一.ケニー・ランキン
出かける、という行為はどこか楽しい。弾む。見慣れた近所の散歩でもいいし、旅行ならばもっといい。なら遠けりゃいいのかと問われれば答えは否。移動時間があまり長いと疲れちゃう。まあ、その疲労も含めて旅の醍醐味なんだろうけど。
先日足を伸ばしたのは吉祥寺。野暮用、なんていうと含みがありそうだけど、残念ながら正真正銘の野暮な用。電車とバスで一時間弱。頭の中は用を終えた後のことばかり。何もなければ午前十一時には解放されるはず。ちょっと早いけど、老舗の蕎麦屋・神田「M」の支店なら開いてるな。熱燗で焼鳥、それくらいの贅沢してもいい。野暮用とプラマイゼロ。いや、ちょっとお釣り来るかーー。なんて皮算用、やっぱりいけません。野暮用、長引く長引く。結局正午を回ってやがる。あーあ、と遠慮なく声に出して、バスで来た道をだらだら歩く。ランチタイムどんぴしゃ。どの店も混んでる。間違いない。この際コロナも関係ない。のんびり熱燗で焼鳥するなら、少々時間をずらさないと。
うらめしい顔つきで歩くこと十五分、景色が記憶を揺り起こす。たしかこの近所に良い店が……あった! 創業六十年の食堂「M」。いつもは駅から少し歩くのだけど、ここからならすぐ行ける。メニューは少し変更して、熱燗と湯どうふ。いいじゃない。あとはすんなり入れるかどうか。祈りつつドアを開けるとセーフ。穏やかな店主が迎えてくれる。「ごめんね、そこで手を洗って、少しドアを開けといてくれる?」。コロナの野郎、ちゃっかり忍び寄ってる。時間的に私以外はランチタイム。マスク越しにこっそり頼んだのは、もちろん熱燗と湯どうふ。此方の湯どうふは大きい。280円なんて嘘みたい。持ち手が焦げた鍋も美しい。これはお銚子一本じゃききません。テレビの音に耳を傾けながら気付けば贅沢な時間。野暮用を差し引いても、たんまりお釣りが返ってきちゃう。
ケニー・ランキンの声はソフト、楽曲の印象も非常に近い。誤解を恐れず言えばイージーリスニング。きっと私の耳は、まだ彼の音楽の魅力を完全に捉えきれていない。だからこそ、なんて開き直っちゃいけないが、オリジナルより他人の曲をどう歌うかに興味がある。カバーって難しい。忠実すぎても崩しすぎても意義が薄まる。その辺り、彼の距離の取り方は絶妙だ。印象深いのは「Blackbird」。言わずと知れたビートルズ・ナンバー。個人的にはベストスリー圏内確実な贔屓曲。好きな曲のカバーは採点厳しくなりがちだが、彼のバージョンは素晴らしい。何せ製作者のポール・マッカートニーがソングライターとして殿堂入りを果たした際、この曲のアレンジを頼んだほど。君のバージョンが一番、と言われたなんて逸話もある。勢いをつけて脱線すると、「While My Guitar Gently Weeps」の彼のバージョンは、本家ジョージ・ハリスンの葬儀にも流れたらしい。
【Blackbird / Kenny Rankin 】
二.ホセ・フェリシアーノ
折角の吉祥寺をこのまま後にするのは惜しい。でも時間的にお目当ての店は開いていない。このタイミングで熱燗と焼鳥はトゥーマッチだしな……。ちょっと難しい顔して商店街を歩く。ああ、そろそろ駅に近付いちゃう。そんなタイミングで見つけたのは、チェーン店居酒屋「S」。金がない時、此方の升酒にはお世話になった。別に今だってないもんね、と迷わず入店。一時を過ぎたからか、地下の広い店内に客はまばら。これもまた贅沢。升酒は流石に値上がりして190円。初めて飲んだ時は140円だったような。今日は奮発して330円の大徳利を。肴は一番お安い冷奴。お、今日は豆腐づいている。
学生時代、「Blackbird」はカラスだと思っていた。正解はスズメ目ツグミ科のクロウタドリ。単に「つぐみ」、または「黒つぐみ」とも呼ばれる。その「Blackbird」が夜の闇の中の光を目指して飛んで行く、という歌詞の背景は、製作者のポール曰く当時(=1960年代)の公民権運動だという。所謂バンドサウンドとはかけ離れた楽曲だが、その静謐さと美しいコード進行にはじんわり沁み入る魅力があり、それ故カバーされる機会も多い。ケニー・ランキン版が優雅に羽を広げる瞬間のスケッチなら、ホセ・フェリシアーノ版は軽やかに羽ばたくイメージ。盲目の、という注釈などなくても、彼が優秀な音楽家であることは楽曲に触れればすぐ判る。一方、プエルトリコ生まれ、という情報はその他の楽曲にトライする際の道標となるかもしれない。喜ばしいことに七十代半ばにして現役。一昨年も来日公演を行なっている。
【Blackbird / Jose Feliciano 】
三.ジャコ・パストリアス
夭折の天才ベーシスト、ジャコ・パストリアス、通称ジャコパスも「Blackbird」の魅力を表現したひとり。収録された二枚目『ワード・オブ・マウス』(‘81)はアイデアとテクニックに彩られた名盤。ジャコパス版は飛び立つ姿に接近し続け、一枚の羽に内包された宇宙を覗き込むようなスケールの大きさが特徴的。彼の印象的なベースに呼応し、主旋律を奏でるのは名匠トゥーツ・シールマンスのハーモニカ。その演奏は還暦目前とは思えないほど瑞々しい。
豆腐づいた日ならば逆らわない。いや、そちらへ突き進むのが微酔の矜持。こういう大袈裟なことを言いたがる時は、「微」をいささかオーバーしがち。きっと「泥」まであと少し。冷たい風に吹かれつつ、久々の井の頭公園で企てた次の豆腐は、中華料理の立飲み「M」にある。いざムサコ。小杉でも小金井でもなく小山へ。井の頭線をフルで乗り、渋谷から目黒、東急線に乗り換えて三十分ちょい。こちらの麻婆豆腐は250円。ドロリとした食感が堪らない。パチンコ屋の宣伝が入った紙ナプキンで口を拭きつつ、甘めのレモンサワーをもう一杯。
【BlackBird / Jaco Pastorius】
寅間心閑
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