尋常小学校の生徒が描いた戦争画
紙にクレヨン 昭和十六年(一九四一年)から二〇年(四五年)頃
縦一九・二×横一四・八センチ(最大値)著者蔵
「尋常小学校の生徒が描いた戦争画」も「んとねぇ君」から買った。いつもの場所に行ったら見慣れない段ボールが数個積んであった。埼玉あたりの学校の先生の家からウブ出ししてきたのだという。「見ていい?」と聞くと「お好きにどうぞ」という挨拶だったので、勝手に箱を開いて中を漁っていて見つけた。古い茶封筒に入っていた。尋常小学校の先生だった方が、戦中に子供たちに描かせた画を捨てずに保存しておいたものだった。
「これはいくら?」
「んとねぇ、一枚三百円」今度はえらい安かった。
「買う」と言ってお金を渡したら、「あーこんな物でも売れるんですねぇ。勉強になりました」と「んとねぇ君」は遠い目で言った。
骨董屋も様々で、物が十個あったら一つだけ買いたいと言う業者がいる。その逆に「全部買いますけど値段はあまり付かないですよ」と前置きして、あらいざらい買ってくる業者もいる。売る方は、そこそこ値段が付く品物はどれか、だいたい見当がついている。しかし骨董屋を呼んだからにはゴミ同然の物も一気に片付けてしまいたい。少額とはいえ値段が付くと嬉しい。全部持っていってくれるのはなお嬉しい。勢い「じゃこれも売りましょう」という流れになりやすい。後者の方が商人として優秀なのだ。「んとねぇ君」はやり手のウブ出し屋だった。
杓子定規になるが、戦争画を描いたからといって子供たちに戦争責任があるわけではない。子供たちは政府や大人たちからいわば洗脳されていた。太平洋戦争は崇高な聖戦であり、お国のために戦い、兵士として戦死するのが最高の名誉だと刷り込まれていたのである。この教育は大人になった子供たちに様々な影響を与えた。
詩人の飯島耕一は終戦時に十五歳で、熱狂的皇国少年だった。兵隊になり空で散ることを固く決意して八月二十日に航空士官学校に入学する予定だった。十五日にラジオで終戦の玉音放送を聞いたが、頭では戦争は終わったとわかっているのに二十日に学校の門の前まで行ってみたと回想している。人気はなく門は固く閉ざされていた。
飯島はこの体験を元に「もう流れ出すこともなかったので/血は空に/他人のようにめぐっている」で終わる『他人の空』という詩を書いた。大学生の時に初めてこの詩を読んだとき、なぜ『他人の空』が戦後詩で反戦詩とも呼ばれているのかうまく理解できなかった。あまりにも抽象的な表現じゃないかと思ったのである。しかし今ならよくわかる。
飯島が皇国少年だったのは事実である。飯島はその傷を決して忘れなかった。記憶を隠そうとも捨てようともしなかった。「血は空に/他人のようにめぐっている」としか書きようがなかったのである。飯島は生涯この傷を負い続けた。「巨大な 監視者 に/は 理解 しがた い/ことばを 私有 せよ」という詩集『私有制に関するエスキス』を書いた。最も美しい戦後詩の一つである。高名な詩人だったが生涯政府を信じなかった。政府系の栄誉褒章をまったく受けていない。
寺山修司は終戦時に十歳だった。寺山の映画『田園に死す』などには軍服を着た日本軍兵士が登場する。主人公の少年は戦争と軍人に憧れていると描かれている。しかし寺山は戦争賛美者だったわけではない。むしろ歌人・俳人・詩人としての寺山は従軍派作家たちに激しく反発した。戦地で生死の境を体験して帰還した従軍派作家たちは特権的存在だった。従軍派作家たちにそんな意図はなかっただろうが、戦後の新鋭である寺山らに向けられた彼らの批判は「戦争に行かなかったヤツになにがわかる」と寺山に響いた。寺山は自分たちこそが戦後文学を支える新しい作家であると従軍派作家たちと対立したのである。
また飯島と違い終戦時に十歳だった寺山には、戦争が熱狂の坩堝の一種のワンダーランドにも見えていた。その狂った熱狂世界は手の届くところにありながら、寺山少年の前から蜃気楼のようにふっと消え去った。寺山文学の主題は一貫して母子相姦願望をも含む母殺しである。その禁忌が寺山の映像作品では戦争の狂熱に重ね合わされて表現されている。非日常の縁日に神社の片隅に建てられた見世物小屋の、猥褻で猥雑で、しかし人を惹き付けてやまない極彩色の闇にもなる。そこで狂って暴れ、かりそめであれ秩序をもたらす存在に軍服姿の軍人の亡霊はまことにふさわしい。寺山作品に登場する日本兵は本源的に不吉なのだ。
ただ戦争を深い陥没点として戦前と戦後には大きな断絶がある。敗戦と同時にほとんどの日本人が皇国主義の愚を悟った。ドイツも同じだがそれは悪い夢から覚めたような瞬間だった。しかし池袋モンパルナスの講演で『近代の超克』を例に話したことがあるが、日本がなぜ狂信的皇国主義に突き進んでいったのかを、戦前・戦後の飛びきりの俊英たちは誰一人明確にすることができなかった。
「朝日新聞(中部版)」昭和十七年(一九四二年)一月一日号
縦五五・二×横四一・二センチ(全六ページ)著者蔵
「朝日新聞」昭和十七年(一九四二年)一月一日号は「んとねぇ君」とは違う露天商から買った。ご主人の話では昭和十七年一月一日の新聞はかなり残っていて、これは朝日中部版だが東京版も読売などの他紙も内容はほぼ同じだそうだ。いわゆる大本営発表の文字が一面を飾っていて「戦史に燦たり・米太平洋艦隊の全滅」とある。ただしこの時期の大本営発表はウソが少ない。戦況はまだ日本に有利だった。昭和十六年(一九四一年)十二月八日のハワイ真珠湾攻撃――つまり太平洋戦争開戦から約一ヶ月後の元旦の朝刊で、日本中が緒戦の勝利に沸き返っていた。
真珠湾攻撃を指揮したのは連合艦隊司令官・山本五十六だが、彼は日本が戦争のイニシアティブを握っている間にアメリカと講和すべきだと主張した。しかしアメリカは第二次世界大戦を敵の殲滅戦と考えていた。山本は昭和十八年(一九四三年)四月八日に飛行機で前線を視察中にアメリカ軍によって撃墜された。すでに日本軍の暗号が解読されていたのだ。英雄の戦死によって日本軍の士気を削ぐのが目的だったとも言われる。つい最近のアメリカ軍によるイラン革命防衛隊ソレイマニ司令官暗殺(二〇二〇年一月三日)の際に、アメリカ軍高官が「この作戦は山本五十六殺害と同じである」と言ったので驚いた。日本では戦争の記憶が遠ざかっているが、アメリカでは過去の作戦やその意味が受け継がれている。
先の大戦は第二次世界大戦と呼ばれる。しかし戦中の日本では「太平洋戦争」または「大東亜戦争」の呼称が一般的だった。そのあたりのことも現在では曖昧になり始めている。
イギリスはインド人を奴隷視し、前大戦でも今度の戦争でも最前線に押出されて砲弾の犠牲となるのはいつもインド兵です。イギリスはインドの宝庫によって今日の大をなしたにもかかわらず今もなおインド人を犠牲に供しつつ帝国主義の野望を果たそうとするのです、(中略)真に人類の敵はイギリスである、支那事変の当初インド人の中には日本の支那膺懲(征伐)を誤解するものもないではなかったが今度の戦争で誤解も全く晴れた、日本に対するインド人の考えは多年イギリスの卑劣な逆宣伝によって毒されていた。(中略)
故郷のパトナ医大にいるころから親戚にあたる国民会議派支部長プラサード氏の指導をうけガンジーの秘書もやり独立運動に携わっていました、一九二八年在インド国民会を組織し今日では約二百五十名の会員がいます、支那にもバンコックにも国民会があり、いずれも日本にいたラマンやダスという人たちが会長です、今度大東亜戦争で日本が英米を相手に開戦すると同時にインド人は心から快哉を叫びました、インドは日本と同じく尚武の国です。
(エ・エム・サイハ談「アジアの黎明を語るサイハ氏 心から叫ぶ快哉 印度民衆蹶起の秋来たる」「朝日新聞」昭和十七年[一九四二年]一月一日号)
「朝日」正月号に掲載された記事だが、エ・エム・サイハ氏は合法的な方のインド独立運動家だった。イギリスやフランス政府から追われるインドや中東の非合法革命闘士(独立運動家)も当時はたくさんいて、日本に亡命して来た。戦前の右翼の巨頭・玄洋社の頭山満の仲立ちで新宿中村屋に身を潜めたインド非合法革命家ラース・ビハーリー・ボーズが、後に中村屋の名物になるカレーのレシピを教えたのはよく知られている。
読めばわかるようにサイハ氏は大東亜共栄圏構想に深く共感していた。大東亜共栄圏は思想家・政治活動家だった大川周明が唱えた理論と実践両面に渡るアジア解放運動要綱だった。大川がサイハ氏の著書の序文を書いており二人は密に交流もしていた。インドや中東の革命闘士が日本にやって来たのも、大川の大東亜共栄圏構想に祖国独立の可能性を見出したからである。大川の大東亜共栄圏構想はアジアで広く知られていた。
当時のユーラシア大陸は中東から東南アジアに至るまで、ほぼ全域がイギリス、フランス、ドイツ、オランダなどのヨーロッパ列強の植民地になっていた。中国もイギリスやドイツに浸食され、ロシアが南下して満州の支配を目論んでいた。大川はアジアでいち早く近代化を果たし、西欧列強と拮抗し得る力を蓄えた日本が中心になってアジア諸国を植民地の隷属から解放しようと唱えたのだった。
大川の大東亜共栄圏構想の中核は中国とインドとの連帯だった。中国とインドがユーラシア大陸の二大大国だという理由だけではない。宗教思想家でもあった大川は日本的精神はインドから中国経由で伝わった仏教思想などにあるとして、三カ国の精神基盤は同じで連携可能だと考えたのである。
しかし政治の世界で理論と実践が合致することはまずない。大川の大東亜共栄圏構想は軍部に利用された。軍部は大東亜共栄圏構想――つまり植民地からのアジア諸国の開放を表向きの大義に掲げ満州に進出した。だが満州進出は西洋列強となんら変わらない侵略戦争だった。性急な分、ヨーロッパ諸国よりも侵略は苛烈だった。
中国進出後に反日運動の嵐が吹き荒れると、軍部は蒋介石国民党や中国共産党政府の方が間違っていると主張し、大東亜共栄圏構想のパートナーとして満州傀儡政権を樹立した。サイハ氏が「支那事変の当初インド人の中には日本の支那膺懲(征伐)を誤解するものもないではなかったが」と言っているのはこれを指す。インドや中東の独立運動家は日本の満州進出を侵略戦争ではないかと疑ったが、日米開戦によって大東亜共栄圏構想の本道に戻った(ように見えた)ということである。
大川の主張も現実に合わせて微妙に変化していった。理論の現実追認である。大川が極東裁判で民間人としてただ一人A級戦犯に問われた理由である。映画『極東裁判』をご覧になった方はご存じだろうが、裁判冒頭で東条英機の頭を後ろから叩いたのが大川である。裁判を避けるための狂言と言われたが、主治医の内村祐之博士は当時大川は脳梅毒の進行性麻痺症状で、治療によって回復したが連合軍は大川の裁判復帰を認めなかったと証言している。
大東亜共栄圏は戦争の悲惨と直結しているので大川の著作を読むのは今では歴史学者くらいである。しかし『米英東亜侵略史』などに書かれた当時の大川の世界認識は決して間違っていない。単純に言うと大航海時代以降の世界の盟主はヨーロッパであり、中東・アジア植民地エリアの盟主はイギリスだった。そしてヨーロッパ列強の主戦場は長い間大西洋だった。
第一次世界大戦後にアメリカが実質的に新たな世界の盟主となったが、アメリカは旧宗主国イギリスに倣うかのように、ヨーロッパ列強が鎬を削る大西洋ではなく太平洋に目を向けた。アメリカ政府は一貫して植民地を持つことに反対、というか躊躇していたが、それでもハワイとグアムを併合しフィリピンは併合一歩手前まで行った。現代に至るまでアメリカの実質的太平洋支配は強固である。
またアメリカはヨーロッパ列強が手を焼く植民地経営ではなく、貿易や鉄道施設権、採掘権などによる実利を求めた。大川は「中国は世界最大の市場になる」と書いている。アメリカが目をつけたのは巨大市場中国であり、その利権を巡って次第に日本と激しく衝突するようになった。
大川の著作は先の大戦の簡便なレジュメである。大川がはっきり書いているように、第二次世界大戦は日本にとって、小国日本が大国アメリカと太平洋の利権を巡って衝突した「太平洋戦争」だった。アジアに目を向けると最大の植民地支配国、イギリスをアジアから放逐するという大義名分を掲げた「大東亜戦争」になる。だから当時の日本人は、イギリスとの直接交戦が少なかったにも関わらず、太平洋戦争―大東亜戦争を英米戦と捉えていた。ヨーロッパ列強の植民地は中東にまで広がっていたが、大川の「東亜」の定義は地政学的にも宗教的区分でもインドまでだった。大東亜共栄圏構想究極の目標は欧米列強による世界支配を終わらせることだった。
針金細工の三輪車
針金製 昭和初年代(一九三〇年代頃)
縦一八×横七・八×高九・二センチ(いずれも最大値)著者蔵
植民地支配からの東亜諸国の開放の理想を掲げ、現実によってそれを大きく失墜させていった大川周明という思想家の歩みは、戦前の日本が抱えていた歪みを鮮やかに浮き彫りにしている。五・一五事件に連座して市ヶ谷刑務所に収監された際の日記で、大川はしきりに明治維新の英雄たちを論じている。明治維新から六十八年しか経っていないとも書いている。その短さは、終戦から現在まで七十五年だということを思い起こせばよくわかるだろう。また感覚の鋭い人なら少なくとも百年は時間を遡ってそれを同時代化できる。大川は明治維新を肉体感覚で捉えていた。
明治維新から太平洋戦争開戦までの七十三年間に日本は無理に無理を重ねた。急務だった産業の近代化は財閥を生み、またたく間に貧富の格差が拡大した。政財界の癒着がその改革を困難にした。維新時の強力な政府の必要性は立憲君主国家になっても専制政治の抜け道を残した。また一等国を称したが欧米先進国へのコンプレックスはいつまでも根強かった。
大川や北一輝といった思想家・政治活動家が唱えた〝昭和維新〟は、明治維新以降に澱のように溜まった諸矛盾を解消するためのものだった。大川の大東亜共栄圏構想はアジア主義とも呼ばれるが、欧米中心世界で日本を含むアジア諸国のアイデンティティを確立するための思想でもあった。ただそれを現実政治に求めたことで、大東亜共栄圏構想は侵略戦争の大義名分にすり替わっていった。
僕は戦争関連の古物をポツポツ集めながら、なぜ太平洋戦争―大東亜戦争が起こったのかをずっと考えていた。なぜ今では当事者ですら「あれはなんだったんだろう」と首をかしげるような狂信的皇国主義に凝り固まったのか、その理由を考えていた。小林秀雄を始めとする俊英ですら、きちんと説明できていないからである。ただそれは彼らの能力の問題ではないと思う。日本近代社会の歪みは巨大な力となって無謀な太平洋戦争を引き起こしたが、弾けてしまえばその理由は虚空に消え去ったかのようだ。社会が抱えた巨大なフラストレーションの姿は一定の時間が経たないと相対化できない。
日本に限らないが一つの国が抱える矛盾の根は複雑で深い。臨界点に達すると太平洋戦争、戦後だと反米、反日運動などになったりするわけだが、仮想敵はガス抜きに過ぎず根本的問題は解消されない。積み重ねられてきた諸矛盾の理由は必ず自国の歴史の中にある。大きな臨界点に達すればロシアのように体制崩壊が起こったりもするが、そんな悲劇を経てもなお、なぜそうなったのかを明確にするには時間がかかる。
文学ジャーナリズムにはすっかり縁遠くなってしまったが、それでも最近書かれた論をポツポツ読むと、一時期に比べて歴史認識、文学史認識が甘くなっていると思う。新たな視点は必要だが基盤は動かしようがない。明治大正から戦前、戦後の文化状況、文学状況を総括できるのは、肉体感覚でそれを知っている僕らの世代が最後のチャンスかもしれない。まあ少なくとも明治文学論、詩史論くらいは仕上げたいものだと思う。
ただそういった仕事が直接的に創作に反映されるかというと、そうでもないでしょうな。詩は直観表現だから多少の影響を受けるだろうが、小説への影響はほとんどないと思う。正確な歴史認識を持っていても、漱石のように「それがどうした」で俗事を描くのが小説文学というものだ。ただ歴史認識から得た切迫感は必ず作品に反映される。
今は昔の日本に代わって中国が「中国的アジア主義」を掲げてアメリカやヨーロッパ諸国と激しく対立しかねない時代である。僕らは長年漠然とだが韓国主導で北朝鮮との韓半島統一が為されるだろうと考えてきたが、南北が複雑に絡み合って同時に変革が起きる可能性も出てきた。どうやら二十世紀半ばに確立され、いまだ世界秩序となっている体制がアンシャン・レジーム化する時代になったようだ。そういった時代に浮世離れした文学に従事するのは勇気がいる。小説で男と女の話を書いても切迫感をもたらすのは歴史認識でしょうな。ぴよぴよと骨董で遊びながら、「どうしたもんかねぇ」とけっこう真剣に考えているのである。
(了)
鶴山裕司
(図版撮影 タナカユキヒロ)
(2021/04/24 17枚)
■ 大川周明関連の本 ■
■ 鶴山裕司さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■