2020年秋季号も三田文學は百花繚乱ですね。自由詩、小説、評論、随筆があり、古井由吉(小説家)追悼、岡井隆(歌人)追悼、それに追悼ではないが岡田隆彦(詩人)の特集が組まれている。座談会は「「世界文学」の現在」。巻末には短歌随筆、俳句随筆、映画評、音楽評、新刊書評が並ぶ。
三田文學は戯曲を除いて短歌、俳句、自由詩、小説、評論、海外文学にまでに広く目配りしているわけだ。追悼系の特集も歌人、詩人、小説家にバラけている。まあある意味、総合文学を打ち出している文学金魚にとてもよく似た誌面構成である。偶然ではあるまい。現状では総合文学的な姿勢は半ば必然だと思う。
ただ三田文學にはジャンルの垣根を越えるような作家が見当たらない。文学ジャンルすべてを網羅しているが、霞ヶ関の官庁のように個々にビルが建っているだけで相互の関連性がない。原稿を読んでも作家は特定文学ジャンルに思考と感性が閉じ込められている。個々に利権を抱えたお役所の縦割り行政のようなもの。前回の批評でも書いたが、いっけんマルチジャンル的だが、三田文學は編集委員たちの温和な話し合いによるページ分割に見えてしまう。見せかけの総合文学かもしれないな、と思わせる。
要するに雑誌として何をしたいのかわからない。大学雑誌だから三田系の作家をうんと優遇しているのかと言えば、そこそこですね、という感じだ。じゃ、三田文學は詩誌なの? 小説誌なの? 批評誌なの? というクエスチョンを立てても多分「全部」と答えるしかあるまい。
総合文学は両手を広げてどこに転がるかわからないラクビーボールを追いかけることではない。一定の方向性を立てなければボールに振り回されるだけでゴールは遠ざかる。目的がハッキリしていなければ百花繚乱はムダ。文学業界の人なら群像がある時期柄谷や蓮實、村上春樹に引っ張られて独自性を発揮したのを知っているはずだ。海燕のスターは古井由吉だった。編集部の方針に沿って作家を選び集めなければ、バラバラの誌面構成を紙で閉じて誤魔化していることにしかならない。その大方針が見えない。
リアルなことを言えば、文芸誌は小説を中心に誌面を組み立てるしか選択肢はない。歌壇・俳壇の細胞は結社であり、結社より上位の商業歌誌・句誌に書き、さらに文芸誌や一般誌に書けるようになるのが歌人・俳人の出世コースだ。文芸誌に書かせても歌壇、俳壇出世競争に利用されるだけで歌人・俳人の内向き志向が変わるわけではない。相当に頭のいい作家が出現しない限り、歌壇・俳壇の枠を超えて影響力を与える原稿が出ることはまずない。実際、短歌・俳句をネタにして刺戟的な本を書いたのは小説家などの方が多い。歌人・俳人の内向き志向はちょっとやそっとでは変わらない。
自由詩は壊滅状態である。戦後のある時期、たまたま戦後詩や現代詩が新鮮だったので自由詩は商業市場があるかのように見えたが、今は創作人口も読者も激減している。しかもお馬鹿な詩人たちがいまだ「現代詩手帖」に忖度して思い切った現代詩からの脱却ができない状況ではつける薬がない。危機感を持っている詩人すらいないのだから、自由詩はお先真っ暗だ。好転材料がまったくない。文芸誌が〝自由詩は安泰です〟のお気楽原稿を並べても事態は悪化するだけだ。
厳しいことを書いたが、今も昔も詩は文芸誌の刺身のツマである。そう簡単には変わらない。たまさか詩が話題になってもその規模はたいてい小さい。文学市場の最も大きなパイは小説であり、小説が元気でなければ詩のジャンルにも活性化が及ばないところがある。つまり総合文学と言っても小説中心に組み立てていかなければ現実面で成功の確率が低いのである。もちろんちゃんとした小説が書ける詩人が文学業界を活性化できる可能性はある。
で、今号には山下澄人、佐藤洋二郎、小池昌代、榎本櫻湖さんが短編小説を書いておられる。偶然なのか意図的なのかはわからないが、ジャンル越境的な作家の作品が並んでいる。山下さんは劇作家でもあり、小池、榎本さんは詩人でもある。期待して読んだのだが、正直に言えば微妙。
山下さんの小説には戯曲を書く際の手慣れが見える。小池、榎本さんも同様。詩人がしばしば書きがちな観念小説になっている。これはある程度仕方がないのだが、他ジャンルに進出する時は、そこにはジャンルの掟があることをハッキリ認識しなければジャンルの垣根は超えられない。総合文学、あるいはマチルジャンル作家とは、文学ジャンルを混交させることではないのである。巨大な世界は多面的であり、異なる側面を捉えるために複数の文学ジャンルが存在していることを腑に落ちるまで考えなければマルチジャンル作家にはなれない。
詩人は小説家が書く自由詩をどこかでバカにしているだろう。詩的だが詩になっていないなどと言ったりする。小説家も同じだ。昔大江健三郎が「詩人で小説を書いて評価された人もいるが、ろくな小説がないじゃないか」と言っちゃいけないことを言ってしまったが、本音だと思う。お上品な詩人は小説の基本は徹底した俗にあることをわかっていない。ジャンルの垣根を越えるのは難しい。
官庁縦割りのような今の文学業界は行き詰まっている。文学市場全体のパイ自体が縮小し、これからも縮小し続けるのが確実な時代に、詩しかわかりません、小説しかわかりませんでは通用しない時代が来るのは目に見えている。文学者は必ずあるジャンルがホームになるだろうが、社会は文学者に文学全般の専門家であることを求めるようになる。情報化時代の知の基本は複雑な情報の的確な組み合わせ能力である。人間的営為のかなりの部分が外面化され膨大な情報として流通する時代に、文学だけが引きこもりのような縦割りであり続けることはできない。
総合文学あるいはマルチジャンルは、戦後文学が完全消滅して何を表現の基盤としていいかわからないガラガラポンの時代に、ジャンルの存在理由を再規定することで初めて可能になる。「古井由吉、誰?」「岡井隆、ああ聞いたことあるけど読んだことない」「岡田隆彦、誰それ? 知る必要あるわけ?」という時代である。知る必要はもちろんある。しかし今生きている現代作家はすでに〝縦割り文学逃げ切り世代〟に乗り遅れている。従来通りで何も変わっていないと思い込めば、確実に生きたまま死んでゆくことになる。それがわからないのは鈍い。一昔前の文脈でいくら「偉大だから」と言ってもムダだ。古い世代の思い込みにしか聞こえない。その必要性を一から再定義して変化してしまった現代に接続してやる必要がある。自己が関わる文学ジャンル、あるいは20世紀までの文学の相対化が必要だ。総合文学やマルチジャンルはそれ自体が目的なのではなく、過去の文学遺産を現在に接続し、未来の文学を構築するために必要なのだ。
わたしは真規子の言葉を思い出すと、手賀沼の静かな風景が脳裏に広がった。手賀沼のマリア。ふとそんな言葉が喉を突いた。手賀沼のマリア? 自分で呟いていながら苦笑した。真規子が蓮の花を台座に座っているのだ。彼女がカトリック教徒だと言ったことが、ちぐはぐな思いに走らせたのかもしれない。沼はぬかるんでいたと言ったが、そこでもがいていた彼女の姿は、当時の生き方と似ていたのではなかったのか。それが今は澄んでいると言う。わたしは改めてよかったなと思った。
佐藤洋二郎「手賀沼のマリア」
今号の小説執筆者の中で小説一筋なのは佐藤洋二郎さんだけである。「手賀沼のマリア」には主人公の私は若い頃、小説家を目指して生活が破綻するほど苦労を重ねたという記述があるので、フィクションを交えた私小説である。
「手賀沼のマリア」は老境に差しかかった私が友人から重大な告白と頼み事をされるストーリーである。友人は若い頃にある女性を妊娠させた。しかし結婚の踏ん切りがつかず、外国に仕事を見つけて逃げるように日本を去ってしまった。友人は病気がちで健康に自信がない。別れた女性とは音信不通だが、娘を産ませたのは確実なので、ささやかだがお詫びと娘を育ててくれた感謝の印に、代理でお金を渡してくれないかと私に頼んだのだった。引用は小説の末尾近くである。
読んですぐわかるように、まあ乱暴に言えば宗教オチ。これはどうなんだろうなぁと正直なところ思ってしまった。日本の私小説の伝統に基本的には宗教オチはない。キリスト教オチはさらに珍しい。だからイケナイと言っているわけではないが、基本的には自我意識の地獄を描く日本の私小説としては物足りない。日本文学として食い込むものがないということである。
「手賀沼のマリア」では恋人を妊娠させてしまった友人も、その相手の女性もえらく物わかりがいい。現実世界の修羅場がまったくないのはなぜかと言えば、宗教的な高次の倫理が小説の上位に設定されているからだ。しかしそれは現世の矛盾を描く小説としてどれほど説得力があるのか。便利な救済設定は、私小説と根本的に相反するように思うのだが。
池田浩
■ 佐藤洋二郎さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■