LGBTは純文学の世界で主題として定着している。当事者が書くことが多いが、ヘテロの作家でもそれなりにこの主題を援用するようになった。ただ松浦理英子さんの『親指Pの修行時代』が話題になった一九九三年頃はテーマとして非常に新鮮味があったが、最近ではLGBT小説だから注目されることはなくなっている。
もちろんLGBTは大きな社会問題で、つい先頃も国会でLGBT法案成立が見送られることが話題になった。ただ社会問題と文学は違う。もちろん小説でも差別問題などを真正面から主題にした作品はあるが、あまり高い評価は受けていない。文学では一律に解消されるべき社会問題とは別に、個の存在基盤に食い込むような作品の方が評価される。
サラリーマンだって内実を見れば同じ立場の人はいない。家庭生活においても同じである。LGBTも同様だ。フーコーは確か「われわれは懸命に同性愛者になろうとすべきだ」と言っていた。ゲイという均一化されたカテゴリーは存在しない。人それぞれに自らの存在理由、社会的立ち位置を見出さなければならない。ただLGBTの場合、人間の存在基盤の見出し方が作家独自のものになる可能性がある。それが新たな人間認識に繋がれば優れた〝純〟文学になるだろう。
「なんでこういう空気になんだろね。悪いことしてるわけでもないのに」
男は眉毛をハの字に開き、ゆりなと秀樹の顔を交互に覗き込む。
「うん、やっぱ秀樹さんのせいだな。ちゃんと説明しよ」
肩先を軽く叩かれて、秀樹はいたずらを見つかった中学生のように体を震わせた。(中略)
「半年くらい前だっけ? 秀樹さん取引先の人と一緒に店に来たんだよね。初めてとかで、めっちゃびっくりしてたけど、最初からハマってたよね」
店、という言葉にゆりなは鳥肌が立つのがわかった。カラオケと女性の恰好をした男の存在だけで溢れそうになっていたコップの水が、一気にふちを越えて零れるのがわかる。
仙田学「剥きあう」
仙田学さんの「剥きあう」はゆりなが主人公である。サラリーマンの秀樹と結婚しているが帰宅が遅くなる日が続いた。飲み会だというが家で自分のものではないつけまつげを拾ったゆりなは秀樹の浮気を疑う。ゆりなは秀樹の勤め先まで行き後をつけた。秀樹はカラオケ店に入っていった。中を覗くと女の姿が見えた。ゆりなはドアを開けて中に踏み込んだ。秀樹は女と向かい合って座っていたが、少なくともゆりなが恐れたような浮気ではなかった。女は女装した男で奈々と名乗った。新宿二丁目の女装子クラブで出会い、毎回クラブに行くと金がかかるのでカラオケ店で化粧の仕方などを教えてもらっていたのだった。
秀樹は蒼白になって「ごめん」と謝るが奈々は落ち着いている。「悪いことしてるわけでもないのに」と取りなす。女装趣味はあるが秀樹は男と浮気していたわけではないということだろう。奈々は自分の女装趣味は告白していないが既婚者だと言う。「秀樹さん、奥さんいなくなったらダメになっちゃうと思うな。うちも一緒だけど」とゆりなを諭す。しかし当然だがゆりなは納得できない。なぜ女装なのかと秀樹を問い詰めるが答えない。代わりに奈々が「それ、わかんないんすよ。奥さん一緒に考えてくれません?」と言った。なぜ女装なのかがこの小説のテーマとして設定されている。
秀樹はいつの間にか手を止めていた。鏡の中の自分の顔を覗きこむように背を丸め、肩を落としている。そのまましばらく動かなくなった。現実には存在しえないという意味で、理想の女性。女装をすれば、その女性を存在させることができる。でも、それは自分なので会うことはできない。そのときどきに口にする言葉を繋ぎあわせるうちに、女装について秀樹がそのように考えているらしいことがわかった。
自分には触れてこようとしない夫のために、理想の女性になるための手伝いをしている。そう考えると、何かがつっかえているように胸の奥が重くなることがあった。
「ひでくんはひでくんなんじゃないの。中身まで女になっちゃうわけじゃないじゃない」
「でも男でもないんだ。男のおれ、っていうかおれのなかの男の部分に求められてる何かになってる感じ。男とか女とか何なんだろうね。自分で選んだわけでもないのに生まれた瞬間から決められててさ、それに一生が左右されるんだよ」
「そういうのが嫌なんだね」(中略)
「女装してるとさ、欠けてたものがぴったり埋まる気がするんだ。すごく落ち着く。でもそれは自分自身でいるとか自分を取り戻すとかとは真逆で、自分を消してることかもしれなくて」(中略)
眉間に深い縦皺を刻んで鏡を睨みつけている秀樹の肩に、ゆりなは手を添えた。(中略)この人は、自分のことが嫌いで嫌いでたまらないんだ、とゆりなは気がついた。だから私のことも。じゃあなんで一緒にいるんだろう。なんで私はこの人が理想の女になる手伝いをしているんだろう。
同
ゆりなは女装趣味のある夫を理解しようと化粧と女装を手伝うことにする。それにより奈々が発した「(なぜ女装なのか)わかんないんすよ。奥さん一緒に考えてくれません?」という問いは、とりあえずの解答に達している。秀樹は「現実には存在しえない理想の女性」を求めている。理想の女性になりたいから女装する。その意味で女装は自己愛に近いナルシシズムである。自己の中にある理想を自己に重ねてうっとりするからだ。女性が化粧して着飾るのとさほど変わらない。
一方で秀樹は性別男性なので根本的な矛盾が生じる。理想の女になりたいと言っても男には越えられない性差の敷居がある。女性が化粧し着飾ってうっとりしたりガッカリするのとは違うのだ。女装すると「すごく落ち着く」が同時にそれは男の自分を「消してること」になる。矛盾を強く意識すれば「自分のことが嫌いで嫌いでたまらない」状態になる。トランスジェンダーの心理をよく表しているが、秀樹が彼の中にある理想の女性像と戯れているだけなのか、本質的に理想的女性になりたいのかハッキリしない。つまり彼は自己愛と自己嫌悪の両極で揺れている。自分固有の独自の居場所を見出しているわけではない。
――おれがしたかったことは、欲しかったものは、本当にこれなのかな。
互いの背中に腕を回して緩く抱きあいながら、布団のなかで秀樹は呟いた。ゆりなはその背中をさする。何年かぶりに触れた秀樹の体は記憶のなかのものより厚みを増していて重く、熱かった。秀樹の言葉は渇いた喉を潤す水のようにゆりなのなかに入ってきた。
――そうなんだよ、これでいいんだよ。
ゆりなは秀樹の背中を撫で続けた。何も間違ってないんだよ。私たちはずっと、正しかったんだよ。でもね・・・・・・。
同
ゆりなは秀樹の女装を手伝い続け、女装した秀樹と久しぶりにセックスする。秀樹は「おれがしたかったことは、欲しかったものは、本当にこれなのかな」と満たされない。ゆりなは「これでいいんだよ」と答えるが「でもね」と気持ちは反転する。ゆりなはあくまでヘテロの側にいて夫を手伝っていただけだ。ゆりなも秀樹も本質的問題が解消されていないことに気づいている。ゆりなはこの後家を出る。恐らく別れることになるのだろう。
「剥きあう」は秘密の暴露、その探求と小説的物語展開をキッチリと踏まえた小説である。ただゆりなと秀樹が互いの考えを残酷なまでに剥き合ったというレベルにまでは達していないように思う。同じテーマでトランスジェンダーの男性を主人公にした小説を読んでみたい。
大篠夏彦
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