前回は寺山修司と京武久美を中心に創刊された『牧羊神』が、寺山の上京とともにどのように変化したのかを資料に基づいて書いた。『牧羊神』内部の政治闘争的なきな臭い話と受け取った方もいらっしゃるかもしれないが、大方の同人誌・結社誌の動きなどこんなものである。同人誌・結社誌が既存の商業誌に代わるような運動拠点になってゆくことなどほとんどない以上、そこから何人商業誌で活躍する作家が出たのかが詩歌の世界の同人誌・結社誌のプレステージになる。逆に言えば、時には同人誌・結社誌の総合的力を自己一身に集め、抜け駆けしていく作家がいなければならない。そして誰がなんと言おうと彼らは他の同人に比べて優秀なのだ。商業メディアが完全に確立された大正期以降の日本の文壇・詩壇では、メディア遊泳術も含めて作家の力量である。
『牧羊神』第4号は、本文は青の刷り色で誌名は赤色印刷であることは以前と変わらないが、誌名は橋本多佳子の墨書を使用している(多佳子の墨書は第4号のみ)。多佳子は明治32年(1899年)生まれだから昭和29年(1954年)当時は55歳である。水原秋櫻子の『馬酔木』初期同人であり、戦後はその流れで秋元不死男、平林静塔、西東三鬼らと親交を結び、当時の女流俳人の第一人者だった。『牧羊神』第2号の『消息』欄に、『山形健次郎、林俊博 修学旅行にて関西を訪れ橋本多佳子先生らを訪問』とあるので、山形らを介して寺山か京武が多佳子に題字を依頼したのではないかと思う。
永遠の逃亡 寺山修司
桃太る夜は怒りを詩にこめて
林檎の木ゆさぶりやまず逢ひたきとき
この家も誰かが道化揚羽高し
小鳥の糞がアルミに乾く誕生日
夏の蝶木の根にはづむ母訪はむ
沖もわが故郷ぞ小鳥湧き立つは
教師呉れしは所謂智慧なり花茨
九月の森石かりて火を創るかな
芯くらき紫陽花母へ文書かむ
(『牧羊神』 NO.4 )
安井浩司 (香西照雄選『種まく人』より)
春愁や書棚に深くトルストイ
君死にゆく時の月光やわらかき
(『牧羊神』 NO.4 )
遺展など 安井浩司
冬日影馬柵に馬ら首出して
遺展守る画廊に舞い込む桐一葉
エンヂンの熱気吐き出す霊柩車
蒲公英の白毛飛び交う焼跡に
夏燕つゝましく座す靴磨
白靴の紐とけやすく春の旅
メーデーの行進記憶の蛇に似て
金貸すかや冬薔薇咲かす家の前
(『牧羊神』 NO.4 )
寺山は『牧羊神』第4号で『永遠の逃亡』という表題で9句発表している。安井の新作句は香西照雄選『種まく人』に2句、同人作品欄に『遺展など』の表題で発表した8句の計10句である。一読すれば明らかなように、18歳当時の寺山と安井の力量の差は歴然としている。香西選の2句は句としてまとまっているが、俳句ではよくあることだが、これらは複数の作品の中から選者の好みで選ばれた句である。安井が自分の意志で作品として発表した『遺展など』は茫漠としている。『など』という表題からわかるように一貫した主題がない。これらの句から、後年の思念的作家、安井浩司を想起するのは難しい。
寺山はもうできあがっている。『永遠の逃亡』という表題も茫漠としていると思われるかもしれないが、彼は何らかの思念を永遠の方に逃がすような作品の書き方をしている。『桃太る夜は怒りを詩にこめて』、『この家も誰かが道化揚羽高し』、『芯くらき紫陽花母へ文書かむ』などの作品に端的に表れているが、寺山俳句の基本技法は『陰陽』の対比である。明るいイメージの『桃』を暗い観念の『怒り』と並列し、『道化』を『揚羽』と、『芯くらき』を明るく鮮やかな『紫陽花』と対比させている。これらの俳句には一貫した主題が認められる。きっと怒られるだろうが、『九月の森石かりて火を創るかな』(この句も秋の暗い森と明るい火の対比である)など、後年の安井が作りそうな作品である。
『牧羊神』第4号の巻末には、第3号後記の『POST』で京武が書いていた『「牧羊神」東京句会』の様子が『牧羊神東京句会にて 青空に題す』というタイトルでレポートされている。出席者は北村満義、安井浩司、大沢清次、金子黎子、寺山修司、大和田具彦、三好豊、秋元潔、福島ゆたか、乙津敏を、黒米幸三、吉野和子、広瀬隆平、三上清春、大室幹雄の15名で、昭和29年5月2日日曜日の午前10時から午後4時まで日比谷公園行われた。記事に『頬を統ぶる五月の風が音楽堂から池を越えて句会の芝生にあふれ、まるく坐った青春の笛吹き達は覇者そのものであった』とあるから、日比谷公園の芝生に座って句会を開いたようである。
記事に署名はないが、このような青春の頌歌をてらいもなく書けるのは寺山しかいないだろう。『青空に題す』というタイトルもいかにも寺山的で、句会も彼が主導したのだと思う。普通、青春期にいる人間がそれを強く意識することはあまりないが、寺山は青春の未熟や夢に満ちた向日性を最大限に活用した。寺山といえば昭和32年(1957年)刊行の作品集『われに五月を』がすぐに思いつくように、彼は青春俳人であり歌人、詩人だった。少し皮肉な言い方をすれば、新学期が始まった五月が彼の文学者としての絶頂期だった。昭和29年5月当時、寺山に対抗できる俳句作家は同世代にはほぼ皆無だったと言える。
なお『われに五月を』には俳句と短歌、自由詩や散文も収録されている。当時寺山はネフローゼで闘病中で、遺作になるかもしれないという気持ちもあったのかもしれない。ただこのような雑多な作品集のまとめ方は、明治の鬼才で詩歌誌『明星』を主宰した与謝野鉄幹の処女作品集『東西南北』とよく似ている。『東西南北』には俳句、短歌、自由詩(新体詩)が収録されている。当時存在した詩歌の全形式を網羅した作品集であり、鉄幹が示唆した無限の可能性が、北原白秋や石川啄木を始めとする若い詩人たちを『明星』に集わせた。しかしそれは、簡単に言えば鉄幹の壮士的網羅主義・拡大主義でしかなかったことが次第に明らかになっていく。明治41年(1908年)には白秋、吉井勇、窪田空穂、木下杢太郎(太田正雄)らの主力同人7人の『明星』脱退事件が起こる。鉄幹は若い詩人たちから見切られたのである。また世上の評価高かった『東西南北』にいち早く、大勢に抗うように、激しい批判を加えたのが正岡子規だった。
余談だが、昭和29年5月2日の句会に出席した大室幹雄は、『正名と狂言』などで著名な歴史人類学者の大室氏ではないだろうか。氏は寺山や安井の一歳年下で、昭和12年(1937年)生まれで早稲田大学を卒業している。『「牧羊神」東京句会』レポートには『花ちるや犬馴らしいる青めがね』一句が掲載されており、『大室幹雄――グロテスクな素材の組合わせに詩性を見出そうとしているような格好。今日二番目の年少者で、ロシア文学史をポケットに入れ、西郷隆盛のように胸をはっているところが、金子さんに言わせれば、「かわいゝ」のだそうである』という寸評が掲載されている。寺山の観察は鋭い。後年、『滑稽-古代中国の異人たち』を書くことになる若き日の大室氏の姿が浮かび出る。大室氏が『牧羊神』に登場するのは第4号だけであり、これも一期一会の出会いだと言えよう。
★安井浩司君――一ばん色が白く、髪がまだのび不足でブラシのような風采。文学少年然として口数も少なかった。抒情的作品が合評にあげられたときは一方の将として防戦につとめ-その北国風の言い方も一寸印象的。
★主流をその理論で分けると、寺山君、金子さん、福島君、秋元君の一つの流れが急進的であり、黒米君、三好君、大和田君、吉野さんらが、やゝ保守的と見られた。これをまとめる流れが北村君、乙津君であり、三上君、大室君、安井君らは場合を選んで立場を証明した。
★夕星でるころ、再会を期し開散した。東京駅では安井君が「きせる」を下手にやって、最後の愛嬌をふりまいた。
(『牧羊神』 NO.4 『牧羊神東京句会にて 青空に題す』より安井浩司関連記事を抜粋)
『安井浩司「俳句と書」展』公式図録兼書籍の巻末には、17歳のいがぐり頭の安井氏の写真が掲載されている。高校時代はずっと丸坊主だったのだろう。昭和29年4月に上京して句会が開かれた5月には、まだ『髪がまだのび不足でブラシのような風采』だったようである。
句会レポートの末尾には当日の『作品抄』が掲載されており、寺山の句は『この家も誰かが道化揚羽高し』が、安井の句は『玻璃函にうたわぬ人形春曇る』が収録されている。安井の句は少女趣味的であり、『抒情的作品が合評にあげられたときは一方の将として防戦につとめ』という寺山の寸評は、句会で『玻璃函』の句が抒情的過ぎるという批判を受けたときに、『防戦』に立った安井の姿を捉えているのだろう。安井氏が『玻璃函』を秀句と考えていたとは思えないが、作家は自分が生み出した作品に知らず知らず囚われてしまう生き物である。若い頃の同人誌の創作合評ではよく見られる光景である。
安井は昭和38年(1963年)に処女句集『青年経』を上梓した際に、それ以前の句をほぼすべて捨て去っている(のちにその一部が金子弘保氏によって十代俳句作品集『小學句集』平成12年[2000年]としてまとめられた)。従って『玻璃函』のような句は安井氏が見捨てた『若書き』である。ただ処女句集『青年経』の『青年』には、微かに寺山への挨拶が含まれているように思う。『青年経』は生硬な観念に満ちた、だが奇妙な老成を感じさせる句集である。この句集から通常の意味での青春の華やかさ、無防備さ、向日性を感じ取ることはできない。安井氏が処女句集に『青年』という言葉を織り込んだのは、寺山とは異なる真の意味での新しい世代の俳句を打ち立てるという意図があったのではなかろうか。
それにしても寺山はよく人を見ている。『牧羊神』の『急進』派は寺山、金子黎子、福島ゆたか、秋元潔であり、『保守』派は黒米幸三、三好豊、大和田具彦、吉野和子である。『急進』と『保守』派の中間にいるのが北村満義、乙津敏をであり、三上清春、大室幹雄、安井浩司は『場合を選んで立場を証明』する人たち、つまりどっちつかずのヌエ派だと分類されている。
昭和29年当時、寺山と安井の間に俳句作家としての大きな力量の差があったのは確かである。しかし『牧羊神』後期において、寺山によって安井が同人を馘首されたのは、必ずしも作家としての力量を見切られたからではあるまい。安井氏所蔵の『牧羊神』には、雑誌に挟み込まれていた寺山のガリ版刷りメモなども残らず保存されている。それを読むと『牧羊神』リーダーとして、金銭負担を含めて、寺山は、常に同人が態度をはっきりさせることを迫っている。安井は簡単には寺山の姿勢には雷同しなかった。だが29年当時、明確な文学的姿勢も打ち出せずにいた。寺山の同人馘首には、周囲をシンパで固めるという意味もあったのではないかと思う。
ええっと、今回で『牧羊神』第4、5号について書いてしまおうと思ったのですが、長くなったので、第5号については次回書きます。計画性がなくて申しわけありません。第5号には安井氏の親友であり、独自の象徴主義的作風で知られる大岡頌司氏が登場します。
鶴山裕司
■ 『牧羊神 VOL.1 NO.4 十代の俳句研究誌』書誌データ ■
・判型 B5版変形 縦24センチ×横17.5センチ(実寸)
・ページ数 30ページ
・刷色 青、表紙『牧羊神』のみ赤色、題字は橋本多佳子
・奥付(原文のまま)
昭和二九年七月三十一日発行
編集兼発行人 京武久美
青森市外筒井新奥野
発行所 「牧羊神」俳句会
・MEMBER 総数35人(これも原文のまま)
秋元潔(横須賀)、赤峰卓雄(宮崎)、福島ゆたか(東京)、林俊博(北海道)、伊東レイ子(青森)、川島一夫(福島)、川添巌(香川)、金子黎子(川崎)、北村満義(東京)、橘川まもる(青森)、工藤春男(秋田)、栗間清美水(島根)、黒米幸三(東京)、近藤昭一(青森)、京武久美(青森)、松岡耕作(、丸谷タキ子(奈良)、宮村宏子(奈良)、後藤好子(北海道)、松井牧歌(川崎)、野呂田稔(秋田)、大坂幸四郎(青森)、大沢清次(群馬)、小山内修身(青森)、乙津敏男(東京)、木場田秀俊(長崎)、中西飛砂男(青森)、種市つとむ(青森)、田中明(青森)、田辺未知男(青森)、寺山修司(埼玉)、戸谷政彦(東京)、上村忠郎(八戸)、安井浩司(東京)、山形健次郎(北海道)
ABC順
* 原文では『ABC順』となっているが、まったくそうなっていない。また第4号から()内に同人居住地が表記されているが、松岡耕作は『(』だけで居住地が記載されていない。
■ 『牧羊神 VOL.1 NO.4 』掲載 安井浩司作品 (香西照雄選 『種まく人』) ■
■ 『牧羊神 VOL.1 NO.4 』掲載 寺山修司作品 (同人作品欄) ■
■ 『牧羊神 VOL.1 NO.4 』掲載 安井浩司作品 (同人作品欄) ■
■ 『牧羊神 VOL.1 NO.4 』掲載 『★牧羊神東京句会にて 青空に題す』 (執筆者は恐らく寺山) ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■