今号は毎回楽しみにしている第65回角川短歌賞発表号です。もちろん歌壇には複数の商業歌誌がありそこでも素晴らしい新人歌人がデビューしています。しかし今のところ俵万智さんと穂村弘さんを輩出した角川短歌に一日の長があるでしょうね。これは角川短歌さんの編集方針が正しいことを示しています。
賞の権威は毎回の積み重ねで決まります。芥川賞や直木賞はかろうじて一定の権威を維持していますが失墜してしまった賞もあります。すぐに思い浮かぶのは自由詩の世界のH氏賞ですね。七〇年代くらいまではスゴイ詩人に賞を与えていましたがその後は賞の授与団体の中で受賞者が回るようになり今では誰もいつ誰が受賞したか知りません。ニュースなどでもまったく取り上げられなくなりました。賞の運営はそんなに簡単ではないのです。
さて今回の受賞作品を読んでいて風向きが変わったなと感じました。歌人に限らず新人作家は生意気ですから選考委員の名前を見て「たいした作品を書いてないくせに」などと思うこともしばしばだと思います。実際にたいした作品を書いてないという意味ではありませんよ。新しい人であり新しい才能を主張したいと思っている作家であれば生意気も資質の内でそう思うこともあるだろうということです。
でも新人作家の皆さんは中堅・ベテラン作家の実作品と読解能力は別だということを知っておかなければなりません。誰もが多かれ少なかれそうなりますが天にも昇るような素晴らしい作品を書こうと思っていて結果はこれかと失望することが多いのです。もちろん良い作品を書こうとしている限り新人も中堅・ベテランも横並びで対等です。しかし中堅・ベテラン作家は短歌の優れた読み手であり歌壇を知り尽くしています。歌壇を俯瞰して捉えているのですね。短歌界の流れを読んで新人の作品を選ぶ能力を持っているということです。
それがわかると受賞のためには「傾向と対策」を練ればいいじゃないかということになります。一理あります。でもそういったあざとい方法では続かないのです。新人賞はまあ言ってみればないものねだりです。従来的な意味できちんと作品が書けているのが受賞の大前提ですが従来的な枠に嵌まっていると選ばれない。新しい何かを持っている作品である必要があるわけですがこれは出たとこ勝負です。今回は近過去の文脈の作品が外された気配があります。
「午後から雨」ミントの香りを絞りだす ねり歯みがきのチューブのゆがみ
制服のスカート揺れてこぼれ落つ 折り畳まれた少女のこころ
生物のイデ先生はオバQかニョロニョロなのか意見分かれる
学校は線でできてる たいていは直線 窓は同じ方向
ニンゲンを箱詰めにしたらどうしてもすき間ができるんだけど詰め込む
白線から落ちたら死ぬので白線を伝って毎日登校します
何が武器になるかわからぬこの戦 わたしの武器は持っていないこと
鬱の字の木と木のあいだにある缶の中身を考えるうちに放課後
広すぎる空は嫌いだ 屋上は風を感じるため上がる場所
足元のコンクリートのその下に生命数億年ぶんのウンコ
月野桂「陸でも海でもない謎の場所」佳作50首より
バスを待つ少年の手の中でいま春のマリオが崖から落ちる
姫を助けに行かない人ばかりの街で姫を助けずコンビニへ行く
土管はちょっと見たことないな今ここにあったらとりあえずはくぐるけど
コンビニの袋をひとまず玄関に置く、のひとまずを重ねて生きる
バスタオル畳んでは積むいつの日か神にならない僕がひとりで
眠るときすこし沈んでいくようなこれがゴールかみたいな感じ
どこまでも足場は組まれその果てに人が抱く不安の透明さ
君には君の僕には僕の生活があって持ち寄るための余白を
もし君の帽子が飛べば走るだろう冒険みたいだなんて思って
竣工の文字深々と石板が静かに湛えはじめる夏へ
石井大成「春のマリオ」佳作50首より
さくら咲き散るまで見てた ほんとうのことは冗談めかして言って
コンビニで飲み物を買ういっしゅんにきみを思いつつ選ぶ甘栗
マシュマロを島に喩えて沈ませる夜のココアはなかなか冷めず
ふかぶかと桃へナイフを立てるとき心臓であることを忘れる
ほろほろとくずれるクッキー やさしさがやさしさのままでいられるように
銀色のボタンにポニーの刻印を見つけた日からポニーが走る
目的地があったら終わりがくるようでただひたすらに川沿いをゆく
思ってもないことをたまに言ってみる それがほんとうのことだから
桜の下に写るじぶんのおさなさにはじめて気づくような気がする
触れたなら光ってみせて遠くまでとどく光じゃなくたっていい
梶山志緒里「川沿いをゆく」佳作50首より
佳作に選ばれたお三人の作品から十首ずつセレクトしました。似てますね。穂村弘さんの影響大だと言っていいと思います。角川短歌新人賞は二人受賞も多いですから数年前ならこの手の作品は受賞したかもしれません。しかし同傾向のお三人の作品がすべて佳作となっていることは一つの時代の終わりを示唆しているようです。
どんな作家も書き始めの頃は誰かの真似をします。自分一人で書き方の型を作らなければならない自由詩の詩人でも同じです。口語短歌でもライトヴァースでもニューウエーブ短歌でもいいのですが近過去の短歌の書き方がこれだけこなれてくるともはや新し味は感じられません。感情の高みはあるのですが決定的なことは表現せず to be continued で次作に乞うご期待といった書き方です。かなりステレオタイプ化した初歩の通過儀礼的な書き方になりつつあると言えます。真似をして次に進むための通過儀礼的な書き方だということです。いわゆる若書きとか前作ですね。
もちろん佳作に選ばれたお三人の作品のまとめ方は見事です。まとまった形で作品を書けるから佳作に選ばれたわけです。ただ新人は過去の延長線上にいては新人足り得ません。なんらかの形で次のヴィジョンを持っていなければならないのです。いまだ若い世代ではニューウエーブ短歌全盛だと思いますがうーんうーんと知恵を絞って全力で考えるべしでしょうね。
また流行という意味では見事に波に乗っているお三人の作品を佳作にするには次の短歌の流れ(かもしれない)作家の作品が必要です。今回の受賞者では鍋島恵子さんの作品がそれを感じさせます。
明日のわたしが思うこと銀の実のようにしずめ意識という水深は
ひかりを人は求め続けてこの夜に最も暗し月の裏側
ふえてゆくほくろ美し死とともに星図は完成すると思えば
わたくしが眠ってしまえばこの部屋は月のみの射す密室となる
裸木に鳥の巣はあり青空ゆたまごの落ちてくるような朝
いつからかひとの足跡は靴跡となり雪のうえに靴跡のこる
心臓は鉱物に置きかわるべし雪の夜ふかく呼吸するとき
映像になかった音を思いおりぶつかるように霰がふれば
金色の海をナイフで裂くように奪いたい本当の言葉を
注がれたときから始まるコーヒーのゆっくりと熱を失う時間
ひとりひとりの小さな声が重なって揺れやまぬざわめきの音程
花束を渡されしひとおのずからつぼみのなかの薄闇を抱く
ボタンのない服でねむれば夢の中にだれかが森へ行こうと誘う
半円を描ききらずに虹は消えわたしはわたしを信じておらず
給水塔のはしごをのぼる男いて身を夕空へ捧げゆくなり
母、と呼ぶ死者のたましい 薄雲の向こうに月が在るのがわかる
はなびらを拒みはなびらに惹かれさくら散る日の蝶狂うかな
葉桜を見ず地に朽ちるはなびらを見ておりすこし無に近づいて
鍋島恵子「螺旋階段」受賞作50首より
ああなるほどという感じです。歌の成熟度が格段に違う。文句なしの受賞でしょうね。
鍋島さんの資質は冒頭の「明日のわたしが思うこと銀の実のようにしずめ意識という水深は」という歌に表現されています。「螺旋階段」は作家の意識の中を上下するような言語表現です。それが抽象に流れずしっかりとした具象で表現される。しかしコンビニとか身近にある具象ではない。「金色の海をナイフで裂くように奪いたい本当の言葉を」にあるように存在の本質を求める指向があるので具象物であってもどこか抽象の気配が漂います。こういった短歌は今までなかったかもしれません。
「はなびらを拒みはなびらに惹かれさくら散る日の蝶狂うかな」は秀歌ですね。限りなく「無に近づいて」いますが言語でしか表現できない華やかな無です。ある意味優れた俳句を思い起こさせます。新たな写生短歌だと言ってもいいかと思います。
高嶋秋穂
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