年が明けた。しかし文学の世界は相変わらずである。よいことでもあるし、もちろんそうでないことでもある。十年一日。本来的には文学とは、そういうものであることは確かだ。十年くらいで何か本質が変わってたまるものか。文学とは人間の本質を追求するものであって、人は驚くほど変わらない。しかし状況は変化する。状況の変化に目を奪われがちなのも、人の変わらなさだ。
状況の変化を追うのがジャーナリズムの使命なら、たとえ文芸誌であれ、十年一日というのはよろしくはない。もちろん変化を反映しようとはしている。ただそれが空回りしているだけだ。この激しい変化の時代に、どうすればこんなに変化を感じさせないでいられるのか、逆に考えてしまう。グラビアを付けたり、芸能人に書かせたりしても、根っこのところがガチで固まっている。
すなわちそれが文学的価値の存在への信仰、というものか、とも思う。が、文学的価値を信じていなければ、雑誌そのものが成り立たない。ページがばらばらになって、紙切れが散逸するイメージだ。文芸誌のページを束ねているのは、文学的価値への信仰の共有以外の何ものでもない。それが変わらないから十年一日、というわけではない。変わるべき表層を追いかけるのがジャーナリズムだ。
すなわち文学的価値の不変を前提として、表層の変化がある。表層が変化して見えない理由は、文学的価値の不変にはない。むしろ文学的価値が揺らいでいるがゆえに、表層が思い切って変われないのだ。不変の文学的価値が見い出せなくなっている、その代わりに置かれた文学的なるもののイメージが、あまりに貧しく愚かしければ、それは変化に耐えられない。変化できないことに開き直るしかない。
田村文「極私的平成文学遍歴――ベスト29付」は、文学というもののここでの狭さに驚く。もちろんベストのラインナップを選定する、といった作業は「極私的」なものであっていい。むしろ公的な立場の選定といったもこそ眉唾ではないか、と思われる昨今だ。それもまた文学的価値が揺らいでいるからか。しかしそうだとしても、文壇的コモンセンスの存在を疑う程度には、文学的価値は本質を露わにしつつある。
ここに掲載された「平成のベスト29」は、誰のものであれ文壇的コモンセンスから一歩も出ていない。前提とされた文壇的コモンセンスのなかから「極私的」な好みを切り出した、というような印象だ。しかし我々が引っかかるのはその「極私的」ではなく、むしろ「平成の」である。平成の文学というのは、こんなに貧しい光景だったのか、ということにまず愕然としてしまう。
激動の時代である。文学的には過渡期かもしれない。が、だからといって貧しい、というのはどういうことだろう。だからこれは「極私的」であって、と選者は言うだろうか。逆である。「極私的」であるはずのものが、なぜこれほど貧しい光景なのか。わからないのはそっちだ。我々はいくらでも豊かに、自在になることが許されている存在ではないか。何かに縛られていないかぎり。
平成という時代の輪郭を映し、出来事とそれによるエモーションを彷彿とさせるべきラインナップが文壇的コモンセンスのなかでしか選定し得ないのは、何が何を縛っているのだろうか。どうしてもマンガやYouTubeも選べ、と言っているのではなく、ただ無意識的に縛られた手足が、今度は文学の定義を縛り、その本質を文壇的コモンセンスなるものにすり替えようとしている。
谷輪洋一
■ 金魚屋の本 ■