今月から文學界、新潮、群像、すばる、文藝の、いわゆる純文学五誌の時評を行っていきます。仕事が立て込んでいるので時間が取りにくいが、半年一年くらいかけてあまりタイムラグのないペースを作ってゆきたい。
文藝は文芸五誌の中で唯一の季刊誌である。年十二冊刊行の文芸誌に比べると年四冊はハンディのようにも思われる。しかしそうでもない。どんなメディアでも、特に歴史が長くなればなるほど様々なしがらみを抱えている。
純文学作家にはかつてほど活躍の場がなく、どの文芸誌も掲載待ち作家の長蛇の列ができている。言いにくいが月刊文芸誌は、それほど本が売れなくても文壇内有名人ならおろそかにできないところがある。新作があれば優先的に原稿を掲載し、すぐには小説を掲載できない作家にはエッセイや書評、特集原稿などを書いてもらってガス抜きする必要も出る。目次で作家名を見ると古色蒼然としているなと感じることも多い。
もちろん文藝も長い歴史を持つ文芸誌だからしがらみはあるだろう。しかしそんなしがらみをバッサリ切り落としているようなところがある。有名作家の作品も掲載されているがメインは若手の新人作家だ。もちろん昨今の純文学界の閉塞感を反映して芸能人や歌人、作詞家など他ジャンルからの参入も積極的に行っている。しかし読めば小説プロパーの作家の方がレベルが高いと感じる。編集部のチョイスが的確なのだろう。文芸誌独特のカビ臭い匂いがせず、攻めているフレッシュさがある。特集は時々結論を急ぎ過ぎだよねと感じることもあるが、可もなく不可もない特集よりはいい。思い切って何事かをはっきり提示しなければなんの印象にも残らないおざなり特集になってしまう。
読み切り中編小説中心なのもいいと思う。連載も一本読み切り連作が多く続きモノは少ない。単行本として刊行されるだろう中編小説の集積になっているわけで、雑誌だがお得な小説本という感じである。文藝の路線はうまくいっている。
底が見えた気がした。これまで感じたことのない膨満感に、ナイフとフォークを手にしたまま、私は一瞬フリーズする。口内に溜まった肉の脂とも唾液ともつかないものを喉仏が強く波打つほど力を込めて飲み込むと、喉の筋肉が萎縮し、気管が細くしまる感覚があった。頭が真っ白になり、急に周囲の音という音が明瞭に鼓膜に響く。靴が地面を擦る音、ナイフとフォークが皿を滑る金属音、唾や肉の脂が皿やテーブルに飛散する音、口の粘膜に肉が触れる音、歯が肉を裂く音、舌が唇を舐める音、咀嚼された肉が喉を通る音、それぞれの身体から発せられる食べ物を分解する音――。本来は拾わないはずの微細な音までもが鼓膜を揺する。横一列に並び、同じように食べ物を口に運び、同じように皿を重ねる――。その一連の動作をひたすら繰り返すことで生まれる連帯感がとけ、調和が失われ、保たれていた均衡がゆっくりと崩壊する。「音」しか捉えきれなくなる。自分の座高にも届かない高さに積み上げた皿の層が、圧倒的な存在感を持って迫ってくる。
山下紘加「エラー」
山下紘加さんは第五十二回文藝賞(二〇一五年)受賞作家である。一九九四年生まれだからまだ二十七歳だ。文藝に発表した「ドール」「クロス」「エラー」三作すべてが版元の河出書房新社から出版されている。河出が強力に推す作家であり、また実際力のある作家である。
「エラー」の主人公は杉野一果という二十九歳の女性フードファイター。フードファイターになる前はグラビアアイドルやレースクイーンとして活動していた。しかしそれはアルバイト感覚の仕事で、それなりに美形だが芸能人になりたいという欲望は薄い。フードファイターになったのもテレビに出たかったからではない。前々から大食いは得意だという自覚はあり、それなら一度試してみようと大盛り料理を食べ切ったら懸賞が出るお店に出掛けてゆき、見事懸賞を獲得した。そこで大食い番組の素人参加者を探していたテレビプロデューサーにスカウトされたのだった。一果は「真王」という大食い番組に出るようになり、めきめきと頭角を現して大食い女王になった。
ただそんな一果だから、大食い女王になって顔と名前がそれなりに世間に知られても、それを足がかりにして芸能人になろうとはしない。一果が期せずして見つけた自分の特技――大食いに対する姿勢は倫理的だ。「物心ついた時から自然と根付いている「出された料理はきちんと食べきらなくてはいけない」というモラルの肥大化が焦燥感に拍車をかけていた。倫理観を持ちながら、好きなだけ食べていい状態、食べ物を差し出される状態は何か禁忌でも冒しているようで、ハイになる」とある。では一果は大食いで禁忌を冒すような強い刺激を、高揚感を得たいのかと言えばそうとも言えない。
一果が大食い女王になる前からテレビで大食い番組は放送されていた。それを見た一果は「食に対して貪欲であることは、あたかも性に対してあけっぴろげであるような仄暗い卑しさを内包している、そしてそれを見世物のように人前で披露する番組に対して微かな蔑みと愉楽を抱き、皮肉混じりに鑑賞していた」のだった。しばしば食とセックスには強い繋がりがあると言われる。しかし一果にはそれもない。一果はフードファイターはアスリートだと考える。「極めて理性的でプロフェッショナルな職業」なのだ。
ただ一果は年に二回開催される大食番組「真王」に出演しているだけで、女王になっても賞金で生活できているわけではない。たまにオファーがある他のテレビ番組からの誘いにも消極的だ。恋人の亮介と同棲して自分はスーパーでアルバイトしている。アルバイト代は大食い訓練のための食材費に消えるので日常生活は亮介に頼りっきりだ。では彼女の自分はアスリートであり、フードファイターは職業だという自覚はどこに向かっているのだろうか。
「底が見えた気がした。」――小説冒頭のこの言葉に「エラー」という小説の主題がはっきり表現されている。一果は自分の〝底が見たい〟。この欲望は有名になりたいという社会的欲望や肉体的快楽を超えている。むしろ求道的で自己超越的な不可能への欲望だ。一果は「極めて理性的でプロフェッショナル」に狂っている。
山場を越えたと感じたのは、胃袋に余裕が生まれたからではなかった。身体の訴えや脳の指令に忠実であろうとする苦しさに支配される。私は内側の悲鳴に耳を塞ぎ、大食いを阻む思考や感傷から逃れ続けた。身体の抵抗にさらに抵抗するようにラーメンを取り込み、気がつけばその摩擦によって感度を失っていた。
司会者のアナウンスが耳に届いたが、食べるのをやめられなかった。名前を呼ばれた瞬間、手が震え、握っていた箸が足元に落下する。箸を拾おうとすると、「そのままでいいですよ。こちらにどうぞ」と司会者はスタッフが用意した簡易的な壇上へと私を誘導する。席を立ち、独特の浮遊感を覚えながら、一歩、また一歩と壇上に向かって進む。歩きながら、可笑しくて、うまく笑いたいのに表情にならない。力が入らないせいだと思った。顔の筋肉が思うように動かせない。うまく笑えないことが歯がゆくて、でもやはり可笑しくて、よろめきながら歩みを進め、途中、何かにぶつかった。ぶつかったことがまた可笑しくて、ふつふつと笑いが込み上げる。何か掴まるものが欲しかった。
同
一果は五連覇していた大食い女王の座を、二人の子持ちの水島薫という中年女性に奪われてしまう。言葉少なで表情も乏しい女性だ。なのでテレビらしく「鉄仮面・水島」というニックネームで呼ばれている。一果よりもずっとスター性は少ないのだが、「真王」はやはり大食い女王を決める番組である。インタビューで勝った喜びを真っ先に「息子ふたりに」伝えたいなどと言ったことから、その意外に温かみのある人間性が急に注目されるようになった。
一果は当然のことながら焦る。ただし一果は水島を嫉妬してライバル心を燃やしたりしない。負けたこと、自分の「底が見えた」ことに焦る。ここまでの人間だったのか、このくらいしかできないのか、ということである。
一果は次回の「真王」で水島にリベンジを果たす。豚骨ラーメンを食べまくり再び女王の座に返り咲いた。しかし勝利の喜びは薄い。「大食いを阻む思考や感傷から逃れ続けた」とあるように、一果は自らのアイデンティティである大食いの、フードファイターという行為の本質を掴めていない。勝利者として呼ばれて立ち上がり歩き始め、一果は「可笑しくて、うまく笑いたいのに表情にならない」と思う。この笑いは勝者の笑いではない。自嘲だ。このあと、一果は勝利者のための壇上で昏倒する。その美しい叙述は実際に作品をお読みになってお楽しみください。
少し身も蓋もないことを言うと、一果のフード〝ファイト〟がどのような結末を迎えるのかは、数ページ小説を読めば予想がつく。小説にはなるほどいろいろな仕掛けがほどこされている。大食い自慢たちの真剣勝負の場であるはずの「真王」にエンタメ要素を求め、ビジュアル的に目立つ女の子にインチキをさせ予選通過させるテレビプロデューサーの仁科、一果の大学の同級生で、どんなことをしても芸能界で活躍したくて「真王」に挑戦する莉子、そしてライバルの水島ら多様な人間が登場する。
しかし一果は彼らと本質的な交流を持たない。一果の視線は常に自己の内面に注がれている。そして自己の限界を見極めるのではなく突破し越えようと焦る。だがどこかでそれは不可能だとわかっている。その意味で「エラー」はそのタイトル通り、必敗の物語である。一果は冷静に理性的に破滅へとひた走る。「エラー」は絶望小説である。にも関わらず一気に読ませる力があり、彼女の絶望にはある種の爽快感がある。
なぜ自己の限界を超えようとするのか、そこに何の意味があるのかは作家自身にもよくわからないだろう。しかしそれはこの作家の肉体に根ざしたテーマであり思想である。だから、フードファイターについて取材してお書きになったのだろうが、それを完全に内面化して表現している。非常に高いリアリティがある。純文学の書き方のテニオハをなぞった純文学モドキではない。〝純〟文学と呼ぶにふさわしい作品だ。
「どうしていつも大会の後に同じメニューを作るの?」
「一果に元気になってほしいからだよ。後は、負けた理由を探るための復習の意味も込めて」(中略)
気がつくと、小籠包を亮介の顔に投げつけていた。亮介が声をあげて頬を抑え、小さく居竦まる。私は亮介を心配するより先に、ぶつけてフローリングに落ちた小籠包を拾い上げて食べた。顔をあげると、亮介は頬を押さえたまま、まだ何か言おうと唇を動かす。もう何も聞きたくなかった。皿に盛られた小籠包を摑み、亮介の開いた口に強引に押し込む。亮介が喉を詰まらせ、小籠包を吐き出す。熱い肉汁が私の頬や腕やパジャマにも飛び散った。
同
主人公の一果が唯一濃厚な交流を持つのは恋人の亮介だけである。小籠包の大食いだった予選会で三位と、一果にとっては惨敗になった次の日、亮介は家で小籠包を作った。彼はそれは一果を元気にするため、敗因を研究するためだと言った。しかし一果は亮介に熱い小籠包を投げつけ口にねじ込む。予選で負けたフラストレーションからではない。亮介に苛立っている。
亮介は優しい青年で一果のよき理解者である。生活を支えてくれてもいる。しかし一果とわかり合っているとは言えない。「亮介は、互いの主張によって意見がぶつかりそうになる時、会話が深刻になりそうな時、すばやくそれを回避する。(中略)彼は同時に、自分が理解できない物事に直面しても突き詰めて考えずに踏みとどまる。(中略)本音でぶつからない分、付き合いは長くても互いに心の底からわかり合っているとは言い難い」とある。一果は突き詰めずにはいられない女性である。
小説には一〇〇~一五〇枚の壁がある。一五〇枚くらいの小説は中編小説と呼ばれるが、この枚数なら一つのテーマで一直線に押し通すことができる。しかし二〇〇枚、三〇〇枚になると中編小説のやり方は通用しない。他者との関わりを突き詰めなければ濃厚で説得力のある物語にはならない。
作家が抱えている絶望は自己の内面を探っているだけでは明らかにならない瞬間が来るだろう。中編では限界が来るということでもある。自己の内面を出てそれを相対化するためには切実な他者が必要だ。亮介のような優しく物わかりのいい他者ではなく、自己を傷つけ切り刻むような残酷な他者である。ただそんなことは作家はもうわかっておられるだろう。この作家の主題は肉体に根ざした強固なものなのだから。
大篠夏彦
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