今月号の特集は「平成の宿題-三十年で問題は解決したのか」です。天皇陛下の譲位によって平成から令和に元号が変わったことに呼応した特集です。ただし特集「なぜ古典か」も組まれていて「平成の宿題」は総力特集といった感じではありません。このあたり角川短歌さんは信頼できますね。元号が変わったくらいで何かが決定的に変わるわけではありません。気分相場で株価が上がるかな~といった期待くらいがせいぜいでしょうね。
和暦と西暦の並列は少し面倒くさいものです。ただ国際的に(もちろんたくさんの異論はありますが)独自の暦を持っているのが長い歴史を持つ民族宗教国家共同体の証の一つだという了解があります。西暦がキリストの誕生年から始まってるのは言うまでもありません。仏教歴もありイスラーム歴もあります。二十世紀は欧米が世界の盟主でその合理的思考方法や生活様式が世界中で受け入れられたので西暦を使う国が多くなりました。しかし民族宗教国家共同体のアイデンティティである独自の暦を捨て去れるのかというとなかなか難しい。グローバル化が進めば進むほど各民族宗教共同体同士の中で譲れない点が出て来るものです。
アメリカに住んでいるムスリムのイスラーム学者がその著書で「自分は普段西暦を使っているがムハンマドとその後継者が四代に渡って統治した正統カリフ時代はヒジュラ歴を使わないとどうもピンとこない」と書いているのを読んだことがあります。ヒジュラ歴は言うまでもなく預言者ムハンマドがマッカからマディーナにヒジュラ(聖遷)した年でイスラームの勝利を記念する年です。西暦六二二年に当たりますからイスラーム世界では二〇一九年は一四四一年に当たるわけです。
こういった民族宗教共同体独自の精神に食い込む暦はありますね。日本だと一八七二年と言うより明治元年と言った方がその時の衝撃が伝わりやすいです。昭和二〇年は終戦の年ですがその時代を生きた人にとっては一九四五年と言うより和暦の方が響くでしょうね。
そういう意味では太平洋戦争で亡国の一歩手前までいった昭和という時代は特別でした。古本を買えばそれはわかります。昭和五〇年代くらいまで本の奥付の多くが和暦表記でした。戦後文学が盛り上がっている時代でありその始まりは昭和二〇年だったからです。しかし昭和の終わり頃から本の奥付はグッと西暦表記が増えてきます。和暦つまり戦後文学が持っていた力が薄まったからだと言っていいでしょうね。
昭和から平成に変わり令和に変わったわけですがその間に和暦と共に日本人の精神に食い込む年があったかというとなかった。幸いなことにありませんでした。日本が国家的危機に陥れば和暦が日本人の精神に食い込むこともあると思いますがそういうことは今後もないようにしたいものです。
本題に戻りますと昭和の終わりで平成の始まりである一九八九年頃から現在まではとりたてて日本社会が大問題を抱えることのない平和な時代でした。大問題とは戦争などのマジでヤバイ危機のことです。短歌に即すると俵万智さんの『サラダ記念日』が刊行されたのは昭和六十二年(一九八七年)ですね。現存の作家なので『サラダ記念日』が短歌史における大きなメルクマールだと言うと抵抗を覚える方も多いでしょうが大勢を言えば合っていると思います。現代短歌は大局的に言えばポスト『サラダ記念日』を模索していると言えます。『サラダ記念日』を連呼するのに抵抗があるのならポスト前衛短歌・ポスト戦後短歌が今の短歌界のアポリアだと言ってもいいでしょうね。
(昭和)六十二年に俵万智の『サラダ記念日』がミリオンセラーとなり、新たな様相を呈しはじめた歌壇において、近代短歌的な〈私〉を創造の領域まで拡張した前衛短歌を、いかに継承し或いは乗り越えてゆくかということが彼らには共通の課題であった。
あわだちて物質主義の淵にゐるたましひのこといかに記さむ
坂井修一『スピリチュアル』
代案のなきゆゑわれはしたがひぬ欧州といふこの一思想
坂井は近代短歌的な文体を基調に、文明や思想と文化や伝統との齟齬をつきつめることで、新たな主体像を描出した。近代短歌のフォーマットを継承しつつヴァージョンアップを試みてきたとも言える。
魚村晋太郎「世代の交代(塚本邦雄) 口語ライトヴァース、の終わり」
魚村晋太郎さんの読みは基本正しいと思います。ただちょいと思うのは俵万智『サラダ記念日』がミリオンセラーになり世の中に広く受け入れられた直後からその衝撃は大別すれば二手に分かれたということです。
魚村さんが書いておられるように今の短歌にとって「近代短歌的な〈私〉を創造の領域まで拡張した前衛短歌を、いかに継承し或いは乗り越えてゆくか」が課題であるのは確かだと思います。しかしそれは俵万智『サラダ記念日』とは本質的に関係ない。誤解を恐れずに言えば俵さんはそんなことをまったく考えていなかった。ぜんぜん理論家ではありませんし作品でも評論でも短歌界をリードしてゆこうというお気持ちはありません。たまさか『サラダ記念日』が大ヒットしただけです。
自由詩の世界で一九八〇年代に伊藤比呂美さんを中心とする女性詩の時代があったのを覚えておられる方も多いと思います。セックスや生理や出産を赤裸々に表現することで一時代を築きました。それがなぜ話題になったのかは俵万智『サラダ記念日』に通じる点があります。戦後文学(思想)の消滅が前段にあります。一九八〇年代には女性性くらいしか新たな表現が見当たらなかったのです。実際自由詩における前衛としての現代詩は伊藤比呂美さんたちの女性詩ムーブメントが最後です。それ以降自由詩の世界でこれといった前衛的表現は生まれていません。
魚村さんは坂井修一さんの『スピリチュアル』の歌を取り上げて「坂井は近代短歌的な文体を基調に、文明や思想と文化や伝統との齟齬をつきつめることで、新たな主体像を描出した。近代短歌のフォーマットを継承しつつヴァージョンアップを試みてきた」と批評しておられます。それは正しいですがこの展開は口語短歌の衝撃からいち早く分岐した〝男の子のアポリア〟です。ライトヴァース歌人は俵万智さんや林あまりさんなどがいらっしゃいますが女性歌人の歌の方がその代表歌としてしっくりきます。このあたりの分岐を考える必要があります。
小原眞紀子さんはその源氏物語論『文学とセクシュアリティ』で男性性と女性性ベクトル(テキスト曲線)で文学全般を論じておられます。男性性と女性性は必ずしも現実の性差に基づくものではありません。性別・男性も女性性を持っていますし性別・女性も男性性を持っている。男性性とは制度構築に向かう力であり女性性とは既存制度を壊す力であるというのが小原さんの一貫した思想です。
これに当てはめると俵万智さんらの初期口語短歌歌人たちはそれまでの制度を壊す力を持つ作品をうみだしましたがそれは期せずしてです。壊した後にどうなるかなど考えていません。まあ現実に俵さんの足跡をたどればそれはわかりますね。女の子は水のようにスッと流れてゆく。口語短歌と呼ばれながら今では文語体の短歌も書きますし古典文学の評論集もお書きになる。男の子たちから見れば「ずるいよー」ということになりかねませんがそれが女性作家の醍醐味というものです。では男の子の醍醐味は何か。思想と呼ばれる抽象を追い求め時に破滅をも恐れぬ力を持つことですね。
きみの写真を見ているぼくの写真ジョン、ジョン、わかったよ僕が誰だか
加藤治郎『サニー・サイド・アップ』
あるヒトの脳死は待たれほしいまま刻まれてゆくつめたいトマト
『昏睡のパラダイス』
ほむほむの心の中のものたちによろしく。チャオチャオ。まみ(紅シャケ)
穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』
ハロー 夜。ハロー 静かな霜柱。ハローカップヌードルの海老たち。
(中略)
口語の導入と〈私〉の多様な拡張とによって、現代短歌の可能性を大きく拡げたニューウエーブの特徴は共時的な表現にあった。レノンの死や、脳死、カップヌードルなど、物事の軽重にかかわらず現代的な題材を積極的に取り入れ〈私〉を他者へ拡張する表現は、しかし、否応なく過ぎてゆく時間を扱おうとするとき機能不全を起こしかねない。人生の時間は、少なくとも従来は統一的な〈私〉を縦糸として描かれるものだったからである。
同
大局論になりますが初期口語短歌ライトヴァースが女性歌人の時代だったとすればニューウエーブ短歌は男の子たち主役の時代になっていると言うことができます。口語つまり文語体を使わないことで生じる様々なメリット(表現可能性)とデメリットを一気に引き受けたのは男性歌人が多いです。小難しい評論などもたいていは男性歌人が書いていますね。
魚村さんが書いておられるようにニューウエーブ短歌が「〈私〉を他者へ拡張する表現」を目指したのは確かだと思います。しばしば言われる短歌における私性の解体云々ですね。一方で魚村さんはそれをやると「否応なく過ぎてゆく時間を扱おうとするとき機能不全を起こしかねない」と指摘しておられます。「人生の時間とどう向き合うのかということが平成の残した宿題である」とも書いておられる。
ハードコアなニューウエーブ短歌がかなり現代詩の極端な修辞を援用しているのは誰が見てもすぐにわかります。そして魚村さんが危惧している通り現代詩の詩人たちは私性を描けなかった。「人生の時間」と「向き合う」方法は現代詩の書き方にはなかったのです。修辞を思いきり多用した奇矯でもある言語表現に血道を上げた現代詩の詩人たちが「年を取って腰が痛い」などと書けるわけがありませんね。簡単に言えばニューウエーブ歌人たちの多くがどうやって年齢と共に重みを増してゆく生活や身体の変化を歌で表現できるのかは大きな課題です。
もちろん短歌はずっと私の表現でしたからハードコアなニューウエーブ短歌を書いていた歌人だろうとある瞬間からズルリと従来的な書き方を取り入れることはできます。ただ「それをやっちゃーおしめぇよ」といったところはありますね。
これも誤解を招く言い方をあえてしますが女性性(実際の性別・女性という意味ではありませんよ)に基づく表現をする作家たちはズルイ。意地を張って口語しか使わないとか従来の短歌的私性を解体するんだと意気込んでいる歌人たちに「ごくろうさまぁ」という冷たい視線を投げかけてスルッと急場を抜けてゆきます。でも男性性(くどいようですが実際の性別・男性という意味ではありません)の醍醐味は意地を張って強い強い観念軸を立てることにあります。
男性性を標榜する作家は異性である女性性を標榜する作家からモテたいですよね。それには意地を張りとおすしかないわけです。天にも昇るような男性性の観念ベクトルにはかなわないと思わせないと尊敬されません。
ある意味俵万智『サラダ記念日』以降は女性性の時代です。戦後短歌にあった天にも昇るような男性的観念軸は失われました。しかしそれを打ち立てなければ男の子たちが女性的なライトヴァース短歌から強引に主役を奪ったようなニューウエーブ短歌は真の独自性を発揮できないでしょうね。ニューウエーブ歌人の年齢は上がってきています。つまり正念場です。頑張れ男の子(男性性)であります。
高嶋秋穂
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