円形彫文白釉ビザンティン陶器(著者蔵)
口径二二・六×高四・一センチ
二箇所欠けたり割れたりした箇所を修復してあるが、状態のいいビザンティン陶器を買ったのでちょっと嬉しいのです。ビザンティンは言うまでもなく東ローマ帝国のこと。一四五三年、和暦で言うと室町時代の享徳二年にオスマントルコによって滅ぼされた。現在のトルコ共和国はほぼ昔のビザンティン帝国の領土に重なる。
ビザンティン陶器はこれで四つ目である。全部お皿で口径二十センチちょっと。ビザンティンではこのくらいの大きさが標準だったようだ。日本式に言うと七寸皿ということになる。使い勝手の良いお皿のサイズは世界共通ということなのでしょうね。
すごく頑張ったわけではないのに僕の元にビザンティン陶器が四枚あるのはそんなに値段が高くないからである。一番安いモノは数千円で買った記憶がある。西洋骨董専門の骨董屋には出入りしていないので相場はわからないが、高くても十万円は越えないんじゃないかな。あまりポピュラーではないので骨董業界では産地と時代がわからない〝謎モノ〟扱いになることがある。だから安く買えるたりする。
ついビザンティン陶器を買ってしまうのは、前にも書いたがやはりロマンを感じるからである(第55回)。地上から消え去ってしまった帝国はいたく想像力を掻き立てる。十七世紀頃のスペイン陶器やタイルが好きなのもそのせいで、イベリア半島は長い間ムスリム王国の支配下にあった(スペイン側からすれば占領状態ですね)。最後のイスラーム王朝グラナダ王国が亡びてスペイン人悲願の国土回復が完成したのである(一四九二年)。
ただ十七世紀くらいまでスペインの建築や陶磁器にはイスラーム文化の色濃い影響が残っている。しかしスペインの博物館に行くとイスラーム時代の遺物はほとんど先史時代の扱いである。この時代の陶磁器の研究も盛んではないようだ。それがまた面白い。スペイン芸術はグレコ、ベラスケスの宮廷文化から始まると言いたげな展示を見ていると、これはこれでスペイン人の精神性が見えてくる。一方でグラナダ王国は無血開城でスペイン軍に屈したのでアルハンブラ宮殿は当時のまま残った。スペイン人はイスラーム時代をなかったことにはしなかったわけで、これはこれで偉い。アルハンブラの中庭に立つとやはり遠い目になってしまいますねぇ。
ビザンティンに惹きつけられるもう一つの理由に正教がある。キリスト教の宗派は言い出せば無数にあるが、大別すれば正教、カトリック、プロテスタントである。このうち正教が最も古い。ギリシャは言うまでもなく、ビザンティン帝国の影響でブルガリア、ルーマニア、ハンガリー、それにロシアなど東ヨーロッパの国々は正教になった。ビザンティンが亡びると東ヨーロッパの国々は自分たちこそ最も古く由緒正しい正教の担い手だと意識するようになった。
日本では東京神田のニコライ堂が正教の教会である。幕末に函館に来航したロシアのニコライ・カサートキンさんという偉いお坊さんがほぼ一人で建てた。関東大震災で被災したがニコライさんの後を継いだセルギイ大主教の手で再興された。今は重要文化財指定を受けている。大学がお茶の水にあったので僕は学生時代に何度かニコライ堂に行った。聖橋を渡ってすぐのところにある。もちろん正教徒ではないので入り口からちょっと中を覗くだけである。古い建物のせいか独特の迫力がある。
友人知人の結婚式などでカトリックやプロテスタントの教会に行ったことがあるが、ニコライ堂の印象はそれとはだいぶ違う。薄暗い中に金箔などで装飾したイコン類がうっすらと浮かび上がっている。お香の匂いも強い。日本のお寺に近い印象だ。ヨーロッパ的な西よりも東を感じさせるのである。
ニコライ堂(正式名称は東京復活大聖堂)
日本の詩人では鷲巢繁男さんが正教徒だった。洗礼名はダニールで、たまにダニール・ワシリースキーと称しておられた。それなら僕が正教徒になったらツルヤマスキー・ユージノフかなと思ったことがある。スラブ系の名前でそんなのがあるかどうか知りませんけど。
お会いする機会はなかったが、僕が大学生の頃には立派な装幀の最晩年の三部作『嘆きの歌:ダニエルの黙示 第一之書』『霊智の歌:ダニエルの黙示 第二之書』『行為の歌:ダニエルの黙示 第三之書』をまだ古本屋などで入手できた。お亡くなりになったのは一九八二年である。
ダニールのための朝の歌
鷲巢繁男
わたしの記憶にない、しかし確かにあった
幼児受洗の日のために
ダニールよ。目を覚ませ。けだるい夢の名残のてのひらを胸におき・・・・・・。
はじめての光がおまへを性急に包んだとき、小さなくさめがおまへを主張したやうに。
うすあかりの中から、おまへの世界が しだいに形をとらへていったやうに。
ダニールよ、おまへも亦、出生といふ伝説を負ひ、そして、おまへの名も、
その物語の中で膠づけより強くおまへに固着し、おまへを支配したのだが、
慎しい原始の中で、聖なる水につかつたおまへの肉ゆゑ、
あらがひ難かつたおまへのさだめの日より、
一滴の水も 行為の中で黄金となるであらうから、
ダニールよ目を覚ませ。
数々の記憶の夜から おまへの試練の昼の光へ。
貧しいものよ、おまへは時間をもつのではない。
おまへの苦しみが時間と呼ばれるのだ。
施された一滴の水の証しへの、おまへの凡ゆる反抗も、
おまへのささやかな歴史となり、いやはてのクルスへの途となるために・・・・・・。
そして、朝の歌、みどりごのくさめのやうに、くるめきのやうに、
聖化さるべき予兆の歌が おまへの胸に鳴り出でるべく。
《主憐めよ。主憐めよ。
われは愚かなるまま 今朝も起き出るづるなり。
われらが貧しきカーテンの楽ひ垂れる裡にありて、心驕り止まざるに。
われらがために血を流せしひとを われは羨しむに。
この美しき大気に肺は愕き、
そして又、わが名も驚く!
アーミン》
(『夜の果への旅』昭和四十一年[一九六六年])
明治維新以降に生まれた日本の自由詩一五〇年歴史の中でも宗教詩人はあまり多くない。戦前では三木露風が敬虔なクリスチャンだった。露風は北原白秋と併称されて明治詩壇に白露時代を作り上げたが今ではあまり読む人がいない。白秋の方が評価が高いわけだが、白秋は詩集『邪宗門』でデビューしたがキリスト者ではなかった。皮肉なものである。宮沢賢治も宗教詩人と言っていいだろう。敬虔を通り超した熱狂的法華経信者だった。
露風も賢治も鷲巢さんも多作だった。作品を読んでいても宗教的ヴィジョンに基づいていることがわかる。一種の幻視者の系譜だ。日本の自由詩はサンボリズムから始まってダダ、シュルレアリスム、未来派、モダニズムなどの欧米詩の影響を受けまくり、そこに日本の社会状況をマージして戦後に戦後詩や現代詩といった詩の流派を生み出した。それがメインストリームだったので宗教詩人はあまり注目されない。賢治にしても宗教詩人という切り口で論じられることは稀だ。宗教詩人は日本の詩の流れの中では明らかに異質である。
中でも鷲巢さんはまったき宗教詩人だった。『ダニールのための朝の歌』は記憶のない幼児の頃の洗礼を題材にした詩だが、「一滴の水も 行為の中で黄金となるであらうから、/ダニールよ目を覚ませ。/数々の記憶の夜から おまへの試練の昼の光へ。」という詩行を読むとああ正教徒だなと思う。鷲巢さんの詩の特徴は〝行為〟に表象できる。彼の宗教観に根ざした日々の行為が詩の多作につながっている。
僕は一九六一年生まれだから、戦後も続いた日本のモダンの状況を肌感覚で知っている。モダンとは欧米現代に立ち後れているという意識であり、一種のコンプレックスでもある。そのため思想から文学までありとあらゆる欧米作品を日本語に翻訳紹介する時期が長く続いた。翻訳紹介者が特権的インテリと見なされた時代もあった。吉本隆明が「文化の密輸業者」と言って揶揄したが、まあそういった面もあった。そしてこのモダンの担い手はほぼ一貫してフランスだった。
フランスは第一次世界大戦以降、政治的にも軍事的にも没落の一途を辿ったわけだが文化は一流だったわけである。これはこれで面白い現象で、文化的成熟が社会的繁栄と正比例しないことを示している。社会全体の勢いに陰りが見えた時期の方が文化は成熟する面があるようだ。
それはともかくとしてフランスは基本的には明るいラテン文化である。わたしたちが今現在採用している厳密な用語定義に基づく論理的思考はフランスやイタリアのラテン文化が生んだ世界標準の思考法である(井筒俊彦はそれを〝文化的普遍者〟と呼んだ)。そこにイギリスアングロサクソン的合理主義が加わるとおおまかなヨーロッパ文化の性格が見えてくる。ただこの合理主義による進歩をよしとする文化は基本的に西ヨーロッパのものである。
十六世紀から本格化した大航海時代によって世界各地は西ヨーロッパ列強によって植民地化され、世界史は西ヨーロッパ中心に語られ書かれるようになった。つい最近までそうだった。消し去ることのできない歴史なのでそれについて言いたいことはない。ただ一九八〇年代頃から西ヨーロッパ中心史観はじょじょに変化し始めている。たとえば今はコロンブスのアメリカ大陸発見とは言わず、アメリカ大陸到達と言う。国家や民族、宗教主義が高まってきたからという理由だけではない。世界の多様性を多様なままに受け入れ理解しようという精神状況が生まれている。
わたしたちは西ヨーロッパ史観に慣れているのでキリスト教の中心はイタリアのローマで、『聖書』や宗教教義などもすべてローマで生み出されたように思いがちだ。しかしそれは中世以降の話である。キリスト教がパレスチナ、つまりは東ヨーロッパよりもさらに東の中東で生まれたのは言うまでもない。またキリスト教を世界宗教にしたのはローマ帝国でありローマはギリシャ文明を引き継いでいた。ただ初期ローマ帝国は皇帝ネロの迫害を始めとしてキリスト教徒を弾圧し続けた。キリスト教が最初に根付いたのはギリシャである。ギリシャからローマにキリスト教は拡がった。そのためローマがキリスト教を国教として採用しニカイア会議などで『聖書』の骨格が出来た時に聖書の文字として採用されたのはギリシャ語だった。ローマはギリシャ語とラテン語を公用語として採用していたが、西ヨーロッパでのラテン語の採用はローマ帝国が東西に分裂してから(三九五年)の独自のアイデンティティ確立のためのものだったと言ってよい。アリストテレスを嚆矢としたギリシャ哲学はムスリムのギリシャ語からアラビア語の翻訳によって西ヨーロッパに広まった。
もちろん西ヨーロッパの異文化吸収能力と応用力が非常に高かったので五百年近く世界の中心は西ヨーロッパになったわけである。これはつい最近まで続いていて、インターネットを中核とする高度情報化社会の思想モデルとも呼べるポスト・モダニズム思想はやはりフランスから生まれている。中心はなく調和のある世界モデルである。比喩的に言えば西ヨーロッパはポスト・モダニズムで東洋的世界モデルを真正面から取り込んだのだと言ってよい。ただいつまでも西ヨーロッパのお世話になっているわけにはいかない。西ヨーロッパ文化は偉大だが東とは異なる面を持っている。モダンの時代が終わった二十一世紀初頭は西と東が相互に影響を与え合う時代である。
ビザンティン帝国を中心とした正教はギリシャ語聖書を根本としているのでギリシャ正教とも呼ばれる。最も古い聖書の形である。ビザンティン滅亡後も東ヨーロッパ諸国でそれは受け継がれた。彼らが正教が最も古く正統なキリスト教だと考える理由である。また正教は西ヨーロッパのような完全な政教分離ではない。もちろん為政者の皇帝と聖職者に分かれていたが歴代ビザンティン皇帝は敬虔で人々の模範となるようなキリスト者であることが求められた。正教では政治と宗教は不可分で信仰と生活は地続きである。様々な矛盾は起こるがその調和をよしとする社会的合意があった。西ヨーロッパと比較すれば古い形の信仰形態が残っている。
西との大きな違いで正教ではキリストの誕生日のクリスマスよりもキリスト復活の日であるイースターを盛大に祝うということがある。元々は月火水木金土日の曜日もキリスト復活になぞらえられている。日曜日が主日の礼拝で復活を記念する。その最大の復活祭がイースターである。この信仰形態を敷衍してゆくと鷲巣さんが『ダニールのための朝の歌』で書いたように毎朝起きるたびに復活があり、そこに至るまでの苦難と疑似的な死があることになる。日々の生活と信仰が重なっている。
ロシア革命によって宗教は全否定され、第二次世界大戦後に共産圏に組み入れられた東ヨーロッパ諸国もそれに倣ったわけだが正教的伝統は消え去らなかった。西側から見れば第二次世界大戦後の半世紀ほどで旧共産圏は産業面などで大きく立ち後れたということになるが、共産主義だけがその理由ではあるまい。東には西側的な進歩を頭からよしとしない精神風土があるように思う。キリスト教の原点を踏まえればそうなるだろう。宗教全般の原理的姿でもある。現世的幸福を至上とはしないということである。
日本は東アジアで西ヨーロッパ的価値規範と文化を真っ先に取り入れた優等生である。それが二十世紀末までの世界規範でもあった。もちろん無理に無理を重ねた欧化主義の矛盾が悲惨な太平洋戦争を引き起こしたわけだが、敗戦がまた大きなコンプレックスとなり戦後も一貫して西ヨーロッパ的文化を受け入れ続けた。しかしフランスと同様に産業面で没落しつつあるからこそ、現代日本文化は次なる成熟の時期に入ったように思う。日本は東に属しておりその文化的基層は西ヨーロッパ的なるものと決定的に異なる面を持っている。現世的幸福を至上とはしないという面では東ヨーロッパ諸国に近い。
もちろん日本人も様々だが今以上の格差社会になったとしても、持てるものが善であり正義であるとするようなアメリカ的社会にはならないのではないかと思う。どこかで社会全体の調和を求めそれを取り戻そうとするだろう。その源基がどこにあるのかと言えば、やはり日本の古典文化に根ざしているのではないかと思う。
イスラーム学の碩学井筒俊彦はユーラシア大陸は西から東になるにつれ、一神教(セム一神教=ユダヤ、キリスト、イスラーム教)から多神教(インド中心のヒンドゥ教)になり、中国・日本に至ると無神教になると指摘した。ただこれも西ヨーロッパ的な文化区分である。中国よりもさらに無神教的な日本にも信仰に表象される精神的基盤があることをわたしたちはよく知っている。
日本の無神論はその名の通り〝無〟を中心としている。そして無は認識できるが明示できないなにものかである。それは無いということを意味しない。存在するが特定できないということである。禅が説くように日本人の多くが無から有が生じると認識している。無が世界生成の源基だということである。万物は無に帰してそこからまた有が生じる。
この思想は無の思想と呼べるわけだが、イスラーム、キリスト教世界ではしばしば神秘主義と呼ばれる。アッラーは存在するが完全不可知である。正教でも同様だ。正教のイコンを見れば一目瞭然だがキリストは同じ顔をしている。人間性は薄く一つの顔しか持っていない。西ヨーロッパのように神を人間に近しい存在として認識するのではなく、絶対不可知でありかつ認識可能と捉えている。この絶対不可知を探求するのが神秘主義(日本では無の思想)であり怪しげな魔術とは無縁である。
このような精神的源流を辿れるのはユーラシア大陸では中東から東ヨーロッパのあたりまでだろうと思う。それを反映してか、僕が好んで集める骨董は中東から東ヨーロッパあたりで止まっている。ルネサンス以降の人間の能力を最大限に発揮したような完璧な絵画や陶磁器はあまり食指が動かない。キリスト教美術ではビザンティン系に惹かれる由縁だが、陶磁器がせいぜいでモザイクのイコンやクロスなどは手が出ない。もちろんギリシャ、ローマの遺物も大好きだがこれもうーんと唸ってしまうような値段ですなぁ。
そういえば文学金魚で小説と劇評を連載しておられるラモーナ・ツァラヌさんは敬虔な正教徒である。正教の詳しい教義や祭祀を聞くならラモーナさんがうってつけでしょうね。能の研究者だがヨーロッパで一番能楽を好むのは東ヨーロッパ諸国である。
円形彫文白釉ビザンティン陶器 見込部分
同 高台(裏面)
同 高台拡大
最後にこれからビザンティン陶器を買うかもしれない方に簡単なガイダンスを。トルコによって滅ぼされたので、ビザンティン陶器を含む当時の生活道具などはほとんど伝来していない。ビザンティン陶器の九九パーセントは海揚がりである。黒海などの海に沈んだ船から引き上げられたものだ。そのため貝が付着していることが多い。今回図版紹介した皿は見込み部分が海底に面していたので見込みがキレイなままである。しかし裏に白い付着物が見えるだろう。これは貝を削った痕である。高台拡大写真には口辺部に向かって線がある。グラインダーで貝を削り落とした痕である。貝の吸着力は強く、五〇〇年近く海底に眠っていたモノなのでビザンティン陶器にはなんらかの形でその痕跡が残っていると考えていい。
またビザンティン陶器は緑釉が多い。海の中で白っぽく変化してしまっているが所々綠色が見えるモノが大半だ。今回紹介したビザンティン陶器は珍しく白釉だが、白土で白くしてその上から透明釉を掛けているのかもしれない。ただ正確なところはわからない。これはまあ陶磁学の領域の問題ですね。
鶴山裕司
(図版撮影 タナカユキヒロ)
(2021 / 07 /09 18枚)
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