ただ一ノ瀬の行方を追い求めるなら取材は多方面の方が説得力が増す。また一ノ瀬と心の交流を求めているのは芦澤ではなく主人公の僕である。なぜ一ノ瀬が芦澤宛ての手紙を残したのか、その理由は作中に書かれているもののやはり切迫感が薄い。
しかし作家の湯浅さんが男の子的に、現代社会全般であれ個人的欲求としてであれ、ある種の精神的救済を求めているのは確かなようだ。その、言ってみれば愚直な志向は現代では珍しい。「導くひと」の大団円はスタート地点のようなものだろう。観念を立たせる可能性を持った作家であるのだからさらに踏み込んだ小説的試行ができると思う。
大篠夏彦
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