「安井浩司さんの俳句が好きです」という安井ファンがいるとすると、実年齢よりも一世代くらい若い方をイメージしてしまうのは私だけだろうか。ギャラリーの店番をしていても、お越しになられた俳人の皆さんを実年齢よりも若くお見受けした次第である。お話をしている折に本当の年齢を明かされると、思わず「お若く拝見いたしました」と、けっしてお世辞ではない正直な感想を伝えること度々であった。
4年前の2008年に安井浩司特集を組んだ俳句同人誌「豈(あに)」は、いわゆる団塊の世代を中心とした同人誌として、俳壇の若い世代に注目される存在である。結社ではなく同人であるところが昨今の若い世代の嗜好を反映しているが、今回の墨書展に来廊いただいた俳人諸氏のうちの、かなり高い割合が「豈」の関係者だったと思われる。それもそのはずで、「豈」に集う同人の数は優に70名を超える勢いなのである。
「豈」の大所帯を束ねる編集人が大井恒行氏である。氏はかつて、「音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢」という詩的幻想性あふれる句でその名を轟かせた故赤尾兜子に師事し、御自身も前衛性と叙情性が交錯する現代詩のような俳句をお書きになっていらっしゃる。その第1句集『秋ノ歌(トキノウタ)』は1976年11月、氏が27歳のときに刊行されているが、それは黒い本文用紙の左側1ページに1句をそれぞれ3行に分けて墨書した直筆句集で、墨の部分に光を当てながらでないと読むことができない。モダニズム詩を書いた瀧口修造にも、『地球創造説』という黒い紙に黒いインクで印刷された詩集があるが、『秋ノ歌』はさらに限定50部という極めて少部数しか刊行されておらず、今では幻の処女句集となっている。
嗚呼!嗚呼!と井戸に吊され揺れる満月 (『秋ノ歌』より)
漢字表記された感嘆詞と感嘆符の連呼が時代の空気を彷彿とさせる。この激しい感情の発露こそ大井氏の自画像であろう。また、井戸に吊るされてなおも揺れている満月は、逃げ場を奪われたうえに消滅へ向かって欠けていく運命を表し、知ることのできない作者御自身の絶望の深さを象徴している。わずか一行の俳句が一篇の叙情詩にも比肩し得た、いや詩における叙情表現を超越し得た稀有な例である。
墨書展のオープニングレセプションではじめてお会いした大井氏は、こうした激烈なる叙情句から想像していたイメージとはまるで正反対の、柔和で穏やかな好人物でいらっしゃった。私が古書店で見つけた『秋ノ歌』を大切に所蔵していることを告げると、前述のとおり御自身が瀧口の詩集を意識して制作されたことや、詩集の専門出版社書肆山田の鈴木一民氏が刊行のお世話をしてくれたことなどを、終始にこやかな笑みを絶やすことなくお話してくださった。が、話の途中でときおり安井氏の墨書に目をお留めになられるときの鋭い眼光は、安井浩司評論集『海辺のアポリア』や『安井浩司選句集』の編纂委員のトップに名を連ねた敏腕編集者のイメージどおりだった。
大井氏はすでに『文学金魚』を御覧になっていらっしゃったようで、角川「俳句」の時評コンテンツを書いている釈照太についてお聞きになられたりした。思いがけない質問に恐縮した私は、「釈はどちらかというと詩が専門で俳句は初学なもんですから、どうか長い目でみてやってください」と先回りして言い訳すると、「いや、俳句は仲間内で固まりやすいので、外部からの御意見はとても貴重なんです。楽しく読みましたよ」と、包容力に満ちた励ましのお言葉を頂戴した。すぐにでも釈に伝えてやりたいと思った。
大井氏はひととおりギャラリーの様子を写真にお撮りになると、「また来ます」との一言を残して颯爽とギャラリーを後にされた。さわやかな風が吹き過ぎたかのようなその去り際は、氏の第2句集のタイトル『風の銀漢』を思い起こさせるほど印象的だった。そういえば安井氏も散文集『聲前一句』で、師であった永田耕衣の「さよならをいつまで露の頭蓋骨」を取り上げ、「人間の叙情において、さよならこそが最高の形態であるに違いはない。」と書き起こしている。階段を駆け上がっていった大井氏と入れ違うかのように、銀漢(=銀河)を駆け降りてきたかのような風がひと吹き、ギャラリーに掛けられた書軸を揺らしたのだった。
*
来廊俳人諸氏のなかで、私がそのお顔を存じ上げている唯一であろうお方が高原耕治氏であった。どういう面識かというと、高原氏が中心になって2ヶ月に一度開かれている「多行俳句研究会」に、私も初回から参加しているのだ。一句を数行に分けて表記する多行形式俳句は、高原氏が師事した高柳重信の創始によるもので、高原氏が所属する俳句同人誌「未定」は現在、多行形式俳句の専門誌として、多行形式を用いて作句する俳人だけをその同人と認めている。
「未定」といえば、1996年の第70号において「安井浩司特集」を組み、同人内外から集めた29篇の安井論と、24ページに及ぶ「安井浩司に対する十の質問」を収めた全240ページの大冊が、当時の俳壇に大きな驚きをもって迎えられることとなった。いまから16年前の「事件」だが、これだけの質量を誇る「安井浩司特集」は、その後に類を見ることはなかった。そしてその編集人が誰あろう高原耕治氏なのであった。
水を切りうぐいは天の旅に出て (『氾人』所収)
山や川されど原詩の鱒いずこ (『四大にあらず』所収)
掲出の2句は今回の墨書展で高原氏がお買い求めになられた書軸作品である。私は高原氏にこの句をお選びになった理由をあえて問わなかった。「説明しないと分からんかなあ・・・あなたはどう思うの?」と逆に切り返されるのを恐れたからである。だが、高原氏は満足そうに軸を眺めると一言だけ呟くようにおっしゃった。「『原詩』という言葉がねえ・・・きいてるんだよなあ」と。多行俳句研究会では、こうした高原氏一流の発言によって煙に巻かれてしまうことが度々だったので、私はすかさず「『水を切り』の『切り』ってところが高原さん好みですよね」と、とぼけて逃げた。
私が言ったところの「切り」とは刃物で「斬る」という意味で、なぜそれが高原氏好みかというとその理由は二つある。一つは以前いただいた安井氏の手紙に書かれていた、「酩酊こそ『俳句評論』の伝統にて、小生なんか未だ赤児クラス、大岡君なぞすさまじかった。その上が腕力を振るうクラスにて、ケンカ重信とかカラテ郁乎とよばれたものです」という、かつて俳句革新の拠点だった「俳句評論」の、知られざる酒宴での口論を指した一節がとてもユーモラスで印象に残り、同人同士の切磋琢磨という真剣勝負と、高原氏の熱血漢イメージとを半ば強引に結び付けたのだった。
もう一つの理由は前述した「未定」の安井浩司特集号にある。「文学金魚」の安井キャンペーンコンテンツで俳句時評ライターの釈が書いているように、この特集号に高原氏がお書きになられた後記は名文としての評価が極めて高い。とくに私の印象に残っている部分を少し長いが引用する。
(同人誌「未定」は)俳句表現の可能性をあれやこれやと模索している、言ってみれば、師範無用の俳句〈実験道場〉のようなものである。(略)その〈道場〉において、竹刀や木刀で打ち合っている者もいれば、最近、入門し、一人で素振りに励んでいる者もいる。また、鎖鎌や槍や薙刀の修練に余念の無い者もいる。さて、その〈実験道場〉の窓から、じっと中の様子を窺い、不気味な視線を投げ掛けている存在、すでに存分に修練を積み、いましがた深山から下り来たったばかりの、深編み笠をかぶった、一本差しの、凄腕を思わせるマタギのような存在、それが安井浩司という俳人であった。
(「未定」第70号後記より)
俳句的営為を武士の修練にたとえたこの一文によって、「高原耕治=剣豪」というイメージが心に残り、いかにも高原氏好みの言葉として「切り(斬り)」が浮かんだ次第である。
高原氏にはオープニングレセプションでのスピーチをお願いしたのだが、詳細は本サイトの墨書展コンテンツに採録してあるのでそちらを御覧いただくとして、スピーチのなかで氏は、「私にとりましては、富士山が富士山であるように高柳重信は高柳重信であり、富澤赤黄男は富澤赤黄男である。それは動きません。しかし安井さんが俳句の構造を提唱なさったことは大変な業績でございまして、また新しい富士山が一つ増えたような気がします。」と安井氏の功績を称えられた。安井浩司を語るのに重信と赤黄男が並んで出てくるあたりが、俳句革新の継承者でいらっしゃる高原氏らしいところだと、私はひとりで納得し手の平が腫れるほどの拍手を贈った。
*
今年は富沢赤黄男と西東三鬼の没後50年とのことで、新興俳句を代表する両巨頭の回顧イベントが開かれるという。聞くところによると大井恒行氏と高原耕治氏のお二人とともに、前回の来廊俳人記に御登場いただいた高橋龍氏が発起人として、三人お揃いでイベントの運営に関わっていらっしゃるという。懇話会と懇親会の二部構成になる御予定とのことで、どんなお話が飛び交うのか今から楽しみだ。若い世代を育てていかなければならないのは俳句界とて例外ではないが、たとえ世代が入れ替わったとしても、常に俳句を革新しようという情熱はマグマのごとく俳人の内奥にたぎっているようである。イベントの成功を陰ながら祈りたい。
田沼泰彦
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■