今月号は李琴峰さんの「彼岸花が咲く島」が巻頭である。李さんは台湾国籍で日本在住の小説家。「彼岸花が咲く島」で第一六五回芥川賞を受賞なさった。おめでとうございます。作家にとって他者から仕事を評価されることくらい嬉しいことはないだろう。ただ芥川賞は大変な権威で受賞は栄誉だが、この時評では作品本位に批評してゆきます。
多くの人が芥川賞は文壇全体の総意で作品をオーソライズして、世の中に推奨する賞だと考えている。この通念は確固としたものだから僕が何を言っても揺るがないだろうが、芥川賞は実質的に文藝春秋社文學界の独占コンテンツである。それが確かに文壇全体を代表する純文学賞として機能してきた時期はある。しかしだんだん怪しくなっている。
受賞に水を差すようで大変申し訳ないが、李さんの「彼岸花が咲く島」受賞は以前からの文學界の外国人作家好み、最近のLGBT推しの姿勢から見ればなるほどねと思う。ただこの作品が純文学界全体を代表する作品なのかと言えば首を傾げる。文藝春秋社文學界独占コンテンツとしての芥川賞ならしっくり来る。どんな賞にもメディアごとの選考傾向はあり芥川賞も例外ではない。
李さんについては以前「五つ数えれば三日月が」を取り上げた。ちょっと乱暴にストーリーをまとめると、レズビアンの女性が学生時代のヘテロの女友だちに恋心を告白しようとして、告白し切れなかったまでの心の動きを描いた私小説である。今回の「彼岸花が咲く島」は「五つ数えれば」とは採用した小説フレームがまったく違う。意欲作だと思う。ただ結論は同じ。突き抜けていない。そこが一番の問題だろう。
恐る恐る近づき、游嫏は少女の傍でしゃがみ、彼女を一頻り観察した。あまり陽射しを知らないような青白い肌はとてもきめ細かく柔らかそうで、顔についている波の雫は涙のように見えた。顔には幾筋かの切り傷がついていて痛々しい赤を呈しており、恐らく波に打ち上げられた時に鋭い石で切れたものと思われるが、それらの傷は少女の美しさを損ねるどころか、逆にいじらしさを際立たせているい。少女に見惚れた游嫏は何かを考える前にほぼ衝動的に自分の顔を近付け、少女と唇を重ねた。目を閉じると世界の全てが遠のき、波の音だけが遠くで木霊する。冷たく柔らかい唇からは、海水の塩っぽい味がした。
李琴峰「彼岸花が咲く島」
「彼岸花が咲く島」は孤島に住む游嫏という女性が、浜辺に打ち上げられた美少女を発見するところから始まる。島で漂流者が打ち上げられることはまずない。游嫏は少女は「ニライカナイ」から来たのではないかと考える。ニライカナイという言葉から游嫏が住む島が沖縄の離島を舞台にしていることがわかる。南方神話伝承で浄土(あの世)あるいは楽土(理想世界)を指す。游嫏は当然少女を家に引き取って看病する。少女は島に打ち上げられる前の記憶を喪失していて名前も思い出せないので、「宇美」と呼ばれることになった。
小説は三人称多視点で書かれている。游嫏と宇美の心理描写が多いが、その他の登場人物の心理も必要に応じて叙述される。つまり「彼岸花が咲く島」は一人の主人公の心理を描き出す小説ではない。游嫏と宇美が住む島の世界を俯瞰的に描く小説形式である。いわば島が主人公である。当然、島は特殊な世界だ。パラレルワールドだと言っていい。
記憶を取り戻せないまま島で暮らし始めた宇美は、游嫏たちが話している言葉が自分の言葉と違うことに気づく。しかしまったく言葉が通じない外国語ではない。ところどころ理解できる。それを游嫏に尋ねると、游嫏たちの話す言葉は「ニホン語」なのだという。宇美には自分が話す言葉は「ひのもとことば」と呼ばれていたといううっすらとした記憶がある。また游嫏は島のリーダーで祭祀と政治を行う「ノロ」(奄美あたりに実在したシャーマンの女性)になるために「女語」を習っているのだという。島には男もいるが、女しか女語を習うことができず、ノロになれるのも女だけなのだという。
島には日常言語としての「ニホン語」があり、シャーマン兼為政者だけが使うことを許された「女語」がある。そして宇美が知っている言葉は、ニホン語や女語とは微妙に違う「ひのもとことば」である。小説は当然、これら三つの言葉が生じた理由、その謎解きへと向かう。
「私はノロになる。そして〈島〉の歴史を継承する」
游嫏の決意に満ちた顔を、拓慈は愕然としながら暫く眺めた。そしてふっと軽く笑いを零した。
「何当たり前のことを言ってるんだ。そうしたければ、すればいいさ。お前にはできる」
「ノロになって、〈島〉の規則を変えるの。男でもノロになれるような規則にする。そして受け継いだ歴史を、拓慈にも教えるね」
不意打ちを食らったように、拓慈は口をぽかんと開けたまま、大きな両目をぱちぱちさせながら游嫏をじっと見つめた。(中略)
「そうしてもらえると、とてもありがたい」
拓慈はぼそっと呟いた。暫く間を置いてから、言い直した。
「いや、宜しく頼みます」
ほっとしたように、宇美は游嫏と顔を見合わせ、笑顔を浮かべ合った。地べたに座り込んだ拓慈を引っ張って立ち上がらせ、共通の秘密を胸に秘めた三人は長い影を引き摺りながら帰途に就いた。
同
游嫏には同年代の拓慈という男友だちがいて、宇美とも仲良くなる。島は一種のアルカディアで人々は仲良く暮らしており、衣食住に困っている人もいない。人間関係のトラブルも少ない。皆で助け合っているのだ。男も女も働き者で、拓慈は島の男たちがそうするように職能を身につける訓練を受けており、屠殺業に従事している。
ただ拓慈は男なのにノロになりたいと強く願っている。そのため独学で女語を学んでいるが、性別・男の拓慈はノロになれない。拓慈の願いと悩みを知った游嫏は、自分がノロになって拓慈に島の歴史を教えてあげよう、それだけでなく、女しかノロになれない制度を変えて拓慈もノロになれるようにすると言ったのだった。
拓慈がノロに憧れるのは島の秘密が知りたいからである。女語を操る女性のノロしか島の歴史を継承できないということは、一部の為政者しか知ってはいけない秘密の歴史が確実に存在することを示している。また游嫏は宇美はニライカナイから漂着したのではないかと考えたが、ニライカナイは神話上の空想の土地ではない。島は巨大な船を持っており、ノロたちが実際にニライカナイに行って島の特産物と交換で様々な物を運んでくる。島には車も走っておりガソリンもあり工場もある。コンクリートなどの建材も必要だ。しかしそれらは島では作れない。すべてニライカナイから運ばれてくる。島の人々はそれをノロを使者として入手できるニライカライの恩恵だと考えている。島は古代社会のようだが現代社会の延長上にある。
島に日常語の「ニホン語」と為政者の「女語」があり、漂着した宇美が「ひのもとことば」を話すことから、この作品は最初から游嫏たちが暮らす島が現実世界とは完全に異なるパラレルワールドではないことを強く示唆している。むしろ現実世界と地続きであり、かつ現実世界とは切り離された特殊な世界だと容易に想像がつく。つまり異界としての島の描き方は現実世界への批判としてあり、現実世界の何をどう批判しているのを明らかにしなければこの小説は落とし所を見出せない構造になっている。
歴史の話をする前に、まずはっきりさせんといかんのだが、〈ニライカナイ〉というのはこの世に存在しない。ええ、この世だけでなく、死んだ後の世界にも存在しないね。(中略)
我々の先祖は、この〈島〉よりずっと北の方にあった、〈ニホン〉という何百何千もの島で構成される国に住んでいた。ある年、〈ニホン〉で流行り病が蔓延り出して、たくさんの人の命を奪った。十人に一人は死んだかね。(中略)
おまえらはびっくりするかもしれんが、あん時、偉い人たちはほどんど男だった。国の方針を決めて、民衆を導く偉い人たちは、ほとんど男だったんだ。それだけじゃあない。歴史の担い手もまた男だったんだ。歴史を作る人も、全て男だった。男たちは野蛮だったんでね、繰り返し繰り返し、醜い争いをし、戦をやった。流行り病で死んだ人なんざより、男たちが殺した人の方がよっぽど多かったかしらね。(後略)
同
島に定住することになった宇美は游嫏といっしょに女語を学び、ノロの試験に合格する。たくさんの成人前の女性が女語を学んでいたが、ノロの試験に合格したのは宇美と游嫏だけだった。最高祭祀者で最高為政者の大ノロは宇美に島の歴史を、その秘密を事細かに説明する。詳細は実際に作品を読んでいただきたいが、引用部分からでもだいたいの察しがつくだろう。島は「ニホン」の圧政から逃れ、男たちの暴力的世界から逃れてきた人々の避難所である。
「島民たちは性別に関係なく自由に恋愛をし、女性は妊娠したら産むかどうかは自分で選べる。子供が生まれたら学校に預け、〈島〉全体で育てる」と作品にはフェミニスト的な女性中心主義と同時に、作家が理想とする既存社会とは異なる社会制度が描かれている。
それ自体はまったく問題ない。小説は作家の思想を表現する小さな説でもあり、大文字の社会批判から倫理的には問題が多い極めてプライベートな嗜好に至るまでなんでも表現できる。ただなぜそうなるのか、なぜどうしようもなく何事かに惹かれてしまうのか、執着してしまうのかを説得力ある形で読者に伝達できなければ作品は力を持たない。
「もし男がまた歴史を握って、昔みたいに女や子供を虐げることになったらどうするの?」
「その時はその時に考えればいい」
「もし〈ひのもとぐに〉が本当に攻めてきたら、どうするの?」
「その時はその時に考えればいい」
呆れるように、宇美は苦笑しながらゆっくり頭を振った。
「游嫏はもう少し先のことも考えた方がいいんじゃないかな」
「考えてるよ、先のこと」(中略)
「何考えてるの?」
「三年後のことを考えてるの」(中略)
「三年後、私と宇美は一緒に大ノロの骨を洗って、祈りを捧げて、海へ流すの。その時、私たちは拓慈と仲が良くて、三人で一つの家で暮らしてる。子供を引き取って育てる。私はたまに〈ニライカナイ〉へ渡り、〈島〉のために貿易をする。〈島〉の人たちは今と変わらない平穏な生活を過ごしている。そんな中で、私たちはゆっくり年を取っていく」
思ったより考えている、と宇美は密かに感心したが、口にはしなかった。海を眺めている游嫏の横顔は夕陽に赤く染まっていて、見ているとどことなく寂しかった。
同
島の歴史とニライカナイの秘密を知り、島が見かけほど安泰ではなく強大なニホンやチュウゴク、タイワンの間に浮かぶかりそめの楽園でしかないことを知っても、游嫏は何か起こったら「その時はその時に考えればいい」と言う。彼女が考えているのは三年先だ。游嫏と宇美と拓慈は子供を育てながら一つ家で仲良く暮らしている。三年くらい先の未来ならそんな幸福が予想できる。しかしこれでは弱い、誰もがそう感じるのではなかろうか。
作品冒頭で游嫏は浜辺に打ち上げられた宇美を見て、やむにやまれぬ衝動に駆られてキスした。「目を閉じると世界の全てが遠のき、波の音だけが遠くで木霊する」とある。その「世界の全てが遠の」くような強い衝動、自分でもどうしようもない衝動が作者に異界としての島を造形させたのだろう。
しかし「彼岸花が咲く島」という二六〇枚の小説は、作品末尾で冒頭に戻ってしまっている。謎は解き明かされ批判は発せられたが世界は何も変わっていない。島は元のままでそのシステムも変わっていない。宇美はレズビアンなのでヒノモトを追放されたと示唆されているが、同じく恐らくレズビアンとして造形されているらしい游嫏との関係も曖昧でなし崩し的だ。これでは恋心を告白しようとしてできなかった「五つ数えれば」の繰り返しだ。むしろ対立と意思疎通が遠のいたのではなかろうか。
もっと突き抜けた作品が読みたい。非常に、非常に言いにくいが、この作品が日本で一番有名な文学賞である芥川賞を受賞したのが作家にとって幸せなのかどうか、わからないところがある。権威ある賞の〝権威〟を額面通りに受け取り、これでいいのだ、全面的に認められたのだと思ってしまえば、この先の作家の道行きが苦しくなると思う。
大篠夏彦
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