唐門会所蔵の安井浩司氏折帖墨書作品第三作目は『無日の抄』である。『無日の抄』は縦二十四・五センチ、横八・三センチ、厚さ約一・八センチで、布張りクロース装の表紙に張られた紙に安井氏が表題を墨書しておられる。折りの数は六十枚。巻頭巻末の五面は白紙で、最後から三枚目の裏面に『お浩司唐門会』の雅印が押されている。
制作年月日の記載はないが、巻末に昭和四十六年(一九七一年)執筆で、四十九年(七一年)端渓社刊の評論集『もどき招魂』に収録された散文『中止観小乗』が墨書されている。『無日の抄』の収録句数は十五句である。過半数の八句は第四句集『阿父学』(四十九年[七四年]刊)で見つけ出すことができたが、定稿とは異なる表記の作品がある。また残り七句は収録句集を特定できなかった。未発表句の可能性が高い。従って折帖『無日の抄』は、第三句集『中止観』が刊行された四十六年(七一年)から、第四句集『阿父学』が刊行された四十九年(七四年)の間の三年間に制作されたのではないかと推定される。安井氏三十五歳から三十八歳の時期である。句集をまとめるには一年くらいはかかるから、四十七、八年頃制作ではなかろうか。前回紹介した折帖『同異抄』は第五句集『密母集』(五十四年[七九年])刊行前に作られた私家版墨書句集だったが、『無日の抄』も同じく『阿父学』成立前に作られた私家版句集だと考えられるのである。
以下に収録句と散文『中止観小乗』のテキストを掲載しておく。
瞠(みひら)けば蜘蛛が耳成山にいる(*1)
少年ひそむ煙草畠に煙無し(*4)
乳母車■ひるの苦■の貝ほこり(*4)
白墨のごとくほうらん涅槃の夜(*2)
口密(くみつ)かのひるのいたどりぐさならん(*1)
紺色の百の空家へにしんム(「く」?)き(*4)
かの蛇山こむらがえりの足ならん(*1)
縞蛇も初夜(そや)にうごくまくらぎも(*1)
逆の峰入しずかにしずかに腸よ(*4)
遂にかりがねおちる二階の南北よ(*4)
こうろぎがおどる二階の梵ならん(*3)
煙草畠にわが■■壜が裂けるらん(*4)
おおばこぐさの岬まひるの感染者(*1)
白黒のさぎの高さのたんすより(*4)
菩提寺へにせあかしやをくぐりゆく(*4)
高山日記
高山に住んでからの日記を捲り返していたら、某月某日の頁に、「俳句ノ生涯ハ最モ単純ナ物デアル」と誌していた。
前著『赤内楽』のときから、今般の『中止観』まで、まる四年間の歳月を経てしまったのであるが、私儀というには、あまりに俳句的とも言える生活上の波乱が重奏し合っていたように思える。白紙の上に高山という地名を焙りだし、旧生活からそこへ遁走したことは、遊戯といえば遊戯であり、俳諧者の病いといえば免れがたい宿痾のようにすらおもえる。いずれにしても、そこらにビマンする頭の旅人に対して、足の旅人の気骨だけは味わっておきたかったようだ。その後、歌人の岡井隆氏が失躁したというアクシデントを仄聞し、歌びといま一人滅びずの感を抱き、えにしの不思議を思ったものである。
申すまでもなく、(デカルトの生涯は最も単純な者である)という高名なテスト氏の正説は、二十世紀後半の逆説的思潮の只中で、なお正説として屈服せざるを得なくなっている。勿論、シノニムとしての、俳句の生涯をじつに単純なものと観ずるのも、俳句の絶対様式に対する私の屈服に外ならないようだ。
同病というか、私は次第に、痕をもつ人間に興味を馳せるようになってきた。俳句の、ひどく高慢な単純ぶりにとまどい、失躁したり、ふと風のごとく顕現してきたり、如何しようもなく苦しんでいる人間に興味をもつ。『赤内楽』の頃は、人嫌いもはなはだしい一笑のメタフィジシャンのつもりではあったものの、『中止観』は、人間の眼くばり、手足の上げ下げのような、いささか卑俗なところを大切に思うようになってきた。
今後、この俳句の世界に、ズバ抜けて人間を変革しうる傑作が生れるなどと、私は少しも信じていない。俳句の生涯が単純な者であればあるほど、正説を通して、どんな人間臭いふるまいをしたかという、そんな一、二人お作家を因縁の友として興味をわかすだけである。
昨年の秋、「俳句評論」奈良大会の帰途、畏友大岡頌司氏と、京都の某中堂に立ち寄り仏教書の空中楼閣に空しさを覚え、新幹線の日本食堂で、人根のドラマに熱論したのであったが、その直後、この句集の構想が成ったのであった。むろん、遅ればせながらの、終の瞋恚の書として、既に死せる友、生きて死せる友への、私の精一杯の挨拶であるべきだったのは勿論である。さらには、ここに河原枇杷男氏との伴走的鼓舞の応酬があったことを告白しておかねばならない。忘れもしない七月十七日、枇杷男氏は『閻浮堤考』を、私は『中止観』をそれぞれふところから、盛夏の東寺の人気のない中庭で、白日のもとに晒し合ったのである。
*1 句集『阿父学』所収。
*2 句集『阿父学』所収だが、定稿では『白墨をほうるごとくに涅槃の夜』に改稿されている。
*3 句集『阿父学』所収だが、定稿では『こおろぎがおどる二階の梵ならん』に改稿されている。
*4 収録句集を特定できなかった。未発表作品の可能性が高い。■は読み取れなかった文字。
安井氏は昭和四十四年(一九六九年)五月に飛騨高山に居を移し、四年後の四十八年(七三年)に秋田県に戻った。それ以降、現在に至るまで秋田で暮らしておられる。高山行きの理由は安井氏のプライバシーに深く関わるので詳述できないが、氏の人生における最も大きな転換点だった。安井氏は、これまでもしばしば高山で書いた第三句集『中止観』こそが、自分にとっては本当の意味での処女句集なのだと語っておられる。『安井浩司『俳句と書』展』公式図録兼書籍収録のロングインタビューでも、『高山にこもってから書いたのは、第三句集『中止観』で、今でもそう思うんですが、この句集で安井浩司の俳句に、一本柱が立ったなと思うわけです』と話しておられる。
難解で理知的というイメージがあるが、安井氏は極めて人間的で熱い血の流れるお方のようだ。折帖『無日の抄』収録の『高山日記』はもちろん『たかやま』と読むのだが、『こうざん』と読みたい誘惑に駆られる。文章に、高みへ、高みへと進もうとしておられる闘志が渦巻いている。また安井氏は『高山日記』で、第三句集『中止観』を『終の瞋恚の書』-つまり最終的な憤怒の書と規定しておられる。
第三句集『中止観』から第四句集『阿父学』に到る三年間は、安井氏にとって怒りと苦悩の時期だったようだ。それを示すように折帖『無日の抄』の墨跡は荒く奔放である。三行、四行、五行と、形式的な美を大事にされる安井氏にしては珍しく、筆のおもむくまま句を墨書されている。現在の安井氏は、どんなに激しい怒りに駆られても、このような書はもうお書きにならないだろう。折帖『無日の抄』の墨跡は、当時の安井氏の精神の軌跡を物の形に留めている。その意味で貴重な資料である。
岡野隆
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■