ドイツ製花柄色絵スープ皿(著者蔵)
口径二四×高三・七×高台径一二・五センチ
今回はこの連載のタイトル『言葉と骨董』の、『言葉』の方にウエイトを置いた骨董である。華やかで可愛らしい花柄のドイツ製スープ皿なのだが、骨董と呼ぶのはちょっとためらわれるような品物だ。作られたのは一八七〇年代から九〇年代くらいで百年ほどしか経っていない。百年は長いがびっくりするほど昔ではない。人間、八十、九十歳まで生きることがあるのだから当然ですね。またこの手のヨーロッパ製色絵皿は、まあ掃いて捨てるほどある。ぜんぜん珍しくないのだ。骨董の世界ではセミアンティーク――ちょっと古くて普段使いによさそうな骨董――と呼ばれたりするが、都心のセミアンティーク専門店で売られていても物自体は一万円を超えないだろう。
骨董としてはさほど価値はないが、買ったのは箱がついていて、そこに、
Professor Dr Bruno Heymann(ブルーノ・ハイマン)
独逸製ソップ皿(スープ皿のこと)
寄贈
三宅速
と墨書されていたからである。箱の横には「No.65 Prof. Heymann氏ゟ(より)贈 独逸製ソップ皿」(ところどころ欠けているので正確な読みではないかもしれませんが)というラベルも貼ってあった。「ああ、三宅先生の旧蔵品だ」と思って買ったのだった。三宅速は慶応三年(一八六七年)生まれで昭和二十年(一九四五年)に亡くなった外科医である。九州大学医学部の基礎を盤石にした先生で、日本の胆石研究の先駆者として知られる。
三宅速先生墨書箱書
箱側面ラベル
誰もが知っている歴史上の超有名人ではないが、三宅速の名前を記憶に留めている人は多い。三宅先生を有名にしたのはなんといってもアインシュタインとの交流である。あの相対性理論を提唱したアルベルト・アインシュタイン博士である。僕もアインシュタインがらみで先生の名前を知っていたのだが、九大医学部の先生だというくらいは記憶していた。九州出身の年配のお医者さんと話す機会があって、ふと「三宅速先生をごぞんじですか?」と聞いてみたら、「ああ知ってます、九州ではとても腕のいい外科医として有名でした。弟が病気になって先生に診ていただいたことがあります」と話してくださった。
骨董を買うとそれなりに関連資料を調べる癖がついているので、例によって三宅進さん(速の孫)編著の『或る明治外科医のメモランダム――九州大医学部 揺籃時代――』(日本文教出版)と比企寿美子さん(進さんの妹で同じく速の孫)著の『アインシュタインからの墓碑銘』(出窓社)を買って、布団の上に転がってふにふに読んだら、「九州ではとても腕のいい外科医として有名」というのは速の息子の博さんだと気付いた。戦後になるが博先生も長く九大に勤務なさった。速先生は昭和二年(一九二七年)に九大を退職なさっているので、さすがに現役のお医者さんの弟が速先生に診察してもらうことはできないだろう。
話は少し飛ぶが、だいぶ前にどこかの美術館が『箱展』を開催したことがある。たいていの箱は何かを保存しておくために作られる。古くて手が込んでいれば箱自体に美術的価値が出たりするが、中身が残っているとロマンチックが止まらなくなったりする。卒業記念に学校の校庭の片隅に埋めたタイムカプセル、有名なところでは映画『レイダース/失われたアーク』のアークも箱(聖櫃)で人間のロマンを掻きたてる。骨董の場合も古そうな箱に物が入っているとちょっとワクワクする。
速先生箱書きの箱は、骨董業界で言ういわゆる〝うぶ荷〟だった。物が出た時の状態そのままだったのである。先生は太平洋戦争で苦労なさったので、戦前のある時期に不要な物を処分されたのだろう。ラベルに「No.65」とあるのでかなりの荷物を処分したはずである。それを誰かが買い求め長い間放置していたようだ。最近になって不要品としてまた市場に出たらしい。そうとしか考えられない伝わり方をしている。
ドイツ製花柄色絵スープ皿(表)
ドイツ製花柄色絵スープ皿(裏)
簡単に内容品を説明してゆくと、メインの花柄色絵スープ皿は軟陶である。デルフト焼と同じ磁器と陶器の中間、というより高価な磁器を真似した廉価品だ。ドイツと言えばすぐに高級磁器メーカー・マイセンが思い浮かぶが、国立マイセン磁器製作所が創設されたのは一八六五年(最幕末の元治二年/慶応元年)で、当時磁器は庶民には手の届きにくい高嶺の花だった。軟陶は磁器のバッタもんだったわけだが、この皿はハンドペインティングの色絵で、色絵は何度も窯に入れて焼かなければならず手間がかかるのでビミョーな中級品である。
皿の真ん中に書かれている字は〝Hnclenken〟でドイツ語で「チャリンという音」の意味である。磁器は指で弾くとカンカンと澄んだ音がするが、陶器はコンコンと鈍い音になる。〝Hnclenken〟は「ウチの皿は磁器みたいにいい音がしますよー」という意味だろう。それがナントカ食器シリーズのように〝Hnclenken〟ブランド(?)になったようだ。皿の裏側には「MIS」の窯印がスタンプで捺されているが、どの地方の窯で焼かれたのかは特定できなかった。ドイツに行ってもよほど詳しい骨董屋でなければわからないだろう。
安物とは言えずさりとて高級品でもなく、しかも誰だって「スープ皿一枚もらってどうすんだい」と思ってしまうのに、箱に納まっている。ということは、皿をあげた側ももらった側もそれほど裕福ではなかったが、友情の証で大事だったということだろう。
明治四十年(一九〇七年)
四月一日 Flügge先生六十歳祝賀論文集発行の通知、Prof. Heymannより来る。依って〝Morphologiche und Klinishe Beitrog zur Filarie Bausrofti〟と題する論文を投稿す。
明治四十三年(一九一〇年)
八月二十四日、韓国(朝鮮)我国に合併さる。
Flügge先生後任者、プレースラウ教授Pfeifferの書状に接す。披見するに、Heymann助教授は十五年間当衛生学教室に勤務し、今般伯林大学に栄轉に付、知人の記念写真帖を贈呈に付、余の写真送付を需めらる。快諾郵送す。
(三宅進編著『或る明治外科医のメモランダム――九州大医学部 揺籃時代――』)
ブルーノ・ハイマン(Bruno Heymann)の名前は三宅進編著『或る明治外科医のメモランダム』に二回出てくる。速の日記を苦労して活字に起こした本である。ブルーノ・ハイマンは一八七一年(明治四年)生まれ。速よりも四歳年下の医者で衛生学者だった。
速は東京帝国大学医科大学を主席で卒業して帝大に勤めたが、徳島の実家の父親の病院を継ぐために帰郷した。しかし最先端の医学を学びたいという希求捨てがたく、明治三十一年(一八九八年)から三十三年(一九〇〇年)にかけて私費でドイツに留学した。ブレスラウ大学のヨハネス・フォン・ミクリッチに師事して学んだ。ミクリッチは速を高く評価し、速が帰国する際に、自分の「養子になって勉強を続けたらどうか」と申し出たのだという(比企寿美子著『アインシュタインからの墓碑銘』)。速先生は医者として優秀だっただけでなく、人柄も優れていたことがよくわかる。帰国した速は現在の大阪大学医学部、次いで九州大学医学部に勤務し、明治三十六年(一九〇三年)から三十七年(〇四年)にかけて再びドイツ留学した。ただ恩師ミクリッチはこの頃胃がんに冒されており、速帰国後の三十八年(〇五年)に死去してしまった。
日記に出てくる「Flügge先生」や「プレースラウ教授」はフルネームや経歴を特定できなかったが、ミクリッチの後任ドクターたちだったのではなかろうか。速はハイマンといっしょにミクリッチの元で学んだが、速帰国後もハイマンはブレスラウ大学で研究を続けたのだろう。なぜハイマンがスープ皿一枚をあげたのかはわからないが、家に食事に招待されて「この皿いいね」「じゃ、一枚あげるよ」という感じだったのかもしれない。
速が箱に入れた皿は明治時代には舶来品でそれなりに高価だったろうが、誰かが買って売らずに塩漬けにしている間にどんどん値段が下がってしまった。骨董古美術の値段は不変ではないのである。そのため速先生が手放した状態のまま再び市場に出た。箱の中には皿だけでなく、ぜんぜん関係のない反故紙も入っていたからである。
反故紙は二枚入っていて、一枚は和田三造の「粗品」と書かれた和紙である。もう一つは石原正之という人から速に宛てた手紙で、娘の結婚のご祝儀を贈ってもらったお礼が書かれている。石原正之さんについては不詳。和田三造は明治十六年(一八八三年)生まれで昭和四十二年(一九六七年)に亡くなった洋画家である。陶器を入れた箱には器体を守るために隙間に反故紙を詰めることが多い。和田三造と石原正之の反故紙は詰め物の一部だったのだろう。
和田三造画『南風』
和田三造はちょっと不思議な画家である。東京国立博物館の常設展に行くと、かなり高い確率でその代表作『南風』が展示されている。初期洋画を代表する一点なのだ。黒田清輝白馬会生え抜きで、美学校(現・東京藝大)では青木繁や熊谷守一らと同期だった。綺羅星のような画家たちと同期だったわけだ。
しかしまあ、和田さんの作品で記憶に残るのは『南風』一点だけといって過言ではない。実に力強い作品なのだが『南風』に比肩するような作品がまったく見当たらない。またカンヌ映画祭でグランプリを受賞した衣笠貞之助監督映画『地獄門』ではデザインを担当し、ハリウッドのアカデミー賞で衣装デザイン賞も受賞している。画壇にとらわれずマルチに活躍した人だった。代表作があるから優れた画家だったとは言えるわけだが。
大正十三年(一九二四年)
十二月二十六日、和田三造氏、余の像を画く爲、態々東京より来福し、余の室にて余の研究に従事する有様に付き執筆され、十二月二十日肖像画を完了され、直ちに帰京の途に上らる。報酬として金五百円を贈る。氏の語る所によれば、単なる肖像画とすれば其人の生存期間より精々死後百年間位を経過すれば、世人は其生存期間の事績を審かにせず、単に画の良否を批判するに留る。然るに其人が研究する其侭の状態を画けば其人の人格を能く写し得て、永遠に其人の学碩を後世に傳ふるに足るべし、との観念より是図案を選びたり云々。氏の意見は実に敬服の至にて、単に余の肖像のみならず、余の膽石研究中の像を写し、同時に研究室の四囲の書籍、顕微鏡、標本瓶は更なり。硝子窓越しに内科研究室の外貌迄写し得て妙なり。我研究室も内科研究室と全く同形の建物なりき。氏の言の耳朶に尚ほ新たなる際、則ち画成って後一ヶ年ならずして内科、外科研究室全部に祝融(火災)の見舞ふ處となり、悉皆烏有に帰し去りたり。和田画伯の余の肖像画に織込みたる背景により、僅に両研究室の姿を観る事を得るのみ、氏の先見の明、驚くべし。肖像画は火災の直前自宅に持ち帰りありて難を免れたり。
(三宅進編著『或る明治外科医のメモランダム――九州大医学部 揺籃時代――』)
和田三造画『研究室の三宅速教授』
和田三造は速に診察してもらったのを機に付き合いを深めたようだ。『或る明治外科医のメモランダム』には六カ所ほど和田三造の記述がある。肖像画に五百円の謝礼を払ったとあるが、和田は速の元を訪ねてしばしば絵を贈っている。よほど気が合ったのだろう。和田が画いた『研究室の三宅速教授』は、その所在は不明だが『或る明治外科医のメモランダム』口絵にモノクロ写真が掲載されている。和田直筆「粗品」和紙から、普段から速との間に細々とした交流があったことがわかる。
で、多くの人が興味を持つ速とアインシュタインの交流だが、僕はまあ、交流があったとしても社交儀礼的な通り一辺倒のものだったのだろうくらいに思っていた。しかし今回速先生旧蔵の皿を入手してから二人のお孫さんの労作を読んで、予想以上に深い絆があったことがわかった。もちろん速とアインシュタインは国籍も人種も違い、大人になってからの付き合いだから親友などといった関係ではない。ただ実際に友誼を結んだ期間は短いが深く理解し合えるものがあったようだ。
大正十一年(一九二二年)
十二月二十五日、午前中、我學を見学し、圖書館に於て諸教授と會食す。食後夫婦は、態々大名町の吾家を訪問す。新築奥座敷の十畳間に於て茶菓を饗應す。新着のピアノを引かれ、又愉快に種々のッ雑談を為す。本家と離座敷の中庭の池中に金魚の遊泳するを眺め、深き興味を以て暫時賞観さる。妻三保子とも談話をかはし余が是を通譯す。佛国マルセイーユ港より日本船に乗込、東航する途中「ア」氏は肛門炎に罹り、其部に灼るが如き不快感を訴へ、血液を混ずる粘膜性便を漏出し、船医に受診せしも病名審かならず、夫人は、余を訪れ涙ながらに余の診療を乞はる。直ちに精査せしに、単なる肛門炎なり。依て加温硼酸水にて注腸洗滌し、且つリユゾール坐浴(クレゾール)をとらしめて数日後に快氣す。是より先、氏は通便を視て、直腸癌に罹りしと悲観し憂鬱に陥りしも、余の診療にて速かに快氣せしを以て安堵すると同時に、余に對する信用打って変りたり。余の宅を多忙中、夫婦の態々訪問せしは是が答禮の爲なり。吾家訪問談話中、講義の時間接迫せりとて屢々使者来る。「ア」氏夫婦は別れを惜しんで辞去し、直ちに福岡中學の大講堂に赴き、相對説につき平易に、得意の蘊蓄深き学説を徐々に説き来たり説き去る、(中略)「ア」氏夫婦と余との交誼は、永年変わらず継続せしも、氏の一家のヒットラ統治下に於て米国に亡命後は音信を絶つ。
(三宅進編著『或る明治外科医のメモランダム――九州大医学部 揺籃時代――』)
アインシュタイン(左)と三宅速(右)
アインシュタインを日本に招聘したのは改造社だが、その船に欧州視察帰りの速も乗っていた。アインシュタインは船旅の途中で肛門炎を煩い、それを速が治したことで急速に距離が縮まった。日本に来る途中でノーベル物理学賞受賞の報が届いたこともあり、アインシュタイン来日は日本中の注目の的となった。アインシュタインは過密スケジュールの合間を縫って速の自宅を訪れ速が娘たちのために買ったピアノを弾き、講演時間が迫っているからと急かされても「もう少し、もう少し」と滞在を延ばしたようだ。改造社は世界的論理学者バートランド・ラッセルも招聘しており、大正十一年当時の日本はまだまだリベラルで平和だった。しかし昭和に入ると日本だけでなく世界情勢が大きく動く。
よく知られているようにアインシュタインはユダヤ系ドイツ人で、今から考えれば狂気の沙汰で信じがたいことだが、ヒトラーのナチスはこの稀代の理論物理学者をユダヤ人狩りのメインターゲットに据えた。アインシュタインはベルギーに逃れ、一九三五年(昭和十年)にイギリス経由でアメリカに亡命した。日本もまた昭和七年(一九三二年)満州国建国、八年(三三年)国際連盟脱退、十年(三四年)美濃部達吉「天皇機関説」弾劾と戦争への道を一直線に辿り始めていた。
速先生は昭和二年(一九二七年)に引退すると芦屋に居を構えた。欧米をよく知る知識人の一人として「日本は負ける、馬鹿な戦争だ」と家族に言っていた。しかし戦争は悲惨さを増すばかりで息子の博は昭和二十年(四五年)五月に、老いて身体の弱った両親を勤務先の岡山に迎えた。芦屋より岡山の方が安全だと考えたのである。博はさらに両親を鳥取に疎開させようと準備しており、両親を送り出すためのささやかな壮行会を開いた六月二十八日深夜(二十九日午前二時から四時)、米軍が岡山を無差別爆撃した。岡山大空襲である。
博は妻和子、息子の進、娘寿美子、和子の甥の螺良英郎を先に逃がし両親といっしょに避難しようとした。速は早く早くとせかす博に「小用に行きたい」と言って妻三保子といっしょに便所に向かい、家の奥から息子に「後から行くから先に行って妻子を守れ」と言った。近くで焼夷弾が落ちて爆発した。博は両親を残して妻子の後を追った。博と妻と二人の子ども、それに甥の英郎は無事避難できた。しかし爆撃が終わって家に帰ると速と三保子は防空壕の中で抱きあって焼死していた。博は二人の遺体をリヤカーに乗せ、廃材を集めて勤務先の大学構内で荼毘に付した。
ここに 三宅速と その妻 三宅三保子が眠る。
彼らは共に 人類の幸せのために尽くし
そして 共に その人類の過ちの 犠牲になって逝った
米国プリンストンにて 一九四七年三月三日
アルベルト アインシュタイン
戦後になり、博は学会で知り合ったGHQの医官に頼んでアインシュタインに両親の墓碑銘を書いて欲しいと手紙を出した。アインシュタインからは一ヶ月ほどで返信が届いた。墓碑銘はドイツ語と英語でタイプで打たれていたが、博はその単語を父が交わしたアインシュタインの手紙の中から拾い出した。速と三保子の墓にはアインシュタイン直筆のドイツ語が刻まれている。博が両親の墓を建てたのは終戦から九年後の昭和二十九年(一九五四年)だった。また比企寿美子さんの『アインシュタインからの墓碑銘』によると、博氏は最晩年になるまでどうやってアインシュタインから墓碑銘をもらったのか語らなかったのだという。生涯、両親を残して避難したことを悔いた。速がアインシュタインと交わした手紙類などは、比企寿美子さんによって慶応大学に寄贈された。
なお速に色絵皿を贈ったブルーノ・ハイマン博士はユダヤ人で、ナチスによるユダヤ人迫害のためのニュルンベルク法によって職を追われ、一九四三年五月に収容所で病死した。二人の息子はパレスチナに亡命して生きのびたが、娘のシャーロット・ローザ・ハイマンさんはアウシュビッツ収容所で殺された。アインシュタインの戦後の平和活動家としての活動は華々しいものだったがナチスが原爆を開発していると聞き、アメリカが先に開発すべきだというルーズベルト大統領宛マンハッタン計画推進親書に署名したことに苦しむことになる。アインシュタインはマンハッタン計画にまったく関与していないが彼の署名が原爆製造計画を大きく後押しした。アインシュタインは原爆製造が成功したことを知っていたが、ドイツが降伏したので使われることはないだろうと考えていた。
もうすぐ終戦記念日である。三宅速先生の箱書きのある皿を調べて書いてきたが、こんな品物からでも多くの人の存在が点から線に繋がり絡み合っていることがわかる。それなら文書資料からでも読み取れるとお思いになるかもしれないが、骨董で一番重要でまた面白いのは、すべてを決して言語化できない時代時代の、あるいはそのかつての所有者の手ざわりのようなものである。歴史の奔流に苦しめられることになるが、色絵皿は三宅先生にとっても送り主のハイマン博士にとっても、ささやかだが華やかだった時代の記念品だ。
まあヒマにまかせてムダなことをやっていると思われるかもしれないが、文化は壮大なムダでもある。歴史であれ人間の人生であれ、大文字で書かれるような事件や事績は文学にとってはサブの要素に過ぎない。人や時代の微かなせせらぎのような底流を聞き取るために、骨董と呼ばれる物は貴重な示唆を与えてくれる。僕はまあ、自分のやっているムダな行為に裏付けのない自信を持っている。どうせなら呆れるほどムダを突き詰めたいですね。
鶴山裕司
(図版撮影 タナカユキヒロ)
(2021 / 08 / 07 19枚)
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