『牧羊神』創刊号は昭和29年(1954年)2月1日発行で、中心メンバーの寺山修司や京武久美は卒業間近の青森高校の3年生だった。同3月30日には卒業記念号とでも呼ぶべき第2号が刊行されたが、巻末の『消息』欄に同人の進学先が記されている。安井浩司と寺山修司の名前もある。安井氏は歯科医を職業とされたが、自分は本来俳句一筋に専念すべき人間だという思いが強いせいか、歯科医という仕事についてほとんど何も語ろうとしない。出身大学すら自筆年譜に記載していないのである。
しかし第2号『消息』欄に安井氏の進学先が書かれている。これを公表すると後からメチャクチャ怒られそうだが、いずれ誰かが発掘するのだろうから書いてしまうと『安井浩司 日本歯科大学に合格』とある。寺山修司は『早稲田大学に合格 新住所は川口市幸町一の三九坂本方』である。
第3号は同4月31日発行で編集発行人は京武久美、発行所住所は『青森市外筒井新奥野「牧羊神」俳句会』だが、この頃には寺山や安井はすでに東京の大学に進学していた。『牧羊神』は東京組と青森組(東北その他組)に分かれて活動することになったのである。実際、第3号後記である『POST』で京武は『寺山、松井(松井牧歌、第2号『消息』欄に『日本海上火災保険に就職』とある)両君あたりを中心にして「牧羊神」東京句会が誕生したそうであるから、この機に各地で「グループの集合」の結成を試みてはどうだろうか』と書いている。
この生活環境の大きな変化を反映するかのように、『牧羊神』第4号と5号は昭和29年7月31日に同時発行されることになった。合併号ではなく分冊だが、第4号は編集発行人・京武久美、発行所は『青森市外筒井新奥野「牧羊神」俳句会』である。第5号は編集人・寺山修司、発行人・戸谷政彦、発行所は『川口市幸町1の39(坂本方)寺山修司方 牧羊神の会』である。以後、『牧羊神』は東京の寺山の手によって編集・発行されることになった。
どうにもならない 赤字 牧羊神も五号 諸兄姉の御助力を願う。寺山氏から発刊依頼されたのが十八日(7月18日)、出来る予算の範囲でつくすだけの事はしたが、馴れない為に、期待を裏切ったかも知れないが精一杯だ。
発行日の追はれている牧羊神を多忙な仕事の中から笑って引受けてくれた筆耕者と印刷所え、改めてよい作品を発表して、感謝したい。
一九五四年 夏
戸谷政彦
牧羊神について
同人自らの労きにより4、5号を一緒に発行出来ましたことを喜びたいと思います。
6号以後の発行のため、更によりよい雑誌を発行すべく次の点についてお願いいたします。
雑誌は隔月定期発行とします。したがって今年度は十月に6号十二月に7号を発刊出来る訳であります。更に――同人費を200円にあげ、会員を別に設けます。会員は会員費50円を納めます。
従来の同人が、以後同人として活動を続行下さるか、又会員として活躍なさるかは当人の意志とします。
同人は例月最低十句を発表し、会員は最低五句を発表できます。座談会やその他の企画は同人を常に中心として行います。したがって会員は俳句革新的な行動に対して実作以外では協力できない場合もあります。できるだけ同人に参加下さることを編集部では期待しております。
下記要項をお読みの上、作品及び同人費(会員費)を期日までお送り下さい。同人費(会員費)同封なき場合は受付けません。尚、休稿(6号にのみ)なさる方は、その旨返信し、同人となられるか、会員となられるのかの態度を明かにしていただきます。(以下略)
寺山修司
引用の二つの文章は、『牧羊神』第5号に挟み込まれていたガリ版刷りメモの一部である(戸谷の文章は全文)。戸谷が書いているように、第5号は7月18日に編集が始まり、わずか2週間ほどあとの31日に慌ただしく刊行された。それはページ数にも現れている。第4号は30ページなのに対し、第5号はその約半分の16ページである。寺山が書いているように、彼は『牧羊神』を『隔月定期発行』すると決めていた。しかし『牧羊神』創刊は昭和29年2月1日だから、この月を基点にすると第4、5号同時発行の7月31日までは約6ヶ月である。つまり3号分、第2、3、4号を出せばいいわけであり、京武が青森で編集発行した第4号で隔月刊の帳尻は合う。しかし寺山は京武の第4号に重ね合わせるように、急きょ第5号を東京で刊行したのである。
簡単に言えば『牧羊神』第5号は、寺山が名実ともに主催者として始めた第二次『牧羊神』である。寺山が少なくとも18歳の高校3年生当時、目から鼻に抜けるような、あるいは生き馬の目を抜くような文学秀才だったことは間違いない。その才気と編集センスは驚くべきものだった。彼は東京の大学に進学して中央詩壇に接近した。ただそこで必要とされる戦略は青森にいた時とは大きく異なるものだった。第5号の緊急出版は、もはや『牧羊神』編集を京武に任せておけないという彼の強い意志の現れだったと言える。また寺山は東京で、戸谷ら、青森時代の右腕である京武に代わる人材を見つけ出している。
内省者・京武は相変わらずのお人好しである。彼は第4号後記の『POST』で『すでに報知されていることではあるが、次号から待望の東京発刊となったのであるから、僕たちはより以上にあばれるべきである。十代を象徴する僕たちの〈牧羊旗〉を頭上にかゝげて踊る至上の日が来たのである。円滑な移動と活動を祈って下さい』、『この頃、「牧羊神」所属の諸兄は多方面に活躍しだしたことはうれしい。いわゆる十代ばかりの発表誌(「学燈」「螢雪時代」など)に、総合誌に』と書いている。
京武は、寺山が『牧羊神』で何度も書いていたように、この雑誌を拠点に俳句の世界を革新するのだと信じ込んでいた。確かに同人の誰もが『牧羊神』を最重要のメディアだと考えていたのなら、自己の姿勢や思想を明らかにするために商業雑誌に寄稿するのは喜ばしいことである。だが肝心の寺山の本当の目的は別のところにあった。寺山の目的は『牧羊神』を踏み台に、彼がより広く魅力的だと感じていた中央商業詩壇・文壇に打って出ることだった。
私は寺山を批判するつもりはまったくない。大方の同人誌は、商業メディアで活躍することを熱望する『寺山修司』的作家たちの寄り合いなのだ。詩歌の世界で少しでも目端の利く作家はまず先行世代を批判することからその活動を始める。そこで頭角を現すと、面座すれば実に手強い先行世代作家たちが鎮座する商業詩壇・文壇に簡単に取り込まれてゆくのである。詩歌の世界で新鋭と呼ばれる作家はほぼ例外なく革新と改革を唱えるが、自己の活動拠点(新たな媒体=メディア)の確立を含めて、その意志を貫徹できた作家は文学の歴史上ほとんど存在しない。俳句の世界では俳句評論社を主宰した高柳重信と、媒体は持たなかったが一切の妥協を排して自己の道を突き進んだ安井浩司くらいか。
最後の旗手
俳句はもう百年足らすで亡びる。と中島鵡雄氏が言った。――つまり僕等の仕事の出来具合によって俳句とはどんなものであったかをはっきりと文芸大衆に印象づける訳ですね。と僕は聞きかえす。千空氏(俳人・成田千空[大正10年(1921年)~平成19年(2007年)]のことか)に
大綿や亡びゆくもの芸こまかし
とゆう作品があるがこれはある意味での天狼(山口誓子、西東三鬼、永田耕衣らが参加していた俳誌)のトリビアリズムを指摘したものだとも思えてくるのである。僕らには社会性の「公」と「私」の問題写生の実相観入と「薔薇」(富澤赤黄男、高柳重信らの俳誌)のシンボリズムの問題人間探究と哲学との切点の把握の問題など無限の問題が横たわっているのである。
百年――それは一本の樅の木の成長の様に常に火を内臓し乍ら前進しなければならない労力を必要とする。僕等最後の旗手、僕らは僕らにだけ許された俳句の可能性を凡ゆる角度から追及せねばならない。ロマンロランは「今有難いのは明日がある事だ」と言ったが僕らにとっても是程はっきりとした「明日」とゆう日は又とあるまい。
焚火火の粉われの青春永きかな 草田男
(『牧羊神』 NO.5 『pan 宣言』)
引用の文章は『牧羊神』 NO.5 巻頭に掲載された『pan 宣言』である。署名はないが間違いなく寺山の文章である。内容は『N0.002 『牧羊神』 その二(第2、3号)』で引用した『pan 宣言(一)』とほとんど変わらない。寺山はさっそく東京で中島鵡雄と面談したようだ。また人間探究派の『天狼』や台頭しつつあった社会性俳句、それに前衛俳句の牙城『薔薇』などの動向を視野に入れ、そのいずれとも異なる革新的俳句を創出するのだと宣言している。
それにしても寺山の文章は目に優しく心地よい。寺山はいつも夢を語る。ぼくら、わたしたちには無限の可能性に満ちた明るい未来が開けているのだと感じさせるような文章を書く。それが根強い寺山修司ファンを生み出し続けている理由である。それはそれでよい。いくらでも寺山の著作から元気と勇気をもらえばいい。しかし紙の上に記されたインクの染みを、額面通りに受け取るのは素人にのみ許された無邪気な特権だ。文学の専門家には専門家の読み方がある。
なぜ寺山が『pan 宣言』で書いたような俳句への真摯な姿勢をいとも簡単に捨て去ったのか、なぜ自らの俳句を焼き直した短歌で『短歌研究』誌の賞を受賞したのか、やがて俳句も短歌も放棄して自由詩の世界へ活動の場を移し、しかしどうして中途半端な詩集『地獄篇』一冊しか刊行できなかったのか、劇団『天井桟敷』の主催者として演劇・映画界で脚光を浴びながら、なぜそこで十代から二十代の時に書いた俳句や短歌の言葉や観念を焼き直し続けたのかは文学の問題に属する。
わたしたちは鎌倉文士に憧れるような『文学ファン』ではない。わたしたちが問題にするのは常にいつも文学の問題である。テキストに立脚すれば、寺山の代表作はほぼ『牧羊神』前後の期間に書かれた俳句作品に限られる。寺山は50歳で亡くなったが、青春期以降の長い長い余生を生きた作家である。だが彼は、それを衆人環視のもとで最後まで巧妙に隠し通した。そこに寺山文学の大きな虚偽がある。究極を言えば、それを指摘すれば、文学を生み出す作家自身への批判に至り着くこともあり得るのである。
寺山は上京して、多くの高名俳人の処へ出向いたらしい。彼はそれを得々と語った。著名な俳誌、たとえば秋元不死男「氷海」、中島鵡雄「萬緑」、山口誓子「天狼」といった具合に投句し、それがまた上位に入るのである。火と水のごとき草田男、誓子へ両掛けで投句し、己が《術》を打診するその姿勢の根本を私はすこぶるいぶかしく思ったものだ。後年になって蓋をひらいたら、ちゃんと高柳重信にも来ていたというから、そのぬけ目なさには驚かされた。
私達は寺山修司を〝向日性〟という形容のもとに語った。それは今にして思えば少し出来すぎの装飾詞だったが、ともかく彼は手に取るものを相対化してはのし上がりたかった。人生の「巻頭」や「特選」が欲しかった。(中略)俳句、短歌、現代詩、文化批評、演劇と《術》を弄して転化したコースは、寺山の人生論において全く必然の道理である。(中略)
そういう俗を含めて、人生の「巻頭」も「特選」も、みな加留多の札と同次元の寺山修司の〝夢〟というものだっただろうと思う。(中略)けっきょく寺山修司の夢が何だったか、それは「霧島昇」(昭和初期から戦後にかけて一世を風靡した流行歌手)そのことに尽きると言ってよいだろう。誰か故郷を思わざるの「霧島昇」は、いわゆる正夢として寺山自身の中に内面化した時代の最大のシンボルであった。そこには戦中の時がふくまれているばかりか、父や母の時が息づいていた。もしや寺山にとって戦前、戦中、戦後の三つの時間を越え得た唯一の、夢を主催する時代の〈神〉であったのかも知れない。そこには時間を越える〈力〉のまま、いつまでも〝修ちゃん〟なる夢の延長願望なる時もふくまれていたのである。
(安井浩司『詩歌、俳句における寺山修司』昭和63年[1988年])
安井浩司は寺山文学に対して一貫して批判的である。それをメディアで華々しく活躍した寺山に対する嫉妬、あるいは『牧羊神』後期において同人を馘首されたことによる恨みと見る人たちもいる。しかし違うと思う。安井は寺山を良く知っている。その性格も含めて知りつくしている。何の利害関係もなく青年時代に遊び回った仲間のことは、いつまでたっても手に取るようにわかるものなのである。Aというアクションが起これば、右を向くか左を向くかまで確実に予測できる。それが同世代というものである。
寺山ファンは多い。喜ばしいことである。ただ一方で厳密に文学の問題として、寺山がどのような作家であったのかを認識しておく必要がある。文学の専門家は世間一般の評価とは別に、過大評価に対してはきちんと自己の見解を述べておくべきである。寺山はジャーナリズムの世界を泳ぎ回る天才だった。だが文学者としては十代から二十代にでその才能を燃やし尽くしてしまった文学秀才の一人である。それは『牧羊神』を読めばはっきりわかる。
鶴山裕司
* 『牧羊神』第4、5号の書誌データは次回掲載します。
■ 『牧羊神』 第 5 号に挟み込まれていた戸谷政彦のガリ版刷りメモ ■
■ 『牧羊神』 第 5 号に挟み込まれていた寺山修司のガリ版刷りメモ ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■