小暮夕紀子さんの「裸婦」はいわゆる母モノである。母は小説の永遠のテーマの一つだが、純文学系の作家で母を主題とする小説を書く人が増えていると思う。もう一つ増加の気配を見せているのが幼年期である。なんらかの形で子ども時代を小説に描くわけだ。
もちろん母と幼年期はたいていの人の中で強く結び付く。人間存在のアルケーである。そこに作家の視線が集中しがちなのは現代では確実なテーマが見当たらないという理由が大きいと思う。なかなかこれと言った作品テーマが見当たらない時代に、人間存在と自己の源基に遡り、それを確認しようとする小説だとも言える。
「珍しいわねえ、頼みもしない日に来てくれるなんて」
母は軽い咳を二つ三つして、ゆっくり腰をあげた。竹ザルの中の大根をかさかさかき混ぜ、また広げ直す。(中略)「乾燥野菜をおいしくつくってくれるのはお日様と風。その両方の恵みをザルの中のみんなが等しく受けられるよう気配りする」、それが「ふみ子おばあちゃん」の技だった。(中略)詰めた袋の口をコテで止めて、「ふみ子おばあちゃん」シールを張る、(中略)大根だけでなく、庭のミニ菜園で収穫できたものをなんでもかんでも乾物にする。ちゃぶ台の上には常時、コテと台座が出してあった。
かき混ぜながら、母はもう右側のザルにまで行った。その背中に、桐子はぼそりと言った。
「おとうさん、死んだのよ」
母は動作を止めることなく、
「そう」
と言っただけだった。まるで知らない人の話を聞いたかのようだった。
小暮夕紀子「裸婦」
「裸婦」の主人公は桐子である。母は七十代だが年より老けて見える。去年の末に肺ガンと宣告されてもいる。あまり余命は長くない。ただ寝込んでいるわけではなく、自宅の庭で採れた野菜を乾燥させて「ふみ子おばあちゃん」の乾燥野菜のパッケージにして売っている。自活の意志の強い、働き者の母の姿が伝わってくる。
小説は桐子が母の家を訪ね、父が死んだことを伝える場面から始まる。父と母は二十年前に離婚した。いわゆる熟年離婚で娘の成人を待って離婚したということだ。父は自宅で一人暮らしだったが石段の下で冷たくなっていた。身体が弱っているのに相変わらず酒を飲み寝込んでしまったのだろう。葬儀などは桐子の方でもう済ませてある。
元夫の死を知った母の反応は「そう」とそっけない。底の底まで知り尽くして別れた男だから当然と言えば当然だ。ただ娘の桐子の胸の内はざわつく。これも当然だが娘は母ほど父に愛想づかしできない。父がいなければ自分はこの世に生まれてこなかったからだ。また平然としているが母も思うところはある。「裸婦」は父の死を契機に桐子がその過去に向かい合う小説である。
そして、母に背中をさすられながら、わざとなのかどうなのか特別大きな声をあげて吐いた。桐子はもわっとにおう洗面器をのぞきこんだ。
「おとうさん、ホルモン食べた?」
「おおっ、桐子も食べたいか」
「食べたい、食べたい、食べたい」(中略)
「おとうさんの息、スモモみたい」
「そうか、スモモも旨いぞ、夏になったら食おう」
「食おう、食おう」
そしてふたりで、即興の「食おう食おう踊り」をして、がっはっはと笑った。
母親は薄いほほえみを浮かべていたが、にわかに醒めきった顔になり、水をくんで来ます、と背を向けた。そのとき、どこからか低い声が聞こえた。
「なにがスモモよ」
一瞬、床板のきしみかとも思った。
「おかあさ・・・・・・?」
桐子はすぐに母の後ろを追おうとしたけれど、母は振り向きもせず廊下の果てに消えていった。薄暗い廊下に桐子は残された。
同
父親の家は土地持ちで、多くの土地を手放してはいたがそれでも地代収入があった。幼い頃から坊ちゃんと呼ばれ甘やかされて育ったボンボンだった。若い頃は画家になりたいと口走ったが本気で絵に取り組んだ気配はない。大人になると結婚して子供までもうけたのに真面目に働こうとしない。しかし毎晩のように酔って帰り、吐いては母の手を煩わせた。
それに対して母はしっかり者で、家計を助けるために栄養士の資格を取って病院で働いていた。桐子は祖母と過ごす時間が多かった。祖母っ子だったのだ。祖母もまた傘の布張りの内職にいそしんでいた。祖母は父について「ふみ子さんに申し訳ない、ご先祖さまに申し訳ない」と言った。祖母は内職の最中に急死したが、死後に祖母に代わって内職代を受け取った母は「これだけのためにおばあちゃまは」と絶句した。「裸婦」は喜びと苦しみをもたらす父を、男を巡る女たちの物語である。父が負の焦点になっている。しかしわずかながら喜びを感受したのは主人公の桐子だけである。
ボンボン育ちの父は子供のようなものだ。気まぐれで子供のようにだだをこねる。子供のように妻に身の回りの世話をさせる。吐いた汚物の処理をさせても平然としている。しかしだからこそ子供の桐子と通じ合うものがある。それに水を差すのが母親だ。ホルモン焼きを食べた後に吐いた父親の息がスモモ臭いと言って笑い、楽しげに踊る父と桐子に母は「なにがスモモよ」と吐き捨てる。母はじっと絶えている。それは桐子もわかっている。しかし母との間にある敷居のようなものをどうしても超えられない。
石灯籠のなくなった母の庭は、そこだけこっぽり丸く草がなくて、黒い土がむき出しのままだった。その場所はまるで、なかなか癒えない生傷のように、冬至過ぎの淡い光にさらされていた。
そして母自身は、石灯籠を返したら、なんとなく庭がすうすうするのだと言う。そのせいか咳がひどくなったし、血痰まで出るようになった、そのうえ、
「寂しい」
とも言う。
電話してくることが、前にも増してひんぱんになった。
同
母は父と離婚する際に全財産を父に渡していた。父は家にあるもので欲しいものがあるならなんでも持っていけと言ったので、父が酔って立ち小便して汚物をぶちまけた古い石灯籠を新居に運んで来た。父の死を知った母は、それをかつて自分も暮らした父の家に戻したいと言ったのだった。
なんで石灯籠なんか持ってきたのと聞いた桐子に、母は「あんなに(父の小便や汚物を)洗った仲ですもの、離れがたいわよ」と言った。言うまでもなく母親の言葉は様々に解釈できる。母は不毛だったが消し去ることのできない結婚生活の片身として石灯籠を手元に置いた、あるいは不変の何かを求めたという解釈も可能だ。
桐子はまた、母を乗せた車の中から幼馴染みの伊っちゃんを見る。小学校まで仲良くしていた気のいい男の子だが、伊っちゃんは中学からは地元の支援学校に通い交流がなくなった。もう何十年も経っているのに伊っちゃんは小学校時代の自転車に乗っていた。しかも相変わらず桐子が小学生の時にあげた野球帽をかぶっていた。その野球帽が風で飛ばされトラックにひかれてボロボロになった。それを目撃した桐子は「得体の知れない感情で目の奥がきゅうっとなったが、すぐにそれを押しのけて込み上げてきたのは、怒りのかたまりだった。「ばっかじゃないの、伊っちゃん」」とある。もちろん声はかけない。
伊っちゃんの姿も様々に解釈可能だ。彼は変わらない。だがすべて失われ壊れてゆく。しかし過去の痕跡は消せない。すべてのエピソードが線ではなく点線で繋がっている。
「今、おもしろいお話を思いついたの」(中略)
「フミコは潜るのだって自信がある。海底深く潜ったら、向こうから大きな布状のものが流れてきた。エイだろうかと思ったら、みるまにそれはフミコのからだを覆った。息苦しくなって気を失い、気づいたら、からだは白い着物を着せられて棺の中にあった。安らかな顔だった――これ、どう?」
「とってもくだらない」(中略)
桐子の声は聞こえなかったのか、母は長いブランクを一気に埋めるように、夢中でいろんな泳ぎを試す。(中略)天井岩の下にロープが張ってあって、「これより向こうは改修中、危険」と書いてある。しかし母はもぐったまま、その下をゆうゆうと通り過ぎたはずだ。(中略)こちらからは姿が見えない。(中略)
「おかあさーん」
桐子の声が、おばけ屋敷の中のようにこだまする。
「おかあさーん」
もう一度呼んでみても返事はない。
こんなこと、かつてあった気がする。
同
桐子は母に会うと「(洗濯もの)たたむの、手伝わないわよ」「お料理、手伝わないわよ」と素っ気ない。冷たいのでは必ずしもない。母は自立した女性だった。また黙って耐える女性でもあった。娘である以上、耐える母を非難することはできない。しかし母の姿は桐子にはずっと微かな異和と苛立ちとしてあった。
桐子は母を連れて温泉に行く。天然の洞窟を利用して作られた大浴場に人はおらず、少女時代に泳ぎが得意だった母は自在に泳ぎ回る。桐子は少女の頃から何度も母が泳ぐ奇妙な夢を見ていた。これもまた様々な解釈が可能だが、母の泳ぎは自由を示唆しているのだろう。しかし母は父を棄てて自由に泳ぎ去らなかった。実際に泳ぎ出したとき、もう彼女の命は尽きかけている。
温泉の洞窟の中に消えていった、つまりはフェードアウトで小説を閉じるのは純文学小説の一つの文法とも言える手法である。「裸婦」に張られた複数の伏線が点線で結ばれながら明確な焦点として、線として結びつかないのも純文学小説的な作法の一つである。余韻に小説を流して終わるのである。ただこの先どうするのかは作家によって道が分かれるだろう。
「裸婦」が小暮さんという作家にとって、書かなければならない重要な主題なのは疑いない。このまま純文学的小説作法に従えば純文学作家として評価されるかもしれない。しかし読者は破線が線になることを望みもするだろう。それを大衆文学と言うのは間違いだと思う。破線を線にしても余白は、謎は残る。母が自在に泳ぐ姿を描いたように、小説もまた自由である。
大篠夏彦
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