一.エスペランサ・スポルディング
三週間ほど前のこと。今年は冷夏、と東北の農家が噂しているというニュースがあった。その根拠は、山背が居座り/台風が少ないから。理屈は分からないくせアテにしていたが、結果はこの有様。毎日暑い。かたやリモートだ、ズームだ、テレワークだ、と騒がしいし、実際影響もある。無論外出する日もゼロにはならない。セコセコと用事を終え、カラッカラの帰り道。コンビニに入れば涼しいし、冷たいビールも売るほどある。でもそんな誘惑に負けないのは、一軒行きたい店があるから。大丈夫、ちゃんと虹色の「感染防止徹底宣言」、店頭に掲げている。場所は駅から徒歩七分。汗を拭い、イヤホンから音楽を流す。暑さを忘れさせてくれる、いや、和らげてくれるブツ、ありまっせ。
音楽との出逢いで一番贅沢なのは、何も知らない状態で聴くこと。自分の好みがよく分かる。でもなかなかそれって難しい。今の世の中レコメンドだらけだ。ステイ・ホームでネットを見ていると、オススメする人/されたモノばかり。出逢い方で多いのが呑み屋での口コミ。それと飾ってあるジャケットに一目惚れ。あと古典的だけど堅実なのは、好きなアルバムの周辺を当たっていくやり方。ゲストプレイヤー、プロデューサー等々。地味ながら勝率は高い。ベーシスト/シンガー/作曲家、と多彩な顔を持つ女性、エスペランサ・スポルディングを知ったのも、そんな地道な方法だった。探っていたのはロバート・グラスパーの周辺。ウッドベースを奏でながら歌う姿にグッときた。ジャズ界初のグラミー賞最優秀新人賞獲得、飛び級して二十歳でバークリー音楽大学を卒業と同時に史上最年少講師に就任……云々。こんな情報に触れる前にアルバムを聴けたのは贅沢だった。どのアルバムも毛色は違うが、「魅力的な音楽だけれど、ラインが掴めない」という印象は共通している。楽曲のライン――背骨や輪郭が捉えられないから、思い出して口ずさむことが難しい。無論聴き続けるうちに、少しずつラインは浮き上がってくる。謎を解き明かす時の、あの感じ。どうして気持ちいいんだろう、と探るような聴き方をしているせいか、かなりの割合で暑さを忘れられる。
ちょうど一曲聴き終えた頃に着いたのは、大岡山のもつ焼き屋「M」。もつやき、の暖簾に誘われるのは仕方ない。でも入るか入らないかは別問題。一番贅沢なのは何も知らない状態で決めること。此方は正にそれ。昼前に通りかかると扉は開けっ放し。明かりを落とした店の中、仕込んでいる店員さんの姿が見えた。好きな雰囲気だった。よし、夜に来よう。不言実行、のはずが満員。そうやってジラされると勢いがつく。翌日、開店すぐを狙って無事入店。「当店の焼酎割りは濃い目です。薄めご希望の方はお教え下さい」の貼紙を見ながら、まずはチューハイ。お、丁度いい。半分呑み終えた頃に串モノが来た。一本120円の串はどれも好みの味。和辛子とタレの相性も抜群。二杯目を呑み干した頃、席も埋まって来た。少し悩んだがお会計。コロナ云々ではない。また次に来た時の楽しみを残す贅沢。それも味わわせて頂きました。わわ。
【 City Of Roses / Esperanza Spalding 】
二.ビリー・ジョエル
後日、「M」について調べていて驚いた。店主は数年前に閉店した三軒茶屋の名店「久仁」で修業をしていたらしい。「久仁」自体にはあまりお邪魔したことはないが、同じく修業を積んでいた方の店、池ノ上のもつ焼き「K」には顔を出す。兄弟みたいなものかしらん、と店々を繋ぐルーツについて考えていると記憶の扉が開く。「久仁」の店主は、元々中目黒のもつ焼き屋「B」にいた。「B」は創業五十余年の老舗で、何といっても「レモンサワー発祥の店」。言ってみりゃ、ここはお孫さんだな――。他の客のそんなレクチャーを聞きながら、池ノ上「K」のカウンターで呑んだ夜もあった。あれは歴史の講義。いや、場所的にはフィールドワークか。仕方ない、近々顔出して勉強し直さないと。
当然、好みの音楽にもルーツがある。国産モノに関してはずいぶん背伸びして濃いめの音を聴いていたけど、案外洋モノにはウブ。初めて観に行った洋楽のコンサートはビリー・ジョエルだった。ウブ、なんて言ってはみたが今も聴く。当時の愛聴盤はやはり二枚組のベスト盤『ビリー・ザ・ベスト』(’85)。洋楽慣れしていない耳にも優しい一枚、いや二枚。最近は解説読みながらアルバム単位で聴いている。先日聴いていたのは『ストーム・フロント』(’89)。二曲目の「ハートにファイア(We Didn’t Start the Fire)」が良かった。小学校で教材として使用されたという、世界の歴史を総まくりした歌詞。「俺らが火を点けたわけじゃない/最初からこの世は燃えていた」というサビは、今聴くからこそ腑に落ちる。そういえばあのコンサートで、勢いに任せてダサいキャップを買っちゃったのは内緒だよ。
【 We Didn’t Start the Fire / Billy Joel 】
三.ベン・フォールズ・ファイヴ
ビリー好きの血が騒ぐのは数年後、原宿ラフォーレの前で流れていたピアノの音が合図だった。流れていたのはギターレス・バンド、ベン・フォールズ・ファイヴの同名デビュー盤(’95)。やはり洋モノにはウブ。日本人好みの甘い旋律に弱い。解散後にピアノ&ヴォーカルのベン・フォールズが出したソロ作も含め、どの作品も気に入っているが、最も聴き込んだのはバンドとしての二枚目『ワットエヴァー・アンド・エヴァー・アーメン』(’97)。繊細な旋律と、それを融かしてしまいそうなほどラフになる演奏のバランスが素晴らしい。
最後に「久仁」の記憶を少しだけ。カウンター/テーブル席/小上がりが揃った大衆酒場。子ども連れも多かった。たしかエアコンは無かった筈。焼きモノだけでなく漬物も絶品。カウンターの向こうの人間模様も良い肴だった。色々美味しかったはずなのに、真っ先に浮かぶのは店の親父さんと、詰まったトイレをラバーカップで直した夜のこと。まあ、そりゃ人間だもの。
【 Steven’s Last Night in Town / Ben Folds Five 】
寅間心閑
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