今月号の特集は「型を歌に生かす」です。短歌が五七五七七の日本古来の定型詩であるのは言うまでもありません。しかし〝基本的に〟と言うべきでしょうね。短歌を詠み読むときそれほど五七五七七の定型は重視されていないと思います。まあ言ってみればザックリと五七五七七くらいの表現になっていれば良しとするところがあります。特に今のニューウエーブ短歌はそうですね。歌壇はニューウエーブ短歌を新しい試みとして肯定し応援しているわけですが型から見ればずいぶん逸脱した作品が多い。しかしほとんど問題にされません。
短歌の型が緩いと感じるのは言うまでもなく短歌の子供である俳句との対比からです。俳壇では原則として五七五の定型を逸脱する作品は俳句とは認められません。季語のない無季俳句も原則として俳句ではないと批判されます。つまり俳句は型・厳格主義の表現です。五七五に季語を逸脱する作品は前衛とか難解句と呼ばれ有季定型写生俳句を王道とする俳壇のマジョリティから蛇蝎のように嫌われてしまうというのが現実です。
では型・厳格主義の俳句ではどういった現象が起こっているのでしょうか。まあ誰が詠んだのか作家がわからないような個性のない作品がずらりと並ぶことになります。もちろん俳壇内部の人は微妙な差異を嗅ぎ分けますが部外者には「んなことどーでもいいじゃん」といったくらいのほんのわずかな差です。古来短歌は家集としてまとめられてきました。しかし俳句は違います。極論を言えば俳句とは歳時記のことです。俳人は俳句つまりは五七五に季語の形式に滅私奉公する赤子といったところでしょうか。しかし短歌は個の表現です。形式は内容と密接に結びついているのです。
俳人の長谷川櫂が東日本大震災直後に『震災歌集』を刊行したことは記憶に新しい。駅のホームで地震に遭ったその夜、「荒々しいリズムで短歌が次々湧き上がって来た」という。また詩人の平出隆が父の死に向き合い歌集『弔父百首』を刊行している。作品についての感想は別として、感情を揺り動かす場面において、俳人や詩人の心に短歌のリズムを伴って言葉が湧き上がったことは確かである。
春日いづみ「短歌の「型」とは 家付き娘」
春川いづみさんの論考のタイトル「家付き娘」は詩人の新川和江さんが「短歌は家付き娘、詩は放蕩息子」とおっしゃったことから採られています。詩というより自由詩は詩人ごとに詩の書き方の〝型〟を決めて書く芸術ジャンルです。大局的に言えば終戦直後には「戦後詩」と呼ばれる型がありました。前衛芸術の季節だった一九六〇年代には「現代詩」と呼ばれる型が生まれました。文学金魚で鶴山裕司さんが『現代詩人論』で何度もお書きになっているように詩は形式的にも内容的にもまったく制約のない表現ですが完全な徒手空拳の自由表現であるゆえに詩人ごとの型が必要とされるのです。
これに対して「短歌は家付き娘」というのは基本的には短歌が五七五七七の型を持っていることを指します。春川さんは「家付き娘は呑気、気楽といった意味合いも含んでいたのだろうか」と書いておられますがなるほどそういう面はあります。しかし歌人が型に頼り切りだとは言えません。
春川さんは俳人の長谷川櫂さんが東日本大震災直後に『震災歌集』を出し詩人の平出隆さんがお父様の死去後に歌集『弔父百首』を刊行なさったのは「感情を揺り動かす場面において、俳人や詩人の心に短歌のリズムを伴って言葉が湧き上がった」からだと書いておられます。これもその通りでしょうね。しかし俳句や自由詩の詩人が人生で決定的な経験をした際にその表現方法を短歌に求めたのはいろんな意味で問題を孕んでいます。
俳句は短歌より十七文字少ない表現です。さしたる差には思えない向きもあるでしょうが文学的には決定的な違いです。俳句では個の思想感情を表現するのが難しい。特に長谷川櫂さんは長谷川櫂節といったスタイリッシュな俳句をお書きになる俳人です。生死などは超脱しているといった達観俳句が多いわけです。つまり長谷川さんの俳句の〝書き方〟では東日本大震災の衝撃を表現できなかった。平出隆さんも同様です。現代詩人が抽象的な言語操作をメインの表現にして実生活を描くことがないのは周知の通りです。もっと正確に言えば多くの詩人は〝実生活を描く書き方を持っていない〟のです。だから人生における決定的体験をした際に短歌を援用することになる。不自由な書き方をしているのだと言ってもいい。
このあたりのことは歌人が他山の石として抑えておくべきところでしょうね。外の世界から見て短歌は圧倒的に個の思想感情表現の器です。それを可能にする型として五七五七七があります。型は前提ですがなぜ短歌の型を活用するのかと言えば思想感情という内容を際立たせるためです。
もちろん短歌で個の思想感情を表現していればいいという意味ではありません。特に歌壇内部では常に新しい試みを模索して歌を更新し活性化してゆかなければなりません。歌壇が総意としてニューウエーブ短歌を歓迎しているのはそれゆえですね。
これも外部からの視線ということで言えば短歌は俳句よりも作りにくく古くさいイメージです。しかし短歌を内部から見れば極めて自由度が高い表現です。個の思想感情を表現できるのはもちろん俳句に近い写生短歌も可能です。戦後の前衛短歌は現代詩などの影響を受けましたが概ね個の思想が際立つ戦後詩の影響下にあったと言えます。ニューウエーブ短歌になると一九六〇年代から八〇年代くらいまでの現代詩の実験に比肩する表現がかなりあります。つまり短歌は型の芸術ですがその型の内部で自在な表現が可能な文学なのです。それはなぜなのでしょうか。
また詩型の特徴として句分けがある。各句のあとに一拍の間をおくことができる。意味、内容によって二句切れ、三句切れなど、ごく自然に句の後に裏の拍子が生まれている。たった三十一音だが、五つの句があることで、リズムが多様化するのである。また、一行に書く、一行の詩であることも意味があろう。一行と五行に分かち書きをするのとでは、読み方もイメージも違ってくる。一行書きではすーっと思いをのべてゆくのが自然なのかもしれない。
同
春日さんが書いておられるのは短歌の調のことです。調を考えれば俳句では五七五とまったく切れない句から五/七/五と一句ごとに切れる俳句まで五通りの調しかありません。短歌では五七五七七と切れない短歌から五/七/五/七/七と各句ごとに切れる短歌まで十六通りの調があります。この調の自在さが短歌の大きな特徴です。ニューウエーブ短歌のようにザックリ五七五七七定型を意識しながら調さえ整っていて舌触り(読み触りですかね)が良ければ善しとする方法ならさらに多くの調が生まれます。
この調の自在さが短歌表現の豊穣を生んでいます。もちろん究極を言えば俳句が芭蕉「古池や蛙飛びこむ水の音」のような有季定型写生俳句に戻ってくるように短歌表現の原点は個の思想感情表現に戻るはずです。しかし短歌の自在さは実は俳句や自由詩を上回ります。ただし定型がそれを可能にしているというのはちょっと杓子定規過ぎます。むしろ調ですね。調を自在に使いこなせれば自ずから表現内容が豊かになるところがあります。
『古今集』は原則的に五七五/七七で切れる短歌が多くそれが今に至るまで短歌の切り方の基本になっています。しかしそれを壊すことで新たな表現は生まれます。型の芸術ではありますが俳句のように型を絶対的前提とするのではなく型の中の調を意識するのが短歌のあり方でしょうね。
高嶋秋穂
■ 春日いづみさんの本 ■
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