精神的飢餓はいつの時代でも文学の大きなテーマの一つである。自己を変え、社会を変えてゆきたいという指向は誰にでもある。ただ文学の場合、それが人間の善として表現されるとは限らない。原初的生存本能を剥き出しにして、他者を騙し踏みつけるような人間を描くことも許される。有吉佐和子や松本清張の作品が典型的だろう。彼らは日本の文壇制度では大衆作家に分類されるのかもしれないが、その最良の作品は文学で表現できる最も〝純〟な人間本質を描いている純文学である。ただ彼らのような戦後文学的方法はすでに過去のものだ。
戦後文学は社会状況がそうであったため、精神的飢餓をリアルな肉体的飢餓に重ね合わせて表現することができた。昭和四十年代までは確実にそれが可能だったし、昭和五十年代(一九七五~一九八四年)でも不可能ではなかった。一九九〇年代頃まで日本はまだ〝モダン〟の精神状況にあったからである。まだまだ欧米のモダン=現代に遅れているという意識が強く、海外思想や文学を目を皿のようにして移入し続けていた。いち早くそれを援用した者がインテリと呼ばれる時代が続いていた。
ただ二〇〇〇年頃から日本はハッキリと欧米先進国と横並びになり、相互影響を与えるようになった。もちろん海外思想・文学の翻訳は続いているが大きな話題になる本は少ない。もう精神的飢餓を〝外〟に求める時代ではないのである。肉体的飢餓がほぼ解消されているのは言うまでもない。食べる物もなく餓死した人がいると大きなニュースになる。日本の社会保障制度はそこまで薄情ではないと識者は言う。その通りなのだがどうしようもなく不器用な人はいつの時代もいる。
またたいていの人間は他者の欲望を生きるから、食うには困らなくとも貧富の格差が拡大すると「不公平」と喉元まで出かかったりする。SNSでそれを声高に主張することもできる。しかしその主張は異なる意見の人の声高な声に相殺されがちだ。多くの人が自己責任という言葉を嫌う。では強大な政府による、一律に豊かな社会主義的制度を望んでいるのかと言えばそうではない。自己の窮状は他者責任とは言い切れない自由な社会に私たちは住んでいる。
現代では精神的飢餓が肉体的飢餓に直結しない。戦後文学のように生きた社会的主題にはなりにくいということである。もちろん変化を求め、新たな社会(未来)を求める精神的飢餓は人間存在が抱える根源的欲求である。しかし現代では〝敵〟がいない。自己以外の外部に確実な仮想敵を設定するのが難しいのである。
俺はもうすぐ五十歳です。貯金はまだなくて、時給一〇〇〇円で週に五日、ちいさな製麺工場で働いています。正確にいうと、俺の時給は一〇三〇円で、働きはじめてから半年ごとに一〇円ずつ昇給していて、最賃割れはなかったとおもっています。昇給のときはかならず面談があって、工場の片隅のうらぶれた別室で上司と一対一でむきあいますけど、時給が一〇円あがるだけとわかっていても、社長の逆鱗じゃなくて社是にふれることになるらしいので、俺はあたりまえですけど上司だって、この〝儀式〟をまぬがれることはできません。
岡崎祥久「キャッシュとディッシュ」
岡崎祥久さんは一九六八年生まれなので、「キャッシュとディッシュ」は作家自身をモデルにした小説ではないにせよ、作家と等身大の五十代の男を素材にした小説である。男は非正規労働者である。最初の時給が千円で半年ごとに十円上がるとあるので、働き始めて一年半といったところだ。職を転々としているようだ。
ではこの小説が非正規労働に追いやられた社会の歪みを批判しているのかというと、まったくそうではない。十円の賃上げごとに上司と面接というのは少しおかしみを感じるが、もちろんユーモア小説でもない。
ただ「俺はもうすぐ五十歳です。貯金はまだなくて」という書き出しからは、男がもやは明るい未来を期待していないことが窺える。金に困っているのは確かだが、自助努力でもっと稼ごうという気配はない。男は自分の窮状を他人事のように眺めている。
要点から先にいってしまうと、あの〝皿〟から水をかけると水のかかった物は消えて、その代金がそっくり戻ってくるので、ようするに換金ないしは返品・返金です。
最初のとき、つまり〝オレンジ色のスポンジ〟で〝皿〟をあらったときのことですけど、あらいながら〝皿〟から〝ぬるま湯〟をかけたものだから、真夜中になるとスポンジは消えてしまい、現金にかわったというわけです。
同
男のアパートに七年ぶりに弟がやってくる。叔父が失踪して一定期間が経ち、失踪死が宣告されたのでその費用を負担して欲しいと言いに来たのだ。費用は七二八円。男は収入が少ないからこそだろうが、細かい家計簿をつけていた。弟も兄と同じくお金に細かく、家庭があるので兄ほどではなかろうがそれほど裕福ではなさそうだ。
ただ弟には兄思いのところがあった。男の窮状はなんとなくわかっている。弟は叔父の遺産はまったくなく、また失踪した部屋はガランとしていて皿一枚だけが残されていたと言う。それを男と弟で処分しなければならないわけだが、不要品の皿を男が引き取ってくれるなら七二八円は負担しなくてもいいと言う。男は皿をもらうことにした。
この皿が不思議な力を持っていた。皿から物に水をかけると物が買った時の現金になって皿の上に乗っているのである。ただし自分で買った物以外は換金されない。また食べ物や家賃光熱費の領収書に水をかけてもお金は戻らない。部屋の中にある、消え物ではない自分で買った物以外はダメなのだ。この不思議で便利な皿を手に入れてから男がどうなってゆくのかはもうだいたい想像がつきますよね。
物がひとつもなくなったフローリング風の床にすわり込むと俺は〝皿〟の水をピチャリと自分の頭にかけました。(中略)
〝皿〟をそっとおいて床に横たわると俺はしょんぼりとつぶやきました――こんなにいい物をもってたのに、俺はうまくやれなかったな、と。
俺ののぞみはというと、しずかに消えていくことだけです。できればきれいに、あとかたもなく。もう、それだけでいい。というか、ずいぶん前からそれをねがいつつ生きてきた気がします。なので目下の心配事はといえば、明日の朝、まっぱだかで目をさますのじゃないかということです。いくらなんでもそれは最悪すぎますから。
同
こんな便利な皿があれば、他人に貸して手数料を取ればリッチになれる。皿は持ち主を選ばないようだから。もちろんこの夢想は無意味で、皿は男を自滅させこの世から葬り去るために男に届けられたのである。その意味で「キャッシュとディッシュ」は絶望小説である。ただその絶望には熱がない。もう絶対に未来に夢がない男の生を終わらせその最後を少しだけドラマチックにするために不思議な皿が登場している。
まだ非正規雇用が社会問題として目新しかった二〇〇〇年紀には、社会問題を取り混ぜて貧困を主題にした純文学小説がけっこう書かれた。しかし未来に希望を持っているとこの問題を文学で表現するのが難しくなる。村上龍がある小説について「非正規で働いてる主人公の苦労が描かれてるんだけど、主人公が一番繊細で頭がいいんだよな。あんな人なら今の世の中、なんとかなるんじゃないの」という意味のことを言っていた。
たいていの小説がそうだが、主人公は感情豊かで知性も発達した利口な人になりがちだ。社会からのドロップアウトを主題にするとそれがネックになる。ただ戦後の『細うで繁盛記』の時代ではないのだから、社会底辺からの上昇志向では現代小説として物足りない。じゃあどこに抜ければいいのかということになるが、その出口もハッキリしない。リッチになることも貧困に留まることも小説的には主人公の意志になってしまう。
「キャッシュとディッシュ」はこの袋小路から絶望の方に舵を切った現代小説である。男は働いている製麺所の事務員の女性に恋心とも言えないような恋心を抱く。もちろん女事務員は男を一顧だにしない。ただ女事務員は同僚に「あの人わかりにくいよね」と言われ「ああ、あの人はね、わかられたくない人だから」と答えた。「それを耳にした俺は感動しました」とある。俺は自分の意志で他者から、社会から「わかられたくない」。固く閉じた絶望の中で死んでゆくのである。その意味で「キャッシュとディッシュ」は二〇〇〇年紀の非正規社会問題小説よりも一歩進んだ絶望小説である。
もちろん「キャッシュとディッシュ」のように経済的に追い詰められた所から「さて、どうしようか」と始まるのが日本的なしぶとい私小説である。ただ現代では私小説を書くのは観念的純文学小説よりも遙かに高い熱が必要だ。私小説は死が救済でないことを知っている。絶望の中で死ぬのも潔しとしない。苦の世界をとことん覗き込む。そうとうに諦めきっていなければ人間なかなか簡単には死ねない。
大篠夏彦
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